TS-19

残された希望

 部屋に戻ると、なぜだかドアが半開きで、テーブルの上にウイスキーか何かのボトルが置きっ放しになっていた。一瞬自分の部屋じゃないのかと思ったが、入り口にり以子のリュックが置いてあるので間違いない。誰かが酔っ払って置いて行ったのだろうと深くは気にしなかった。

 リュックの中身を床に広げて、荷物の整理をする。最近物が増えて少し重たくなってきたから、そろそろ軽くしなければ。いつでも持って逃げられるように──難民生活が始まって最初のキャンプで決めたルールだ。ここは安全だけど、やはり用心はしておいた方がいい。

「マジおっも……」

 血の染みが取れなくなったTシャツ二枚と、修学旅行のしおり本、教科書類は捨てた。弁当箱と水筒は便利なので取っておこう。それと、防犯ブザー。何かの時に囮に使えるかもしれない。あれこれ漁っていると、底の方から電子辞書が出てきた。とっくにどこかで捨てたつもりでいたが、荷物に紛れて残っていたみたいだ。これさえあれば分からない単語も調べられる。さっそくダリルがよく口にする熟語を調べてみたら、『クソ野郎。男性に対する酷い侮蔑の言葉』と出てきたので呆れた。

 かさ張っていた服を何着か捨てたので、リュックはかなりスリムになった。いらないものはビニール袋に入れてゴミ箱へ。気分もすっきりだ。

 時計を見るとそろそろ日付を跨ぐ時間帯になっていた。り以子はぐぐっと伸びをして、ふかふかのベッドに勢いをつけて飛び乗った。活きのいいスプリングに押し返されて体がバウンドする。それが最高に気持ちよくて、思わず笑みが漏れた。

 ベッドで眠れるなんて、夢でも見ているみたいだ。こんな日が来るなんて思わなかった。この寝心地といったら、地面の上に敷いた寝袋とは比べ物にならない。

 さあ寝よう!と目を閉じた時、部屋のドアが音を立てて開かれた。

「えっ?」

 驚いて飛び起きたり以子は、部屋の入り口に立ち尽くすダリルと目が合った。シャワーを浴びた後のようで、さっきまでと服が違う。頬は上気し、髪もしっとり濡れてている。右手には性懲りもなくウイスキーの瓶が握られている。

「俺の部屋で何してる?」

 ダリルが訝しげな顔をして口を開いた。「俺の部屋」と聞こえた気がして、り以子は首を傾げた。

「ここは私の部屋です」
「違う。俺の部屋だ。あんたが寝てんのは俺のベッドだ」

 そんなはずはない。り以子の荷物があるのだから、明らかにり以子の部屋だ。

 しかし、ダリルはなぜか絶対的な確信を持っているようだった。ガブッと酒を呷りながら堂々と部屋に入って来て、足でドアを閉めた。バタン!と乱暴なドアの音に、り以子の体がビクッと揺れた。

 ダリルはベッドの脇に立つと、首を傾げてり以子をじっと見下ろした。舐めるような視線が脚のラインをなぞり、それが腰、胸、襟ぐりに覗く鎖骨から首筋を通って、り以子の目元にたどり着く。

「なんだよ。そういうサービスか?」

 何を言ってるんだろうと戸惑った顔で見上げると、ダリルはせせら笑って真顔になった。

「……どけ。俺のベッドだ」
「い、嫌!」
「嫌じゃねえよ。巣に帰んな」
「嫌!」

 ダリルはベッドサイドテーブルにボトルを置き、ベッドに片膝を乗り上げてり以子のパジャマの肩のあたりを掴んできた。強い力でぐいっと引っぱられ、抵抗も出来ずにベッドから投げ出されてしまった。

 り以子は床に転がってキッとダリルを睨んだ。しかしダリルはどこ吹く風で、り以子に背を向けてベッドに寝転がった。せっかくベッドで眠れると思ったのに……無性に腹が立って、り以子はさっき覚えたばかりの言葉を早速敵に投げつけた。

「このクソやろう!」

 ダリルがガバッと起き上がってり以子を振り返った。反射的に身構えたり以子に向かって身を乗り出し、険しい顔をして指を突き立ててくる。

「二度と──その言葉を──使うな!」

 一句一句、り以子の肩に指を叩きつけながら、ねじ込むように言った。こんなに怒るとは思ってもいなかったので、り以子は呆気に取られた。り以子の罵声に逆上したというよりは、り以子が汚い言葉遣いをしたから叱っているみたいだった。

