Wildfire

救いを求めて

 リックとシェーンは、CDCに行ってジムを治療する手立てを見つけるか、皆の安全を確保するためにフォートベニング基地を目指すかで揉めているらしい。CDCって何だろう。よく分からないけれど、答えを教えてくれる人はいない。だけど、きっとリックが信じている方が正しいんだろう。ジムを治せるかもしれないなら、その選択肢を選ぶべきだとり以子は思っていた。

 キャンピングカーの前に遺体が並んでいる。損傷が激しくて、顔を見ても誰だか分からなかった。真ん中の人なんて、ほとんど食べ尽くされて骨しか残っていない。これはキャンプにいた誰かなんだろうか?遺体の傍にしゃがみ込んで首を傾げていると、真後ろでザッと土を踏みつける音がした。

「どけ。食われるぞ」

 吐き捨てるような話し方はダリルのものだ。何と言ったのか分からなくて、座り込んだままじっと顔を見上げていると、眉間にしわを寄せて睨まれた。

「邪魔だと言ってんだ。あんたの軽い頭も一緒にブチ破ってやろうか?」

 ダメだ。この人の英語は全然聞き取れない。スラング混じりだし、親切な文法でもない。他の人のように、り以子のために分かりやすく言い直してはくれず、り以子が聞き取れないのが悪いと言わんばかりに一方的に言葉を押し付けてくる。

「何だよ、文句でもあんのかメスガキ」

 多分「邪魔だからどけ」というようなことだろうと適当に見当をつけて、り以子はのそのそと立ち上がり、ダリルの突き刺すような睥睨を受けながら後ろに下がった。ダリルはフンと鼻を鳴らした。そして、遺体に向かってつるはしを振り上げた。

 ああ、そういうことか。
 り以子は慌ててパッと顔を逸らした。頭蓋骨が砕けて脳みそが飛び散る様は、見てて気持ちの良いものではない。

 嫌な音を立てて死体からつるはしが引き抜かれた。ダリルが続けて隣の男性らしき遺体に取り掛かろうとしていると、キャロルがやって来て「私がやるわ」と申し出た。

「私の夫よ」

 り以子は思わずまじまじと遺体を凝視していた。これはエドだったのか。鼻がなく、唇がちぎれて歯列がむき出しになっている。胴体なんて肋骨しかない。り以子の記憶にあるエドの姿とは程遠い。

 ダリルから躊躇いがちに渡されたつるはしを握ると、キャロルは涙をこぼし、嗚咽をこらえながら、夫の顔面にそれを叩きつけた。ドスッ、ぐちゃっと耳を塞ぎたくなる音が二度も三度も続き、り以子は思わずきつく目を閉じ、唇を引き結んで時が過ぎるのを待った。

 何かの砕ける音を最後に、キャロルはようやく手を止めた。彼女がすすり泣く声を聞きながら、頭の中に一つの単語を思い浮かべる。

「……けじめ……」

 ややあって、ダリルに「おい」と呼ばれた。り以子が目を開けて顔を上げると、ダリルは無言で顎をしゃくり、デールのいる方を示した。あっちに行けということなのだろう。会釈を残して立ち去る時、ダリルからじっとりとした溜め息が漏れたのが聞こえた。

***

 エイミーがウォーカーに転化して、アンドレアが撃った。切り立った渓谷に一発の銃声が悲しく反響して、り以子にはそれが何かが壊れたような音に聞こえた。

 遺体を全て処理し終えると、ディクソン兄弟の車の荷台に乗せて、ダリルが丘の上まで運んで行った。結局、遺体の処理のほとんどを彼に任せてしまった。それも一番の汚れ仕事ばかりをだ。そんなり以子の心配をよそに、当の本人の不満は別のところにあるようだった。シャツに汗を滲ませて墓穴を掘る保安官二人に、ダリルが意を唱えている。

「埋めるのは間違いだ。『死人』は全員焼くって決めたはずだろ」
「最初はな」
「感情的な中国人の言いなりになるのか?」
「韓国人」

 少し遅れて、歩いて埋葬場所に着いたり以子が反射的に口を挟んだ。ダリルが白けた顔でり以子を一瞥した。

「どっちでもいい。リーダーと規則をはっきりさせるべきだ」
「規則はない」リックが手を休めてきっぱりと言った。
「それが問題よ」と、ローリが指摘する。「仲間の死を悲しみ追悼する時間もないの?死者は埋葬する──それが規則よ」

 掘った墓穴に一人ずつ遺体を納めていくのを、全員で見守った。アンドレアはエイミーの遺体を穴に運び込むのに苦労していたが、最後まで一人でやるのだと言い張って、手を貸そうとするデールを頑なに拒んでいた。元の服の色が分からないくらい返り血に染まった姿が痛々しかった。

 埋葬の儀が終わった後、り以子は無性にジムの見舞いに行きたくなったが、彼が寝込んでいるキャンピングカーにはリックに「入るな」と言われてしまった。ジムの容体はり以子が思っている以上に悪く、本人から「り以子に姿を見られたくない」と聞いたそうだ。ジムはまたり以子が彼を怖がると思ったのだろうか?なんだか虚しくなった。

