その日の夜は、廃車からかき集めた保存食のお陰で、なんとか食いっぱぐれずに済んだ。力仕事をしていた男性陣、とりわけリックとダリルはかなり腹を空かせていたようだった。り以子は自分の取り分を内緒で二人の紙皿に追加しておいた。
人より少ない量の夕食を人より早く済ませ、り以子は息の詰まるキャンピングカーを降りた。辺りはとっぷりと暗闇に浸かり、森の中は一メートル先すら見渡せない。ただひたすらに真っ暗だ。
ソフィアは無事でいるだろうか?
ガードレールに腰掛けて森を見つめる。きっと怖い思いをしている。けれど、命さえ無事でいてくれればと切に願う。そうすればきっと見つけ出してあげるから、と。幸い、森の中はウォーカーが少ない。それはリックと出会う前まで森を渡り歩いていたり以子がよく知っている。冷静になって身を潜めれば、撒くことだって不可能じゃない──今はそれに賭けることしか出来ない。
キャンピングカーで夕食を共にしている皆と違い、リックもダリルもそれぞれ一人で別の車に篭っていた。ダリルが皆と離れて過ごすのはいつものことだそうだが、リックもそうとは珍しい。きっとソフィアの件で酷く落ち込んでいるんだろう。り以子は水筒いっぱいに飲み水を満たし、それを口実に様子を窺いに行った。
リックはキャロルの車で運転席の座席を倒して仰向けになっていた。目が開きっぱなしなので、眠っているわけではなさそうだ。り以子が窓枠をノックすると、リックは少し驚いたように目を瞠り、僅かに顔を持ち上げた。
「……何かあったのか?」
「私はいくらかのお水を持って来ました」
赤いステンレス製の水筒を掲げて見せる。
「ああ……遠慮しておくよ。今は喉が渇いてないんだ」
り以子はしょんぼりと肩を落とした。
「ダリルに持って行ってやってくれ。今日は働いたから疲れてるだろう」
やっぱりだ。リックはこのところ、り以子のことをダリルに丸投げしている。CDCを脱出した時から、急にだ。話しかけようにもいつも遠くで家族といるし、目もほとんど合わせてくれない。妻子との時間を大事にしたいのだろうと考えて気にしないようにしていたが、それにしたって素っ気なさ過ぎる。意図的にり以子のことを避けているのだ。
そうだと確信してから無性にむかむかしてきて、り以子はダリルに水やりをするのも忘れて、その辺の廃車で不貞寝した。
明くる日、太陽が昇るとすぐに集合がかかった。皆早くから目を覚ましていたので、遅れて来る者はいなかった。少女を見つけてやりたいと思う気持ちは同じだったのだ。
「全員武器を持て」
リックはボンネットの上に武器入れを広げて言った。昨日、カールが見つけてはしゃいでいた刀剣類だ。ダリルは興味深そうに覗き込んでいたが、アンドレアは真逆だった。
「こんな武器じゃなくて、銃は?」
「ダリルとリック、俺が持ってる。木が揺れるたび撃たれちゃ困る」
シェーンの嫌味ったらしい言い方に、アンドレアは「木じゃないかも」と口答えをした。
「群れが近くにいたら?全員の命が危ない。分かってくれ」
各々が武器を手に取り、感触を確かめている。グレンがり以子に目線を投げかけてきた。り以子は腰をひねって大小を見せ、これで充分だと伝えた。
「こっちの方が重くて鋭いです」
「それもそうか」
皆が武器を手に取ると、ダリルから詳細が告げられた。
「小川に沿って五マイルほど行き戻って来る。いるとしたら小川の近くだろう」
り以子は咄嗟にデールを振り返った。デールは話の腰を折らないように小声で「八キロだ」と教えてくれた。
「静かに進もう、警戒を怠るな。見える範囲で距離を保つんだ──デール」
リックがデールを振り返った。
「俺たちが戻るまでに車を直しといてくれ」
「長居は禁物だからな……気をつけろ。必ずソフィアを連れ帰れ」
言われなくても全員がそのつもりだ。リックはついでにカールを預けて行こうとしたが、カールは「僕も行く」と言い出して聞かなかった。
「り以子が行けるなら僕だって行ける」
ダリルに続いて出発しようとしていたり以子は、藪から棒に名前を出されてぎょっとした。
「……カール。彼女は高校生だ。お前より大人だし、自分の行動に責任を持てる」
「僕だって持てる。それに、人は多い方がいいでしょ?」
頑として退かないカールに、リックが困り果てて唸った。り以子は自分の存在が彼に影響を与えて掻き乱してしまっているのだと分かり、なんだか申し訳なく思った。
リックがローリを見て、ローリがデールを見た。
「あなたから言って」
「……あれだけ大人がいれば大丈夫だ」
とうとうリックが折れた。
「分かった、分かった。そばを離れるなよ」
リックが逃げるように去っていくと、カールは勝ち誇った顔をローリに向け、それからデールと視線を交わしていた。デールが密やかにウインクしたのを、り以子は見逃さなかった。
続けてデールの元にやって来たのはアンドレアだ。かなり機嫌が悪い。り以子は刀の柄に肘をかけて待ちながら、また揉め事だろうかとハラハラして見守った。
「自分のためでしょ、認めなさいよ。渡したら口に入れてぶっ放すとでも?」