「返事は!」

 激しい口調を叩きつけられ、り以子はぽかんとしたままとりあえず頷いた。ダリルはそれを見届けると、壁に向かって舌打ちと悪態を飛ばし、再びごろんと横になった。

 自分は何だって言うくせに、どうして私はダメなんだ。急に大人ぶって……。理不尽さにむかむかした。ベッド争奪の戦意もすっかり殺がれてしまった。もういい。廊下に転がって眠ってやる。朝になってリックが起きてきたら、ダリルに怒鳴られて部屋を追い出されたと言いつけてやるんだ──。

 ダリルが肩越しに振り返ってり以子を見た。その目からさっきまでの怒りは消えていて、代わりにばつが悪そうなんだか眠たいんだか分からない色をしていた。

 何だ、まだ文句があるのかとむっとした目で見つめ返していると、長々と溜め息をつかれた。

「……来い」

 ダリルがだるそうに手招きをした。り以子はまだ不貞腐れていたが、言うことを聞かないと再び怒られるのも嫌だったので、不承不承といった感じで従った。ダリルはその姿を無言で何秒間か見つめた後、急に壁際に寄って、ベッドの空いたところをポンポンと叩いた。どういう意味だろうと首を傾げていると、

「早くしろよ!」

 ど怒鳴られた。

 まさか、ここに寝ろという意味だろうか。り以子はあからさまにぎょっとした。いくら何でもそれはない。言葉はうまく喋れないけれど、だからって犬や猫ではない。これでも年頃の人間の女なのだ。だったら本当に廊下で寝た方がマシだ。

「嫌!」
「嫌じゃねえよ。床に寝る気か?」

 り以子は咄嗟に視界に入ったソファを指差した。ベッドの寝心地に比べたら劣るものの、廊下で寝るより現実的だ。

「ふざけんな、今さら布団を取りに行かせる気かよ」

 ダリルは冷たく吐き捨てて、眠りの体勢に戻ってしまった。り以子は大きな背中を見つめて途方に暮れた。

「明かりを消せよ」

 本当に眠るつもりだ。り以子はベッドとソファを交互に見比べて、こみ上げた溜め息を鼻から逃がした。ソファはり以子が寝るには少し幅が足りなくて、枕もシーツもタオルケットもなかった。今からもう一組寝具をもらいにジェンナーのところに行くわけにもいかない。り以子は観念して部屋の明かりを消し、ダリルと同じベッドに横たわった。もちろん、ダリルには背中を向けて。

「……おやすみなさい」

 やや緊張気味に挨拶をしたが、ダリルから言葉は返って来なかった。その代わり、後ろ手に伸びた腕がばさりとり以子にタオルケットを被せた。

 シングルベッドの上、同じ一枚のタオルケットの中、男女二人で背中合わせになって目を閉じる。背中が熱い。心臓がバクバクしているのがマットレスを伝ってダリルに知られてしまうんじゃないかと気が気でなかった。ダリルはこんなこと何でもないんだろうか。そう考えるとなんだか悔しくて、そしてちょっぴり悲しい気持ちになった。

***

 いつの間にか眠りに落ちていて、目を覚ますと少し肌寒かった。目をこすり、ベッドサイドテーブルの腕時計に手を伸ばした。日の出からだいぶ過ぎた時間帯だったが、地下施設のこの部屋には朝日なんて届かない。眠りに就く前と変わらない暗さの朝だった。

 肌寒さの原因はタオルケットの隙間にあった。り以子は寝相よく仰向けになっていたが、隣の男は大きな身体を横に向けている。その高低差から生じた隙間に冷気が忍び込んでいたのだ。り以子は隣を起こさないようそっと布団から抜け出し、タオルケットをマットレスに押さえつけて隙間を埋めた。小さく呻く声がしたので目をやると、ダリルの顔がこちらを向いていたのでぎょっとした。まだ瞼はしっかり下りていて、意識は微塵もなさそうだ。

 り以子はベッドの足元に座り込んで死角に隠れ、手早く制服に着替えた。脱いだパジャマは綺麗にたたんでリュックに押し込んだ。

 洗面所で身支度を済ませ、腕時計をつけながら食堂に向かうと、何人かが朝食を食べていた。すやすや眠っているダリルはもちろん、キャロルとソフィア、シェーン、リックはまだみたいだ。

