Wildfire

救いを求めて

 翌朝、全員がテントをたたみ、出発の準備を終えて集まると、シェーンからいくつか連絡事項が言い渡された。

「無線を持ってる者はチャンネル40に合わせろ。無線が使えない時に何かあったらクラクションだ。全車停車しろ──何か質問は?」
「……俺たちは行かない」

 モラレスの一言に、一同が押し黙った。モラレスの妻が続けて「バーミングハムの親戚と一緒にいたいの」と告げる。

「たどり着けると思うか?」
「賭けてみる」モラレスは揺らがない。「家族のためだ」

 リックが本気か問うと、モラレスはきっぱりと家族で決めたことだと頷いた。

「……分かった。シェーン」
「ああ」

 リックとシェーンはバッグから拳銃と弾を取り出した。ダリルが鋭い目を向けている。二人が武器をモラレスの一家に手渡したのを見て呆れたように息を吐き捨てたので、貴重な武器を手放しやがってとでも思ったのだろう。

 一家がお別れのハグとキスをしているのを、り以子は何とも言えない気持ちで見つめた。きっと彼らと会うことは二度とない。本当のお別れだ。それを子供たちも分かっていて、悲しみに涙を滲ませていた。ソフィアはイライザから女の子のお人形をもらっていた。

「チャンネル40だ。気が変わったら連絡しろ。いいな?」
「ああ」

 モラレスはリックに頷いて見せたけれど、おそらくその時は来ないだろうと思った。

 り以子がリュックを担いでリックのもとへ向かうと、彼が乗る車は既に満員だった。グライムズ一家とペルティエ親子で五人になるのだから仕方ない。Tドッグの車もアンドレア一人しか乗せられないという。キャンピングカーは熱に魘されるジムと、彼を看病するジャッキーがいるので駄目だ。まさかここに来て「乗れる車がないからやっぱりさようなら」なんてことになるのではと冷や冷やしていたら、リックがシェーンの車に乗せてもらえるよう交渉しに行ってくれた。

 しかし、

「すまない。シェーンの車は揺れがすごいし、武器を積んであるから君まで乗せられない、と」
「え、えー……」

 リックがすまなそうに戻ってきて、それから、考え込むように一台の車を見た。最後尾のシェーンの一つ前。派手なチョッパーハンドルのバイクが積み込まれた、ダリルの車だ。

「嫌!」

 り以子がすかさず言った。しかし、リックは急に耳が遠くなって、り以子の腕を掴んでダリルの車へ引っぱって行った。ダリルは窓を開けてそこに肘をつき、もう一方の手をハンドルにかけたままぼうっとしていたが、二人がやって来ると警戒的な目を向けた。

「なんだよ」
「り以子を乗せてやって欲しい」
「断る」

 さあもう一度シェーンに頼もうと踵を返すり以子を引き戻し、リックは説得を続けた。

「君の車には空きが一つあるだろう。他にスペースがないんだ」
「ふざけんな。あんたのペットだろ。自分で面倒見切れないなら捨ててけよ」

 ダリルの鋭い目が冷たくり以子を一瞥した。り以子は絶対嫌なことを言われたと確信した。

「俺の隣が空いてるのは、誰かさんが俺の兄貴を見殺しにしたせいだ。そいつのためじゃない」
「ダリル──彼女を荷台に括りつけて運ぶわけにはいかない。頼むから乗せてやってくれ」

 二人の男性の間に剣呑な空気が漂っている。り以子が睨み合う彼らを不安そうに見つめていると、特大の溜め息と共にダリルが折れた。り以子が聞いたことのない酷い悪態をつきながら乱暴にドアを開けて車を降り、強引にり以子のリュックを剥ぎ取って荷台に放り投げた。そして、びっくりして動けないでいるり以子の襟首を掴んで、引きずるようにして助手席に連れて行った。

「さっさと乗れ!」

 ダリルがドアを開けてり以子を座席にドンと突き飛ばした。り以子は脛を車体に打ってしまい、猛烈に痛がったが、ダリルは気にも留めずに運転席に戻って行った。

 り以子が怯えきった顔でリックを見るも、もう行ってしまった後だった。観念するしかなかった。ダリルの車は煙草のきつい臭いがした。座席がざらざらしていたので軽く手で払ってから座ると、今度は足元に空き缶が溜まっているのに気づいてしまった。

「じっとしてろよ。うるさくしたら振り落としてやる」

 ダリルがわざと物凄い音を立ててドアを閉めたので、車が壊れやしないか心配になり、り以子はなるべく静かにドアを閉めた。シートベルトを引き出して締めていると、横から宇宙人でも見るような目で見られた。

「……よろしくお願いします」

 戸惑いつつも軽く頭を下げると、いよいよ引かれた。

 ついに出発だ。モラレスの車が反対方向に行くのを見送りつつ、キャンピングカーを先頭に皆の車も動き出した。数日しかいなかったが、ここで色んなことが起きて、色んなものを失った。ちらと運転席を窺うと、ダリルは何かを堪えて押し込みながら、睨みつけるように前を向いていた。