「……怒るのも無理はないが、俺がいなかったら君は──死んでた」
「ジェンナーは私たちに選択肢をくれた。私は残ることを選んだ」
「自殺だ!」
「あなたに関係ない!」
アンドレアが声を張り上げた。それまで興味なさそうにしていたダリルや他の大人たちも、大声に釣られて二人を振り返った。
「私に生きる意味を説くなんて一体何様のつもり?私の人生なのよ!」
「……俺が救った」
「違うわ、デール!私があなたを救ったの。自分のせいで人が死ぬのはご免よ。私に何を期待したの?改心したとでも?」
「感謝したと……」
「感謝?──私は死にたかったの。ゾンビに食べられるんじゃなくね。あなたはその機会を奪ったのよ、デール」
「だが──」
「自分が正しい?私の願いは終わりのない悪夢から抜け出すこと。誰も傷つけずに。それが叶う機会を奪っといて、……感謝しろって?」
デールは絶句した。
「私はあなたの娘じゃない。妻でもないんだから、口を出さないで」
アンドレアはあの時、デールに説得されてCDCを出て来たわけではなかったのだ。てっきり考え直してくれたのだと思っていたが、彼女は相変わらず死を見ていた。り以子はそれがたまらなく虚しく感じた。せっかくここまで一緒に生き延びてきたのに。
気まずい空気の中出発した一行は、ダリルの先導で道もない草むらをひたすら歩き続けた。ダリルのすぐ後ろにはリックがついて、り以子、アンドレア、キャロル、列の真ん中に男手を一つということでグレンが入り、カールとローリを挟んで、最後尾にショットガンを持ったシェーンが続いた。カールはリックに持たせてもらったという小さな斧をシェーンに見せびらかしていたが、冷たくあしらわれて悲しそうにしていた。
外から見て想像していたよりも深い森だった。草木はり以子の膝の高さまで伸びていて、複雑に入り組んだ梢が朝の日差しを遮るので、鬱蒼として気味が悪い。今日中に見つけ出してあげなくてはと気持ちが逸る。こんな不気味なところで何度も夜を明かすのはかわいそうだ。
しばらくして、前方に不自然な蛍光色が見えた。テントだ。ダリルがリックを制し、その手でテントを指差してその場にしゃがみ込むと、リックが後続に姿勢を下げるようサインを出した。
「あの中か?」シェーンが囁いた。
「いろいろありそうだ」
ダリルが立ち上がり、リック、シェーンと三人で気配を殺して忍び寄っていく。り以子が後に続こうとしたが、リックに手で「待て」と命じられた。
クロスボウを左右に向けて警戒しながらダリルが進む。後続に人差し指を立てて立ち止まらせると、その指でそこに留まるよう指示し、自分が行くとサインを見せた。ダリルは腰のナイフを抜いて逆手に構え、慎重にテントに近づいた。
入り口は閉まっている。こっそり端に回って隙間から覗こうとしたが、駄目だったようだ。ダリルが両手を上げたので、リックは密かにキャロルを呼び寄せた。
「優しく呼んで。君の声ならソフィアも安心する」
テントの前でダリルがナイフを握って構えている。キャロルは緊張気味に、どこか待ちきれないといった様子で、そっと声をかけた。
「ソフィア、いる?──出て来て。ソフィア、ママよ……」
テントは相変わらず不気味な沈黙を吐き出している。ダリルはいつ恐ろしい何かが飛び出して来ても、瞬殺できるように身構えていた。
「ソフィア、もう大丈夫よ。ママが来たわ」
しかし、返事はなかったので、リックはキャロルをその場に留まらせ、拳銃を構えてテントに忍び寄った。ダリルが入り口のファスナーを指でつまみ、音を立てないようにそっと開いていく。緊張の瞬間だった。生唾を呑む皆にまじって、り以子の左手が鞘を掴んだ。
ダリルは入り口を開けると、たちまち湧き出た悪臭にパッと顔を背けて噎せた。しかし、すぐに気を取り直して中へ踏み込んで行く。リックも続こうとしていたが、あまりの臭いにギブアップした。
何かが襲ってくるという危険性はなさそうだが、全く何でもないというわけでもないらしい。不安でそわそわしていたり以子の肩に、グレンが宥めるように手を置いた。
ダリルはテントに入って行ったきり、なかなか戻ってこない。辺りは隙間から這い出してきた悪臭が漂い、近づいたリックとシェーンがゲホゲホ咳き込んでいる。り以子とグレンは目を見合わせてキャロルに駆け寄った。ここからでも微かに臭う腐臭は、テントの中の凄惨な状況を物語っていた。
「ダリル?」
キャロルが不安げに呼びかけてから少しして、ようやく顔をしかめたダリルが外に出て来た。心なしか息が浅い。
「いない」
誰もがホッと息を吐いた。
「中に何が?」
「男が一人。生きるのを諦めた奴だ──自殺だよ」
その時、どこからかカランコロンと鐘の音が聞こえ始めた。鐘が鳴るということは、誰かが鳴らしているということだ。耳をそば立てて方向を確かめる。木々に反響して正確な位置は分からなかったが、恐らくあっちだろうと当たりをつけ、急いで向かった。もしかしたらソフィアが鳴らしているのかもしれない……誰もが僅かな希望を抱かずにはいられなかった。