「おはようございます」
「おはよう」

 り以子が空いている席に着くと、デールが朗らかに挨拶を返してくれた。その隣でグレンが青白い顔をしている。

「グレンさん、何があったんですか?」
「二日酔いよ」

 答えられないほど吐き気の酷いグレンに代わって、ローリが言った。

「きっと夫もそうだわ」

 キッチンにTドッグが立ち、香ばしい匂いを放っている。朝ごはんのおかずを作ってくれているらしい。り以子がオレンジジュースを飲みながらそれを待っていると、欠伸を噛み殺しながらリックが食堂に入ってきた。

「おはようございます」
「おはよう」

 リックも少し顔色が悪い。り以子の隣の椅子を引いて座った彼に、カールが「二日酔いだね」と言い当てた。

「ママから聞いた」
「ママは正しい」リックがおどけたように言う。
「大人の悪い癖よ」

 その時、Tドッグがフライパンを持ってテーブルにやって来た。

「卵料理だ!見た目は悪いがうまいぞ」

 いい匂いに胃袋が刺激された。刺激されたグレンが弱々しい呻き声を上げると、ちょうど後ろを通りかかったジャッキーが心配そうに顔を覗き込んだ。デールがそれを見て小さく笑っている。

「知ってるか?」卵をグレンの皿に盛り付けながら、Tドッグが言った。「タンパク質は二日酔いに効くんだ」

 グレンは駄目そうだ。

「タンパク質!」

 聞き取れた単語に覚えがあって、り以子が明るい声を上げた。Tドッグは「そう!」と褒め称えるようにり以子を小突き、どっさりと卵を乗せた。

「卵はタンパク質だ。正解者には多く食わせてやるぞ」
「もう二度と二度と二度と飲ませないでくれ……」

 いまいち呂律の回っていない口調でグレンが呻いた。

 やがてキャロル、ソフィア、シェーンも起きて来た。シェーンはまだ酒の臭いを漂わせていて、食堂に入るなり水を取りに行った。

「一体どうした?」

 Tドッグがシェーンの首元を凝視して怪訝そうな顔をした。シェーンの顎から首にかけて、赤々とした派手な引っ掻き傷が走っていた。シェーンは寝ぼけて引っ掻いたとかわしていたが、り以子は無意識のうちにローリを見ていた。ローリは強張った顔でシェーンから視線を逃がしていた。

「おはよう」

 遅れてジェンナーと、その後ろから無言でダリルも入って来た。皆がジェンナーに挨拶を返していると、ダリルがまっすぐり以子の席へ歩いて来て、何かをぽんと投げて寄越した。

「部屋に忘れてたぞ」

 制服のリボンだった。着替えた時に付け忘れていたようだ。り以子がお礼を言いながらリボンを襟に回していると、二日酔いの薬を飲もうとしていたリックがバシャッと飲み水を零し、グレンがフォークを床に落とした。

「『部屋に忘れた』だって?」

 信じられないと声を張り上げるリックを無視して、ダリルは水を取りに行った。

「どういうことだ」
「二日酔いが吹っ飛んだ」グレンがぼやいた。

「り以子、昨日の夜はあの人の部屋で寝たの?」

 ソフィアがストレートに訊ねたので、何人かが卵に噎せた。しかし、り以子は卵にケチャップをかけながら平然とした顔で答えた。

「あれは私の部屋です」
「俺のだ」すかさずダリルが噛みついた。
「ダリルさんが部屋を間違いました、彼は飲んでたから」
「間違えてない」
「あの部屋には私のリュックがありました。それが証拠です」
「そうだ。俺の荷物と一緒に俺が車から運び込んだんだ、俺の部屋に」

 しばらく火花を散らして睨み合って、二人同時に「ん?」と首をひねった。リックが呆れたようなホッとしたような顔をした。

「分かった、何もなかったならいい。だが、」
「よくねえよ、狭かった──」
「口を挟むな!」リックはダリルに鋭く指を突きつけた。「あまりにも軽率だぞ。彼女はまだ高校生だ。二度とこんなことはするな。いいな?」

 ダリルはどうして俺が怒られるんだと納得のいかない顔をしていた。いいぞ、もっとやれ──り以子は心の中でリックにエールを送った。