Bloodletting

命の代償

 なんとか日暮れ前にハイウェイに戻ることが出来た。り以子は自分のリュックを背中に、ローリが投げ捨てて行ったリュックをお腹にかけて山道を歩く羽目になり、もうへとへとだった。キャンピングカーとデールの姿を見て、ドッと安堵が押し寄せた。力なくガードレールにしがみつく。グレンから一部始終を聞かされて驚愕しているデールの声が、疲れた頭にガンガン響いた。

「撃たれた?撃たれたとは何事だ!」
「分からない……そこは見てないから。若い女がローリを馬に乗せて行ったとこしか」
「止めなかったのか?」

 デールに非難めいた目を向けられたダリルが、不機嫌そうにガンを飛ばした。

「うるせえな、あんた。リックが寄越した女だ。ローリやカールの名前を知ってた」
「悲鳴が聞こえたが、叫んだのは君か?」

 り以子はパンツが見えないよう慎重にガードレールを跨ぐのに忙しくしていたが、デールの質問を受けて少しだけ気を悪くした。

「……私は悲鳴担当者ですか?」
「アンドレアだ。ウォーカーに襲われて危なかった」

 グレンが取り成すと、デールはたちまち強張った顔でアンドレアに声をかけた。

「アンドレア?大丈夫か?」

 アンドレアは冷たい目をデールに向けて、何も答えずに背を向けた。まだ動揺が抜けきっていないのだ。それでなくても、彼女はデールとは話したがらなかったかもしれないが。

 やがて皆が落ち着きを取り戻してから、さてどうするかという話し合いになった。ローリが向かった『グリーン農場』で全員合流するか、自分たちだけでソフィア捜しを続けるか──デールはグループがバラバラになったことで、皆が弱ってしまっていると主張したが、キャロルは頑なにハイウェイに残ると譲らなかった。

「娘が戻って来た時、私たちがここにいなかったらどうなるの?……そうでしょ?」
「その時、誰もいないのはマズいわ」

 アンドレアもキャロルに同意した。

「……そうだな。何か考えよう」

 ダリルが考えながら言った。

「明日の朝移動する時には、移動先を書き残して物資も置いて行こう。俺が今夜は車内に泊まる」
「俺も残るよ」

 ダリルとデールの申し出に、キャロルは感涙を湛えてお礼を言った。ダリルは少し照れくさそうな顔で頷いてから、アンドレアに向かって催促するように眉を上げた。

「……私も残るわ」アンドレアが名乗り出た。

 しまった、出遅れた。り以子は慌てて勢いをつけて手を挙げた。腕が耳にくっつくほど高くまっすぐ空を突き上げる様を見て、ダリルが呆れた顔をする。

「よし、皆が残るなら俺も──」
「グレンはダメだ。お前はキャロルの車で行け」

 デールが即座に言った。グレンは憤慨した。

「俺が?なぜいつも俺が!」
「農場を探すんだ。皆と合流して何が起きているのか把握してくれ。何よりそこでTドッグの怪我を手当てしなくては。選択肢はない」

 り以子たちは毛布を被ってキャンピングカーの陰にもたれかかっているTドッグを見た。今朝見送りしてくれた時とはずいぶん様子が違った。熱で朦朧としているのか目が据わっているし、冷や汗も滲んでいる。

「傷はどんどん悪化して、かなり深刻な血液感染を起こしかけてる。農場に連れて行って抗生物質を与えないと──」

 それを聞いたダリルが何か思い至ったようにバイクに向かって行った。

「──Tドッグは死ぬ。冗談で言ってないぞ」

 ダリルはバイクに引っかかっていた布を拾い上げてデールを睨むと、サイドバッグから大きなチャック付き袋を引っ張り出して戻って来た。

「兄貴のバイクにあんたの汚ねえボロきれを乗せんなよ」

 デールめがけて薄汚れた布を叩きつける。ムッとする彼を尻目に、ダリルはキャロルの車のボンネットの上で袋をゴソゴソやり出した。

「なぜ今まで黙ってた?兄貴の荷物を漁ろう」

 何やら薬瓶のようなものがたくさん入っている。『兄貴』と聞こえたが、メルルは病気がちだったんだろうか?り以子がボンネットに身を乗り出して興味津々に覗き込もうとしたら、ダリルは一瞬動きを止めて、手元を隠すように背中を向けた。り以子はむくれた。

