Cherokee Rose

白いバラ

 井戸の封鎖工事を終えたデールに大声で呼ばれ、工具の片付けを手伝わされている間に、物資調達に出かけていたグレンとマギーが帰って来た。道中に何があったのかは分からないが、グレンはだらしなく緩みきった顔をしていて、り以子と目が合うと、馬の上からヘラヘラ笑いながら手を振った。しかし、その様子をマギーに素っ気なくあしらわれ、グレンは風船がしぼんでいくようにみるみる不貞腐れた。

「どうしたんですか?」

 り以子は余計なお世話かもしれないとは思ったが、どうしても気になって訊ねた。グレンは鬱陶しそうにじっとりと溜め息を吐いた。

「知るもんか」

 テントに戻ると、り以子のリュックがなかった。そばを通りかかったデールに聞いたらキャンピングカーの中に入れっぱなしだと言われ、り以子はさっきのうちに確認しなかったことを酷く後悔した。つい今しがた農場内でシェーンを見かけたので、キャロルもとっくに帰って車内にいるだろう。しかし、リュックを取りに行かないわけにはいかない。あれには生活必需品が入っているのだ。

 り以子は勇気を振り絞ってキャンピングカーの扉を開けた。そして、びっくりして一瞬立ち止まった。車内が見違えるほど綺麗に片付いている。ステンレスの流し台は徹底的に磨かれて鏡のように輝き、ピカピカの皿やマグカップが整然と並んでいる。テーブルの上に雑多に置かれていたあれこれもすっかりしまいこまれ、広々としたモダンなダイニングに生まれ変わっていた。恐る恐る寝室を覗くと、キャロルがベッドに腰掛けて繕い物をしていた。

「何か用?」

 キャロルはり以子が近づくと、顔を上げずに気のない声で訊いた。

「あの、私のリュック……車内に」
「あるわ。そこよ」

 キャロルが視線で示した先に、り以子のピンク色のリュックがこじんまりと座り込んでいた。り以子は小さくお礼を言ってリュックを取り、キャンピングカーを出て行こうとしたが、ドアが再び開く音がして立ち止まった。

 ダリルが呆気に取られた表情でキョロキョロしながら入って来る。口に植物の茎をくわえ、手にビールの空き瓶を持っていた。ダリルが躊躇いがちに寝室を覗き、キャロルはようやくほんの一瞬だけ目を上げた。

「片付けたの。あの子のために」
「一瞬場所を間違えたかと思った」

 ダリルが草の先を揺らしながら口をもごもごさせると、キャロルは小さく笑った。ダリルがちらりとり以子に視線をやる。り以子は小さく会釈をして、彼の横を通り抜けて去ろうとした。

「待って」

 信じがたいことに、キャロルがり以子を呼び止めた。「いいのよ。逃げないで」

 り以子は気づかないうちにリュックを取り落としていた。ごとんと大きな音がしたのに気づいて慌てて拾い上げた。キャロルは縫い物を続けている。

「あなたに言われて気づいたの。私がしなくちゃいけないことは何かって……私は母親として帰って来るあの子を迎え入れる準備をしていなかった」
「……私は、あなたに悪いことを言いましたと思います」
「そうでもなかったと思うわ」

 車内に奇妙な沈黙が続いた。り以子はキャロルの指先で閃く小さな銀色の光を見つめていた。

 すると、やおらにダリルが動き出し、ビールの空き瓶を、驚くほど優しい手つきで棚の上に置いた。り以子はその時初めて、瓶口に咲く愛らしい純白の花の存在に気がついた。

「……お花?」

 キャロルが目を瞬いた。

「ナニワイバラだ」と、ダリルはくわえていた草を外して簡素に言った。

 り以子はあの粗暴なダリルがキャロルのために花を摘んで帰って来たことが俄かには信じきれず、世の中は一体どうなってしまったのかと、置かれた花をまじまじ見つめていた。キャロルも同じ気持ちだったようで、ダリルにぽかんとした視線を送っていると、彼はぎこちない言葉で語り出した。

「こんな話がある……アメリカ兵がチェロキー族を『涙の旅路』に追い立てた。道中、チェロキー族の母親たちは酷く嘆き悲しんだ。子供を亡くしたからだ。風雨に曝され、伝染病や飢えで死んだ……行方不明になった子も。そこで年寄りたちは母親を勇気付けようと祈った。力と希望を与えようと」

 キャロルは手を止めてダリルの話に聞き入っていた。

「すると次の日、母親の涙が落ちた場所にこのバラが咲き始めた──兄貴のために咲く花があると思うほど、俺はバカじゃない。この花が咲いたのはきっと……あんたの娘のためだ」

 キャロルの瞳からはらりと一雫がこぼれ落ち、彼女はそれを指で押さえながら微かに笑った。それを見て、ダリルの口元も僅かに緩んだような気がした。彼は面映ゆそうに視線を逃がしながら車を降りて行こうとして、ちょっと立ち止まり、最後にもう一度キャロルを振り返った。

「あの子はここを気に入る」

 微笑みを湛えてナニワイバラを眺めるキャロルの傍に、り以子は取り残されたような気持ちで突っ立っていた。

***

 遠くの地平線に夕日が溶け、辺りがとっぷりと夜に浸かった。キャンピングカーでキャロルがアンドレアたちと夕食の準備をしていて、胃袋をくすぐるおいしそうな匂いが辺りに漂い始めた。森の近くには、ダリルがリスを焼く火が見える。デールがダイニングに皿を並べ出したのを見て、り以子は短く刈り揃えられた芝生を横切り、グリーン家にいるリックを呼びに行った。リックは寝室の肘掛け椅子に深く腰掛け、虚ろな目でカールの寝顔をぼうっと眺めていたが、り以子に気づくと顔を上げ、こちらを見ずに口を開いた。

「どうかしたか?」
「もうすぐ夕食です。あなたは皆と食べるかと思って」

 喋りながら、返って来る答えは決まりきっているだろうなとり以子は思った。案の定、リックは息子を見つめたまま小さく首を振った。

「今はカールの傍に」
「……分かりました。でも、あなたは何か食べるべきだと思います。私はそのように見えます」
「少し時間をくれ」

 リックは肘をつき、その手で落ち窪んだ目元をこすりながら、呻くように言った。

「分かりました」

 り以子は呟いて、そこから立ち去った。やっぱりなと落胆する一方で、投げやりな気持ちになる自分がいた。

 リックはり以子を遠ざけようとしている。カールの傍を片時も離れたくないという強い思いも本物には違いないが、それを口実にしてまでり以子と目を合わせたくないのだ。全身で拒否し、短い言葉で突き放しているのを嫌でも感じ取れてしまった。

 キャンピングカーから漂うおいしそうな匂いから顔を背けて、り以子は一人、森のほとりに立って深い夜の暗がりを見つめた。ソフィアを捜しに出るのも、キャロルを慰めるのも、リックの力になれるのも自分じゃない。方法が分からなくて途方に暮れてばかりいるり以子を尻目に、ダリルはいとも簡単に成し遂げてしまった。追い抜かれて、放されていく。皆の背中を遠くから見つめるしかない無力な自分がとても虚しかった。胸の中ががらんどうになっていて、何を入れれば満たされるのか見当もつかなかった。