Bloodletting

命の代償

 ウォーカーの背後から忍び寄り、髪の毛の抜け落ちた後頭部めがけて刀を払う。糸が切れたように崩れ落ちるウォーカーを跨ぎ、ゼェゼェと喘ぐような息をしながら、り以子は山道を進んだ。手も足も鉛のように重たい。梢の合間から照りつける夏の日差しが体力を奪っていく。視界が震度五強だ。ブレザーとパーカーに汗が染み込んでいるのを感じた。

 蓮水が死に、一人になって何日が経っただろう?
 刀を落ち葉の絨毯に突き立てて、木の幹に肩で寄りかかり、ゆっくりと深呼吸をする。

 本当なら、もうとっくに帰国していて、修学旅行の思い出に浸りながら通常授業を受けている頃のはずだ。それなのに、自分は今何をしているんだろう?顔を食べられた親友を捨てて逃げ、腰に刀を差して武士の真似事をし、汗だくになって森をさまよっている。当面の悩みはその日の寝床、食べ物、水。当たり前に手に入るはずのものを確保するのに、毎日必死になっている。定期試験に怯えていた数週間前の自分が嘘みたいだ。

 熱中症になりそうだ。リュックから水筒を取り出して蓋を開け、中身をコップに注ごうとするも、僅かな量の水がちょろちょろと垂れただけだった。がっかりしつつも、コップをひっくり返して全部口の中に流し込んだ。喉はカラカラのままだ。意識も朦朧とし、注意が散漫になっていて、長い黒髪を顔に垂らした女子高生が隣にしゃがんでいるのに気づいた時、心臓が止まりかけた。

 ギョッとして振り向いたが、そこには何もいなかった。慌てて刀を抜き取って四方を確認するけれど、自分と遺体以外には何もいない。り以子はフードを剥ぎ取り、刀を鞘に戻すと、荷物をかき集めて駆け出した。

 狭い革靴の先に爪先が詰まって痛い。り以子は死に物狂いで走り続けた。追い抜いていく木々の合間に、時折、黒い影が見え隠れしている。心臓が鼓膜のすぐ裏で爆音を鳴らした。追いつかれたら死ぬ──なぜだかそう思った。

 歩幅を詰まらせて坂道を駆け下りて行くうちに、突如として視界が開けた。足元の土が崩れ、り以子の体が勢いよくそこへ投げ出された。リュックが斜面を転がり、水筒がこぼれ落ちて岩で跳ねた。

 しばらくは息が出来なかった。徐々にそれが落ち着いてくると、全身が酷く痛んだ。背中を岩に打ったらしい。呻き声を漏らしながら起き上がる。視界は震度三。さっきよりましだ。それに、なんだかちょっと涼しい。見れば、そこは川べりだった。ざわざわと音を立てて、冷たい水が流れている。

 り以子は川に飛びついた。両手で水をすくい、顔にバシャバシャとかけると、天国のように気持ちがよくなった。ハンドタオルを水に浸し、首の裏を冷やす。体の火照りが徐々に抜けていくのを感じながら、ゆっくり、長く溜め息をついた。

 暑さで頭がおかしくなっていた。幽霊に追いかけられる幻覚を見るなんて。

 ふと目を上げたり以子は、上流にぷかぷかと浮かぶ何かを認めて、ぽとりとタオルを落とした。死体が浮いていた。それも一体、二体どころではない。

 声を上げながら腕で顔を拭う。逃げようとして尻餅をついてしまい、上手く立ち上がれないまま、じたばた手足を動かして後退した。死体から染み出す腐った血がり以子の前を流れていく。何が天国だ──ここは地獄だと知っていたはずなのに。滑ったり躓いたりしながらやっとのことで立ち上がると、り以子は水筒とリュックを拾い上げ、一目散にそこを逃げ出した。後には、水を吸ってぶくぶくと膨れ上がった、哀れな遺体が残されていた。

***

 銃声が聞こえた。り以子は一人の時の癖でビクッとして振り返ったが、斜め前を行くダリルはピクリとも反応を示さない。

「銃声」

 聞こえていなかったのかと思い、り以子が森の奥を指差して言うと、ダリルは肩越しに面倒臭そうな目を投げて来た。どうしてこんなに無関心なんだ──り以子はちょっとムッとした。ローリだって気にして後ろを振り返っている。

「銃声がしたわ」
「聞いてたよ」

 ダリルが平然と流した。

「なぜ?なぜ一発だけなの?」
「一匹いたんだろ」
「舐めないでちょうだい。一匹ならリックは銃を使わずに始末するはずよ。シェーンもね」

 そういえば、二人がまだ追いついて来ないなんてちょっと心配だ。何かあったのだろうか。もしかしたら、銃声はリックたちのものじゃないのかも。

「俺たちにはどうもできない。森を捜し回るわけにはいかない」
「じゃあ、どうすれば?」
「さっきまでと同じだ。ハイウェイまでソフィアを捜して茂みを歩く」

 ダリルは落ち着き払ってそう告げた。アンドレアは「車で合流できるはず」と言い聞かせてローリを先に行かせると、青白い顔で突っ立っていたキャロルに気遣いの言葉をかけた。

