TS-19

残された希望

 一同は講義室のような部屋に連れて行かれ、一人ずつ血を抜き取る検査を受けた。リックとジェンナーのやり取りをちゃんと聞いていなかったせいで、り以子は血液検査をすることを知らず、心の準備ができていないままトップバッターで血を抜かれた。

「あう……」

 こんな世界になっても注射を受ける羽目になるとは思わなかった。小さな正方形の絆創膏が貼られた腕を折り曲げてげっそりした顔をしていると、ダリルに鼻で笑われた。

「ようチビ。ハンカチいるか?」

 ムカッとしたけれど、それを伝える語彙力と勇気はない。自分の番だと靴底を擦るような歩き方で向かって行くダリルの大きな背中を睨んでいると、今度はTドッグに笑われた。

 アンドレアの番が終わって彼女が立ち上がると、貧血で眩暈を起こしてしまった。大丈夫か訊ねるジェンナーにジャッキーが数日何も食べていないのだと告げると、彼はちょっと考え込んでから、皆を食堂に案内してくれた。食堂にはありあまる食料と酒があった。こんな豪華な夕食は二度と食べられないだろうと思っていたので、みんな疲れも苛立ちも吹っ飛んでしまった。

 幸福と笑いに包まれたテーブルで、久々に飲むサイダーの刺激を味わう。こうしていると、これまでのサバイバルは全部嘘で、修学旅行のイベントの続きをしているように思えた。特に酒を嗜む大人たちは嬉しそうだ。ダリルでさえカウンターに浅く腰掛け上機嫌にボトルを呷っている。

 大人にそそのかされてワインに口をつけたカールが、想像と違う味に顔をしかめた。大爆笑が起こり、り以子も悪いとは思いつつ笑ってしまった。

「サイダーがお似合いだな」と、シェーン。
「お前は飲め、グレン」

 ダリルが追加のボトルを取りに行きながら言った。藪から棒に指名されたグレンは、戸惑ったように笑いながら「なぜ?」と返した。

「どこまで赤くなるか見たい」

 悪魔のような顔だとり以子は思った。

「り以子は飲まないの?」

 ソフィアが興味津々といった感じで身を乗り出してきた。り以子がフォークの反対側でサイダーを指すと、グラスにワインを注ぎ分けていたダリルが鼻先にボトルを突き出してきた。

「いい、いい、いい!」
「飲めよ!法律なんかクソくらえだ」
「私はお酒があまり好きではありません!」

 隣のシェーンから刺すような視線を感じて、り以子は遅れて失言に気がついた。

「その口ぶりは、さては飲んだことがあるな?」
「ヤバい!」

 皆がドッと笑った。

 不意にリックがグラスを鳴らし、皆を静まらせて立ち上がった。

「主催者に礼を言おう」
「彼は命の恩人だ」

 ワイングラスを掲げたTドッグを見て、り以子も慌ててサイダーのグラスを持った。

乾杯Booyah!」

 いやにご機嫌なダリルが乾杯の音頭を取ると、皆も笑顔でそれに倣った。り以子の掲げたグラスにダリルがワインボトルをぶつけてきて、チンと小気味いい音が響く。いい感じに出来上がっているらしい。いつも仏頂面をしている彼だが、こんな表情もするんだなあと新鮮な気分になった。

「……一体何が起きたんだ?」

 喜びを割くように、シェーンが疑問を口にした。

「ここで、他の博士たちと一緒に研究してたんだろ?──彼らは?」
「祝いの席だぞ、シェーン。今はよせ」

 リックがたしなめたが、シェーンは他の人と比べてあまり機嫌がよくないようで、強引に話を押し進めた。

「ここに来た目的は?答えを求めて来たのに、見つけたのは……彼だけだ。一体どういうことだ?」

 ジェンナーは一度目を伏せ、ゆっくりと語り出した。

「危険が迫って来て、多くの研究者たちが家族の元に戻った。さらに状況が悪化し、軍の非常線も破れて、残りも去った」
「一人残らず?」
「いいや。多くは怯えて外へ出られず、生きるのを諦めた。大勢が自殺したんだ。悪夢だったよ」

 り以子は全て分からなくとも、「自殺」という単語で大体を察した。

「あなたは残った」と、アンドレアが口を挟む。「なぜ?」
「仕事を続けるためだ。何か役立つことをしたくて」

 その答えに、アンドレアは何かを感じ取ったようだった。

 あんなに賑やかだった食堂が、通夜のように静かになってしまった。大人たちは何か思うところがあるようで、り以子を含めた子供たちは刺々しい空気に触れるのが怖くて口を開くことが出来なくなった。グレンは辟易とした表情でシェーンを睨んだ。

「……すっかりしらけちまった」

***

 食事が終わると、ジェンナーは一同を部屋に連れて行った。もともとは研究者が住んでいたところのようで、大体の物資がそのまま残っているという。まるでホテルみたいに清潔だ。こんなところで休めるなんて夢のようだった。

「電力は限られているのでここで生活してくれ。ソファーも折り畳み式ベッドもある。廊下の先には娯楽室があるが……テレビゲームは禁止だぞ」

 ジェンナーはカールとソフィアに釘を刺すように言った。

「シャワーの湯も節約してくれ」

 去り際のジェンナーの言葉に、グレンが目を輝かせて皆を振り返った。

「お湯だって?」
「確かに聞いたぞ」

 Tドッグもニヤニヤが抑えきれていなかった。

 各々が大急ぎで自分の部屋に飛び込み、服を脱ぎ捨ててシャワールームに飛び込んだ。本当にお湯が出て来る。久々に浴びるお湯は天国のように気持ち良くて、り以子は一人でキャーキャー騒いで飛び跳ねた。泡まみれになるまで髪を洗い、いい匂いのするコンディショナーで毛先を労わる。これで湯船があったら、もう死んでもいいと思った。

