TS-19

残された希望

 大勢の人が走っている。車道も歩道もなく、着の身着のまま、恐怖に染まった顔で。り以子と蓮水はガッチリとドアを閉め、鍵もチェーンもかけて、背中で押さえるようにして張りついた。

 どこかで車が激突したようだ。鉄がひしゃげ、ガラスが砕け散る悲惨な音が聞こえ、あちこちから悲鳴が聞こえた。り以子のこめかみを冷や汗が伝う。二人とも息が震え、指先は氷みたいに冷え切っていた。

「マーヴィンさんとリーザさんは?」

 時折ドンドンとドアが揺れる。蓮水は恐怖に怯え、今にも泣き出しそうだった。

「分かんない。ステイシーを迎えに学校に行くって」
「行って帰るのに二日もかかる?」
「市外の大学だから遠いって聞いた……」
「いくら遠くたってそんなにかかるはずないじゃん!国境でも跨ぐの?」

 またドアがドン!と揺れ、二人は息を呑んで体をドアに押しつけた。しばらくして気配が遠ざかると、り以子は責めるような目でジロリと蓮水を睨んだ。

「……静かにしてよ。何のために電気消してると思ってるの?」
「り以子の声だってうるさいから!」
「はあ?静かにしてますけど」
「偉そうにしないでよ!まじでムカつく!」
「ほら、またデカい声出してる──」

 ドン!
 慌てて口をつぐむ。

 救急車か、パトカーか、もしくはそれ以外の何かが放つ赤い光が、グルグル回りながらカーテンの隙間から差し込んでいる。ドアのすぐ裏で地を這うような唸り声が聞こえ、背筋が凍りついた。

 ドア一枚挟んだ外の世界はパニック状態だ。一秒ごとに人が死に、救助の手が追いつかない。こんなの経験したことがなかった。自分の命の守り方さえ分からない。命を預け合う相手は数年来の親友だったが、彼女すら信じきれず、相手からも信用されていないのが感じ取れた。

「……うちら逃げ遅れたんだよね」

 ひっきりなしに上がる悲鳴を聞きながら、蓮水がぽつりと呟いた。その目は心なしか濡れている。

「置いて行かれた感はある」
「そりゃそうだよね。外国人だもん。あの人たち、二度とこの家に戻って来ないつもりだよ」
「クラスの皆はどうなってるかな?うちらと同じようになってると思う?」

 答えはなかった。それが暗に肯定を示していた。

 遠くで聞こえるドリルみたいな音は軍隊が何かを撃っているだろうか?人々の声はその音から遠ざかるように大移動している。軍隊がいるのだとしても、彼らはり以子たちを助けてくれるわけではないらしい。蜂の巣になりたくなければ、あの銃撃音が近づいてくる前に逃げ出さなくてはならない。

「どうしよう……」
「どうしよう」
「死にたくない死にたくない死にたくない」

 蓮水は呪文を唱えるようにブツブツ呟いている。り以子は背中をドアに押しつけたまま、何か手はないかとあたりに目を走らせた。

 その時、目の前の窓がけたたましい音を上げて弾け飛んだ。息を呑む二人。砕けた窓から血みどろの腕がぬっと入り込んで来るのを見て、我慢できずに絶叫した。

「ヤバいヤバいヤバい!ヤバいからマジで!」り以子が叫ぶ。
「入って来たりしないよね?窓狭いし大丈夫だよね?」

 はっきり「大丈夫」とは言えるはずもなかった。腕は窓枠に残ったガラスをこすり落とすように動き、自らを傷つけながら入って来ようとしている。

「ねえり以子マジで何とかできないの?居合道部でしょ?」
「無茶振りしないでよ!蓮水こそ何とかしてよ!」
「バドミントンでどうにかなるならとっくにやってるから!」

 またガラスの割れる音がして、二人の悲鳴が揃った。今割れたのはどこの窓だ?全身から血の気が引いた。

「蓮水、逃げよう!もうダメだここ!──きゃあ!」

 背中のドアに衝撃が走った。再度体重をかけて押さえ直したが、これ以上保つとは思えない。

 り以子は横目に蓮水を見た。
 彼女もまたり以子を見ていた。

 二人は互いに頷き合うと、いっせいのせでドアから飛びのいた。直後、すさまじい音を立てて木製のドアが蝶番ごと吹き飛んだ。だが、二人ともそれを見ていなかった。何が入って来たのかも理解していなかった。迫る脅威を知ることより、がむしゃらに生き延びることを選んだ。

 ソファの裏に用意してあった帰国用のトランクを掴み、キッチンの勝手口を蹴り破って外へ飛び出した。遠くで何かが爆発したのか、激しい熱風が吹きつけてきて、危うく転びそうになりながら庭を横切った。