「覚せい剤──は、役に立たないな……鎮痛剤があった」瓶を一つグレンに投げてよこす。「ちゃんとした抗生物質も。よく効くぞ。メルルが淋病で飲んでた」

 ダリルは抗生物質の瓶をデールに放り投げると、颯爽と立ち去った。あまり聞きたくなかった情報に誰もが顔をしかめる中、デールと淋病が何か知らないり以子だけが、金銀財宝でも見るような目で薬瓶を見つめた。

***

 その日の夜は残り少ない非常食の缶詰とスナックを少しずつ分けて食べた。ダリルが取り分ける前の缶の数を見て露骨に不満そうな顔をしていたので、り以子はまた自分の取り分のいくらかをこっそりダリルの皿に混ぜて渡した。彼が一番疲れているに違いないのだ。それに、り以子が一人で旅をしていた時はこれよりもっと少ない日なんてざらだった。空腹は慣れっこだ。

「日に日に飯まで減るな」

 ダリルが紙皿にちょこんと乗ったささやかな夕食を見下ろして文句を垂れた。デールが「仕方ない」と言って宥める。

「ソフィアに置いていく分を取って置かなくては」
「森に入ったついでにリスでも狩って来るんだった」
「リ、リ……?」

 うまく聞き取れなくて首を傾げていると、ダリルはうんざりした様子でり以子を振り返った。

「辞書か何かないのかよ」
「あっ、私はそれを持っています!」

 ダリルの溜め息を背中に聞きながら、リュックの内ポケットに入れてある電子辞書を取り出した。英和辞典を表示したところで、後ろから伸びた手にすっと持って行かれる。ダリルは食べ物で汚れた指先を舐め取りながら、り以子の電子辞書を表裏に返して物珍しそうに眺めたあと、おもむろに何かを打ち込み出した。全身泥だらけの粗暴な風体に小さなホワイトピンクの電子辞書が恐ろしく似合わない。デールたちが「見てはいけないものを見た」とそそくさと顔を背けていると、ダリルは打ち終わったそれをり以子にポンと投げて寄越した。

Squirrel - リス

「リス……」

 げっそりした顔で電子辞書を凝視するり以子を、ダリルがフンと鼻で笑った。

「煮て食う」
「私は生魚の方がいいです」

 今度はアンドレアが食欲の失せた顔で「やめて」と呻いた。

「ついでだ、単位も調べとけ。話が通じない」

 ダリルがフォーク片手に顎をしゃくった。り以子はじっとりと溜め息をついて、電子辞書をテーブルの脇に押しやった。こんな世界になってまで、それも教師とは程遠い類の人から宿題を出されることになるとは思いもしなかった。

 人より少ない夕食を完食し、皿を片付けようと立ち上がる。スナックをつまんでいたアンドレアが怪訝そうに首を傾げた。

「もういいの?」
「……さっき、私はおやつを食べましたので」

 り以子は咄嗟に嘘をついた。離れたところで皿を突ついていたダリルがちらっとこちらを見た。

「あなた、いくつ?」と、キャロルが心配そうに訊く。「成長期なんじゃない?」
「うーん……いいえ」
「もっと食べないといけないわ。私の分も」

 キャロルがほとんど手をつけていない皿を差し出してきた。り以子は慌てて「結構です!」と押し戻した。たくさん食べて力をつけなければいけないのは、キャロルの方だ。デールも同意見だったらしく、キャロルの腕に手を重ねて首を横に振った。

「昨日も全然食べてなかった。少しは胃に何か入れないと倒れてしまう」
「食欲がないのよ。娘はきっと森でお腹を空かせてる。私だけ食べるなんて……」

 困り果てたり以子たちが顔を見合わせていると、二番目に完食したダリルが席を立ちながらぶっきらぼうに言った。

「なら捨てるか?こんな臭い飯、あんたが食わないなら誰も食わない」
「そんな──」
「まずくても貴重だ。食い物を無駄にするんじゃねえ」

 ダリルはゴミ箱に紙皿を叩き込むと、有無を言わせずキャンピングカーを降りて行ってしまった。残された皆で唖然とする。皆でどうにか食べさせようとしている時に、『臭い飯』はないだろう。

 ところが、キャロルはフォークを手に取って、なんと非常食を食べ始めた。り以子とアンドレアはびっくりして口をぽかんと開け放っていたが、デールはどこか満足げな笑みを湛えていた。