***

 あまり進まないうちに、先頭のキャンピングカーが止まった。ウォーカーが出たのかと思いヒヤッとしたが、どうやら車が故障したせいのようだ。

「ホースが保たないから交換しろと言ったのに」
「応急措置を」
「ダクトテープで固定していたが、もうテープもない」

 もくもくと断末魔の煙を上げるキャンピングカーを前にして、デールがリックと揉め出した。ショットガンを持ったTドッグと、ボウガンを抱えたダリルが周囲を見張っている。り以子は暴力的な眩しさに手でひさしを作り、イライラと歩き回るダリルをこっそり見た。さっき気づいたのだが、ダリルの服には袖がない。初めからそういうデザインなのかと思ったが、よく見ると力任せに引きちぎったみたいだ。よく鍛えられた太い腕には袖が窮屈なんだろうか。

 シェーンが双眼鏡越しにガソリンスタンドらしき建物を見つけた。何人かで向かおうという相談になった時、ジャッキーが息を切らして飛び出してきた。

「ジムの容体が悪化したわ。これ以上無理よ」

 り以子は小さく息を飲んだ。リックは気遣うような視線を寄越すと、帽子を脱ぎ、溜め息まじりにキャンピングカーへ入っていった。

 もしかして、もう駄目なんだろうか?どうして?車が壊れて予定より遅れているから?せっかくCDCに行こうとしているのに、ジムが「手遅れ」じゃ意味がない。

 しばらくしてリックが降りてくると、彼は深刻な顔をしていた。青ざめるり以子の頭を慰めるように撫でてから、皆を呼びつけた。

 ジムが「ここで降りる」と言いだしたらしい。

「彼の望みだ」
「正気で言ってた?」

 キャロルが心配そうに訊ねると、リックは言いづらそうに肯定した。もしや、リックはジムをここへ置いていくつもりかとり以子が詰め寄ろうとすると、デールに片腕を伸ばして制された。

「キャンプで『ダリルは正しい』と言ったが、あんたは誤解した。俺は決して『殺せ』と言いたかったわけじゃない。提案しようとしたんだ、『ジムの意思を聞こう』とな──これで答えが出た」
「ここにジムを置き去りに?それはどうかな」

 シェーンも渋っているようだった。

「決めるのは彼自身よ」と、ローリが言った。

 ジムはやはり離脱を選んだ。耳鳴りのするような炎天下、リックとシェーンに抱えられてキャンピングカーから出てきた彼は、健康だった時を思い出せないくらい青白く、やつれて、汗だくだった。二人は道路脇の林の中、大きな木の幹にもたれかかるようにジムを座らせた。ジムは屋根のように覆い被さる立派な梢を見上げて、弱々しく笑った。

「随分でかい木だな」

 シェーンが考え直すよう言っても、ジムは首を縦には振らなかった。

「ここで十分だ。風が気持ちいい」
「……そうか。分かった」

 シェーンは溜め息を零して項垂れた。

 ジャッキーが汗ばんだ頬にお別れのキスをした。リックは拳銃を一丁差し出したが、ジムは断った。デールはお礼を言い、グレン、キャロル、そして子供たちは涙をこらえ立ち去った。蝉の大合唱の中、り以子、ジム、ダリルの三人だけが残される。

「り以子」

 随分と嗄れてしまったジムの声に名前を呼ばれ、り以子の涙腺が急激に熱を持った。唇を噛み締めながら濡れた目を持ち上げると、信じられないほど穏やかなジムと目が合った。

「君と出会えて良かった。もう一度父親になれたようだった」
「ジムさん……」
「最後に一つ教えてくれないか?──君の国の言葉で、“さようなら”は何と?」

 まるで昨日までと立場が入れ替わったみたいだ。り以子はちょっとおかしくなって笑ったが、すぐにこらえきれなくなった悲しみが一粒零れ落ちて、慌てて手で拭った。

「り以子」

 急かすように名前を呼ばれ、顔を上げる。り以子は震える唇で、

「『ありがとう』」
 と、言った。

「そうか──『ありがとう』」

 り以子はバッと頭を下げ、十秒以上深々と礼をした。最後にもう一度、しっかりとジムの目を見て、その顔を記憶に焼き付ける。弱々しくも優しく微笑む彼に一つ言い残し、り以子も去った。

「──『ありがとう』」

 その後ろで俯いていたダリルが、重たげに目を上げてジムを見つめた。そして、一つ小さく頷いて見せ、ゆっくりとその場を後にした。

「私は嘘をつきました」

 ダリルの車に向かいながら、り以子は独り言のようにささやかな声で零した。真後ろを歩くダリルは無言のままだ。だけど、きっと聞いているだろうと思った。

「あれは“ありがとう”です」

 ダリルは運転席のドアの前で一度立ち止まって、ちらりとり以子に目をやった。

「……恨んじゃいねえだろうよ」