 ごうごうと燃え上がる炎が夜空を赤く染め上げる。それに背を向け、手を繋いで走り去る二人の行く先は、果てしない夜の暗闇に続いていた。

***

 これは現実だろうか?──突如として現れた白く輝く光の入り口を前に、皆は半信半疑で立ち尽くした。ライトが消えると、こちらに向かって開いたガラスの扉の向こうに、広々としたエントランスホールが続いているのが分かった。主要の照明は機能しておらず、非常灯だけが点灯して、正面に掲げられた大きな『CDC』のロゴタイプをぼんやりと照らし出している。

「ダリル、後ろを頼む」

 シェーンに言われ、ダリルが最後尾で銃を構え直しているのが見えた。り以子はグレンに手を引かれ、警戒しつつ先陣を切るリックに続いて入り口をくぐった。

「誰か?」
「ウォーカーの侵入に注意しろ」

 全員が建物内に入っても、迎え入れる人は現れない。人気が全くなかった。広々としたホールに皆の話し声が虚しく反響している。

「おい!──」

 リックがもう一度声を上げた時、ガチャリと銃を鳴らす音がした。グレンが息を呑んでり以子の前に飛び出し、ショットガンを構えた。同じくリックが銃を向けた先に、Tシャツ姿の男性の影があった。銃を抱え、警戒的な目つきでこちらを伺っている。休んでいたところだったのか、髪の毛がボサボサだった。

「誰も感染してないか?」
「感染した仲間は、置いて来た」

 リックが答えると、男性はゆっくりと近寄って来た。「何しに来た?」

「──生きたい」
「今では難しい願いだ」
「そうだが……」

 リックが口ごもり、ホールは水を打ったように静まり返った。男性は忙しなく目を左右に走らせ、すがりつくように自分を見つめる弱り切った皆の表情を確認した。

「……入場料代わりに血液検査を」
「受けるよ」リックが答えた。

 すると男性は銃を下ろし、正面玄関のドアを指差して口早に言った。

「早く持ち物を運び込め。ドアが閉まったら二度と開かない」

 ダリルを先頭に、シェーン、リック、グレンが荷物を取りに走った。Tドッグとデールがショットガンを構えてドアの両端に立って待ち、四人が駆け戻って来ると素早くドアを閉めた。男性は壁の制御装置にカードを通し、「バイ」という人物に玄関を封鎖し電源を落とすよう言いつけている。自動的にシャッターが閉まり、一同はようやくホッと安堵の息をついた。

「リック・グライムズだ」

 男性はリックの差し出した手を一瞥すると、表情を変えずに名乗った。

「エドウィン・ジェンナー博士だ」

 一行はジェンナー博士に連れられてエレベーターに乗った。その辺のデパートに比べたらかなり大きなエレベーターだったが、流石にこの人数がいっぺんに乗り込むと窮屈だった。

 り以子は角に寄りかかるダリルと、居心地悪そうにしているグレンに挟まれて、ぎゅうぎゅう押し潰された。狭いのだから詰めてほしいのに、ダリルは我が物顔で気遣いがない。ショットガンを持つ腕の汗ばんで冷えた肌が、り以子の腕に押しつけられる。なんか嫌だなと思いはしたが、ダリルに文句をつける勇気はなく、何気なくグレンを見上げたら、何故か物凄くきまり悪そうな顔で「ごめん……」と謝られた。

「博士も銃を持つのか?」

 ダリルが疑り深い目でジェンナーを睨んでいる。ジェンナーは鋭い視線をものともせずにさらりと答えた。

「ウォーカー退治のためだ。君たちは撃たない──でも君には気をつけなきゃ」

 話している内容は分からないけれど、カールにジョークを言っているらしい気さくな姿には好感が持てそうだと思った。

 エレベーターを降りると、一行は長い廊下をひたすら歩かされた。窓がなく、照明がズラリと並んでいる。きっと地下なのだろう。だからウォーカーに攻め入られることなく無事を保てているのだ。しばらく歩くと、大きな円形のフロアに出た。

「バイ、照明をつけろ」

 リング状の照明がたちまち明かりを放った。ジェンナーは「ようこそ、ゾーン5へ」と皆を中へいざなった。中央に白いデスクが並び、向こう側に大きなスクリーンが見える。赤いデジタル時計のようなものが気になったが、それよりも疑問に思うことがあった。

「他の職員はどこにいるんだ?」

 皆を代表してリックが訊いた。

「……いない。ここには俺一人だ」
「さっき話しかけた……『バイ』は?」

 ローリが指摘すると、ジェンナーは再び天井に向かって話しかけた。

「バイ、お客さんが来たぞ。彼らに挨拶を」
『ようこそ、お客様』
「日本語でも」
『“こんにちは、お客様。ようこそ”』

 り以子が「えっ」と息を呑んだ。感情のない女性の声が、不自然すぎるほど流暢に二ヶ国語をしゃべっている。

「AI……」

 り以子がつぶやくと、ジェンナーは「そうだ」と頷いた。

「人間は俺だけだ。残念だが」