「つらいでしょうね、分かるわ」
「……そうでしょうね。ありがとう」

 キャロルの言葉は少し棘があった。歩き出そうとしたダリルが、またしても立ち話を始めた女性陣に苛立った目を向けている。

「娘が独りぼっちでいると思うと、胸が張り裂けそうだわ。私には『エイミーのようにはならないで』と祈り続けるしかない──」

 アンドレアの顔がサッと強張った。キャロルは遅れて自分が何を口走ったかに気づき、酷く申し訳なさそうに顔を歪めた。

「ああ……なんてことを。ひどいことを言ったわ」

 しかし、アンドレアはキャロルの心痛を思い、堪えるように目を閉ざして首を振った。

「私たち皆ソフィアの無事を祈ってるわ」
「言っておくが」

 ダリルがずんずんとキャロルに近づいて行って、容赦のない声色で口を挟んだ。

「祈るなんて時間の無駄だ」

 途端にキャロルがショックを受けた顔をしたので、り以子は何を言ったんだとハラハラした。そんな心配をよそに、ダリルは続けて言った。

「皆で探せばあの子は助かる。まともなのは俺だけか?」

「なんてこった」と吐き捨てて歩き出すダリルを見て、ローリがちょっとだけ笑みを浮かべている。悪いことを言ったわけじゃないのかとホッと息をついていると、ダリルがり以子の前で立ち止まり、真上から威圧的な目で見下ろした。

「何ぐずぐずしてる。お前も『神に祈りを』か?」
「……?私はクリスチャンではありません」

 ダリルは一瞬合点がいかない顔をしていたが、ちょっと考えて「なるほど」と呟いた。

 そこからまた長い時間歩き続けて、気づけば夕日はだいぶ低いところまで下がって来ていた。り以子は腕時計を覗いて眉をしかめた。タイムリミットが迫っているのに、まだ手がかり一つ見つかっていない。

「じきに日が暮れる。中止しよう」

 ダリルがとうとう足を止めた。ローリも「引き返そう」と言う。キャロルは不安げな顔をした。

「また明日?」
「もちろんよ」

 ダリルがヒュイッと口笛を吹き、皆についてくるよう合図した。まるで犬猫を呼ぶようだな……とり以子は複雑に思いながら追いかけた。

 ここからが長い。皆体力は底を尽きかけているし、道を逸れてかなりうろうろしたので、ハイウェイまでがやけに遠かった。足の裏が痛くて一歩一歩がしんどい。ローファーなんかで山道を歩くものではないと思い知った。

「あとどれくらい?」

 ローリが訊ねると、ダリルは「大したことない」と軽い調子で言った。

「直線距離で100ヤードぐらいだ」
「何メートル?」

 ここの国の人たちときたら、ヤードとかマイルとかり以子の知らない単位で話を進めるので困る。しかし、ダリルはお前こそ何を言い出すんだという怪訝そうな顔で一瞥をくれたきり、何も教えてはくれなかった。

「……90メートルぐらいよ。実際はもっと歩いてる」

 代わりにアンドレアが答えた。さすが弁護士だけあって、彼女は博識だ。

 隊列もへったくれもなく、横に広がってひたすら進む。疲れのせいか暑さのせいか、皆だんだん散漫になっていた。だから気づかなかった。アンドレアが遅れをとっていたことにも、すぐ近くまでウォーカーが迫って来ていたことにも。

 アンドレアの絶叫を聞いて、り以子は背筋が凍りついた。ダリルが弾けるように走り出し、り以子たちも急いで続く。

「アンドレア!」

 倒木の向こうに、のっぽのウォーカーともつれ合うアンドレアの姿が見えた。必死にナイフで応戦しているが、なかなか致命傷を与えられない。なかなか詰まらない距離にハラハラしていると、アンドレアが木の根に躓いて転倒した。まずい。泣き叫ぶ彼女の足をウォーカーが掴んだ。ああどうしよう、遠すぎる。とても間に合わない──。

 もう駄目かと思われた時、蹄の音が飛び込んで来て、ウォーカーが勢い良く吹き飛んだ。

 少し遅れて駆けつけた皆の前で馬が止まる。バットを手にしたショートカットの女性が、張り詰めた表情でアンドレアを見下ろした。

「ローリ?ローリ・グライムズ?」
「私がローリよ」

 ローリが名乗り出る。

「リックが呼んでる、今すぐ一緒に来て」
「何て?」
「事故よ!カールが撃たれたの──生きてるけど、早く来て!」

 カール?今、カールと言った?──撃たれた?

 り以子は青ざめた顔でローリを窺った。ローリはぽかんと女性を見上げていた。女性は焦れったそうに繰り返す。「リックが呼んでるの。いいから来て!」

「おいおいおいおい!知らない女だぞ、馬に乗るな!」

 リュックを脱ぎ捨て、言われるままに馬に駆け寄るローリを見て、ダリルが慌てた。だが、女性はさっきからずっとり以子たちのことを知っているかのような口ぶりだ。

「リックに聞いたけど、道路が塞がってるとか?」
「う、うん……」グレンは気圧されていた。
「道を引き返して。『グリーン農場』にいるわ!」

 それだけ言い残すと、女性は馬の腹を蹴って飛び出して行ってしまった。

 取り残されたり以子たちは、風のように走り去る馬を茫然と見送ることしか出来ないでいた。そのうちさっきのウォーカーが呻き声を上げて起き上がったが、

「黙れ」

 と、ダリルの矢で瞬殺された。