 することもなく、木陰にしゃがんでぼんやりと景色を眺めていると、隣に誰かが腰を下ろした。大きな影が視界の端に映り込む。誰だろうと顔を横に向けてぎょっとした。木の幹にショットガンを立てかけ、人二人分くらいの距離を空けて座っていたのは、ダリルだった。

 途端に緊張してしまった。ダリルはり以子を見ておらず、り以子がさっきまで眺めていた何てことのない景色をつまらなそうに睨んでいる。

「何だよ」

 り以子がガン見していたのに気配で気づいたのか、低い声で威嚇された。り以子はパッと目を逸らし、ダリルと同じ方向に顔を向けた。

 二人とも無言だった。平静を装うり以子の心臓はばくばく変な音を鳴らしている。り以子が喋れないのは英語が不自由なので当然のことだが、わざわざ近くまでやって来て何も言わないダリルは何のつもりなんだろう?もしかしたら、ここは元々ダリルの縄張りなのかもしれない。退散すべきは自分の方かとり以子が本気で迷っていると、ダリルがようやっと口を開いた。

「あんたの短剣、見つからなかった」

 やっぱり聞き取れなくて、り以子は顔をしかめた。ダリルは構わずぽつりと続けた。

「兄貴はいなかった」

 さすがのり以子にも分かる言葉だった。『兄貴はいなかった』──やはり、メルルが彼らと一緒に戻って来なかったのは、再会が叶わなかったからなのだ。だけど、どうしてだろう?メルルは右手を繋がれて動けなかったはずだ。

「右手を置いてった」

 つい呻き声が漏れた。まさか、手錠が外れないから手の方を切り落としていったのか。なんて根性だろう。それともそこまで精神が追い詰められてしまったのか。想像に堪えない。

「……痛そうです」

 色々と巡らせて、やっとのことで出て来たのがそれだった。物凄く頭の悪そうな言葉だったが、ダリルは特に馬鹿にするでもなく、一瞬だけり以子の横顔を見て、すぐに目を戻した。

 しばらく、どちらも口を利かなかった。微妙な間隔を空けて二人並んで座り、退屈な風景をじっと見ていた。ダリルの隣はやっぱり怖くて、気まずくて、早くどこかに行かないかなと思ったが、ほんの少しだけ、もうちょっとこのままでいてもいいかなと思う自分がいた。

 その日の夕方、シェーンがとうとう折れて、行き先がCDCに決まった。しかし、一人一人に選択権があった。反対ならば離脱し、賛同ならばリックたちと共に行く。一晩考えて、明日の朝出発ということになった。

 自分はどうだろう。
 もやもやと悩むり以子のテントに、その夜、来客があった。

「ここへ来てから、あまりゆっくり話してなかったと思って」

 リックはテントの入り口横にしゃがみ、梢の合間から星空を見上げていた。言われてみれば、リックとこうして二人で時間を共有するのは久しぶりのような気がした。

「君は俺たちと一緒に来るか?」

 り以子はすぐには頷けなかった。英語が聞き取れなかったからではないと、気を遣って話すリックには分かっていただろう。悲しげに目を揺らすリックに、り以子は少し胸を痛めた。

「私は日本の学校の人たちを探したいです」

 悪いとは思いながら、正直に気持ちを打ち明けた。

「……君は、彼らが全員無事でいると思うか?」
「私は思いません。一人は既に死んでいます」

 リックは少し黙り込んだ後、微かな声で「『亡くなった』、だ」と言い正した。なるほど、『亡くなった』。そっちの言い方の方がいい。

「私の行き先は決まっています。私はあなたに会うまで、先生とクラスメイトに会うために歩き続けていました。日本のお家に帰るため……私は家族が恋しいです」
「り以子、それは……」

 リックはその先を言い淀んだ。それは難しいとか、それは無理だろうとか言いたかったのかもしれない。

「私は、私のことを知っている誰かと一緒にいたいです。一人でいることはとても辛いです。でも、どこへ行けば彼らと会えるのか私は分かりません」

 言葉にすると、はっきりと形になった絶望がり以子の心に重たくのしかかった。

 ずっと一人で何とかできると思っていたわけじゃない。目を逸らしていただけだった。り以子一人ではどこへも行けない。一度に一体のウォーカーしか相手に出来ないので、一人で昨日のような目に遭えば死んでしまう。果てしなく続く、先の見えない道の上に立ち、途方に暮れているのが自分だ。

「リックさん──私、どうすればいいですか?」

 唇をわななかせて手を伸ばすと、リックがそれを掴んで彼の大きな手の中に閉じ込めた。

「……きっと君を皆のもとへ帰そう。り以子。約束する。必ず君を君の行きたいところへ送り届ける。だから、今はもう少し俺に預けさせてくれないか?」

 り以子の頬にはらはらと涙が流れた。

「絶対に君を一人にしない。お巡りさんを信じてくれ」

 冗談めかして笑うリックにり以子は小さく笑った。そして、ふと思い出した疑問を口にして、彼を硬直させる。

「そういえば、CDCって何ですか?」