 汚い体に着るのは気が引けて、ずっとしまいこんだままだったパジャマ。淡いピンク色のふわふわ生地に袖を通すと、心地よさに幸せの溜め息がこぼれた。丈の短いショートパンツから伸びる脚は、ホームステイ中と比べてだいぶ筋肉質になっていた。

「いいパジャマね!」

 廊下で子供たちを連れたキャロルと出会った。ソフィアはり以子を見るなり目をきらきらさせた。り以子は得意げになってフードを被ってみせる。このパジャマ、なんと耳付きだ。

「クマだ!」
「それ、あなたの?」

 キャロルに訊かれ、り以子は大きく頷いた。り以子の学年で流行っていたブランドの部屋着で、修学旅行には絶対持って行きたいと、他の持ち物を減らしてまでトランクに詰めて来たものだ。きっと蓮水は羨ましがるぞと楽しみにしていたのに、いざ夜になると、二人して同じパジャマを着ていたので、次の日みんなに話す笑いのネタになった。

 その蓮水も、もういない。
 目の前で死んでいくのを見たのに、まだ実感が湧かない。

「娯楽室に本がたくさんあったわ」

 いつの間にかぼうっとしていて、キャロルに話しかけられてびくっとしてしまった。

「全部読むのに何年かはかかるわよ」

 そんな大袈裟な、とり以子は思わず笑った。だけど、どうせ夜は暇だし、本を読んで過ごしてみるのもいいかもしれない。

 裸足にスリッパを履いて娯楽室に向かうと、急に扉が開いて、怒った顔のシェーンが飛び出して来た。り以子はびっくりして声を漏らし、慌てて壁に張りついたが、シェーンは気にもとめずに荒々しい足取りで通り過ぎて行った。何だ何だと娯楽室の中を窺うと、薄着のローリが息を震わせて泣いていた。大人には色々あるらしい。

 り以子は手持ち無沙汰で食堂に戻った。テーブルには空の食器やグラス、飲みかけのボトルが放置されている。何か飲み物はないかなあと棚を漁り出したり以子の背後で、誰かが柱をノックした。

「少しいいかい?」

 ジェンナーが寄りかかってこちらを見ていた。り以子は軽く頭を下げて「どうぞ」と返した。すると、彼の後ろから千鳥足のリックが現れて、崩れ落ちるようにカウンターの椅子に座った。

「……大丈夫ですか?」
「飲みすぎたようだ──明日、薬が必要だな」

 突っ伏したリックに代わって、ジェンナーが答えた。

「そこの扉に緑茶のティーバッグがある」
「緑茶?」
「他に飲む人もいないだろうから、好きに使ってくれ」

 それはいいことを聞いた。り以子はジェンナーが指差した扉を開けて、英語で『緑茶』と書かれたパッケージを探り当てると、少し高揚した気分で電気ポットに水を注いだ。お湯が沸くのを待つ間、ジェンナーはり以子にいくつか質問をした。

「君は留学生か?」
「いいえ、違います。私は修学旅行でアメリカに来ました」
「なるほど。先生や友達は?」
「……私は分かりません」

 ジェンナーは静かに「そうか」と呟き、深くは追求しなかった。少し沈黙があって、お湯を沸かすヒューヒューという音がちょっと間抜けに響いていた。

「ニュースが見られなくなる少し前、日本のことが報道されていた」

 日本と聞いて、り以子の心臓が僅かに揺れた。

「入国制限を設けたらしい──外国人が日本に入れないようにしたんだ。その他の多くの島国がそうしたように。私の記憶が間違っていなければ、最終的に国外に滞在していた日本人の入国も拒否すると発表したようだ」

 り以子はジェンナーの口をじっと見て、懸命に言葉を拾った──外国人、国外の日本人、入れないようにした。つまり、国内感染を防ごうとしていたということだ。

「それじゃ……無事ですか?日本は安全ですか?」

 り以子は身を乗り出していた。もしかしたら、家族が無事でいるかもしれない……気持ちが逸り、期待に胸が高鳴った。しかし、ジェンナーは暗い面持ちで曖昧に首を傾けた。

「ニュースを見たのはかなり前だ。その後のことは分からない」

 それでもよかった。今まで全く分からなかった故郷の様子を知ることができた。両親はきっと心配でいてもたってもいられないだろうが、命があるなら何でもいい。

 ピピピッと電子音が鳴り、電気ポットのランプが点滅した。り以子はさっきまでより少し明るい気持ちでティーカップにお湯を注いだ。ほくほくと立ち上る湯気を顔に浴びながら、懐かしい鼻歌を口ずさむ。夢の世界で段差を踏み外したリックがガクッと震えた。

「そろそろ眠ることにする」

 ジェンナーが立ち上がったので、り以子は慌てて「おやすみなさい」と頭を下げた。ジェンナーはリックの肩に手を置いて彼にもおやすみを言うと、もう一度り以子に目を向けた。何か言いかけようと口を開いて、しかし、思いとどまったように閉ざす。

「どうかしましたか?」
「……いや」

 ジェンナーは緩やかに首を振り、穏やかに微笑んだ。

「いい夢を」