Chupacabra

無限の生命力

 ゆっくりと意識が浮上し、ダリルは狭苦しいテントの天井を見つめながら目を覚ました。布の天井越しに朝の陽光が染み込んできている。体にはまだ昨日の疲労が少しだけ残っていた。汗ばんだ体のままテントの出入り口を開くと、思っていたよりも涼しい空気がなだれ込んできた。こんな世界になっても、季節の変わり目を迎えようとしているのだと、ダリルは荷物から長袖のシャツを引っ張り出しながら、柄にもなく感慨深い気持ちになった。

 あちらの方でキャロルが洗濯物を捌いている。誰よりも早くに起床し、全員の汚れた衣服を回収してせっせと洗濯していたらしい。ダリルが寝室に飾ったナニワイバラは、キャロルの手を取って立ち上がらせる役目をきちんと果たしたのだろう。ダリルは少し胸が軽くなるのを感じた。

 外へ出ようと立ち上がったダリルは、肩にかけたシャツの折り目から何かがぽろりと零れ落ちたのに気づいた。しわくちゃの毛布の上に、小さな薄い手帳が転がっている。ダリルはそれを手に取って、少し離れたところにあるテントをちらっと一瞥した。入り口に、座り込んで革靴を履いている女子高生の姿がある。

 黒い合皮の表紙に金の厳かな紋章が箔押しされ、ダリルの読めない文字で学校の名前らしきものが綴られている。り以子の学校用の手帳か何かだ。ハイウェイでの最後の夜にキャンピングカーのダイニングテーブルで拾い、咄嗟にポケットにしまい込んだまま、返すタイミングを失ってしまっていた。昨日着替えた拍子に荷物に紛れ込んでいたらしい。

 中の文字は読めないが、間には何枚か写真が挟まっていた。同じ制服に同じ髪色、似たような顔をした少女ばかりが写っている。その中にり以子の顔を見つけるのは簡単だった。一番しっくり来る顔立ちをしているので、初めて見た時にすぐに分かった。阿呆みたいに弾けた笑顔をしていて、特別何もなくても幸せですというような感じだ。どこにも酒やタバコはないし、クスリなんて以ての外だ。まるで違う世界を覗き見ているような心地になる。

 サクッとリンゴをかじったような、軽やかに芝生を踏む音がして、テントの外に気配が現われた。ダリルは手帳をポケットに突っ込んだ。

「おはようございます」

 舌足らずな英語で挨拶をする少女は、写真の中の彼女とは違う無表情だ。ダリルは何と返したらよいか分からず、無言で頷いた。

 ずっとワイシャツ一枚だったり以子が、今日はブレザーに袖を通していた。下は相変わらず丈の短いスカートで、腰のベルトに二振りの刀を差している。あんな刃渡の長い得物をよくも器用に振り回せるものだと、初めて彼女の立ち回りを見た時は舌を巻いた。同時に、複雑な思いもあった。相手はウォーカーといえど、人殺しまがいのことをしている彼女を、どうしても似合わないと感じてしまう。白い手が赤黒く穢されるのが物悲しい。たとえ、それが仕方のない世界なのだとしても。

「おはよう、みんな。出発するぞ。先は長い」

 シェーンを従えたリックがやって来た。ダリルとり以子、アンドレア、そしてTドッグがキャロルの車の周りに集結した。リックがボンネットに測量図を広げている。

「よし、今日は捜索範囲を一新しよう──もしあの子がダリルの見つけた農家まで行ったなら、もっと東まで行ってるかも」
「手伝わせて。この辺は詳しいから」

 輪の外から話しかけてきた青年を、ダリルは長袖のシャツを羽織りながら冷たく睨んだ。ひょろっと細くて全然頼り甲斐がない。どこの馬の骨かと思えば、ハーシェル側の人間の一人だ。リックは難しい顔をしている。

「ハーシェルは何と?」
「ああ、うん、あー……『あなたに聞け』と」
「分かった。助かる」

 青年がホッとしたように、何故かり以子とアイコンタクトを交わし合った。何を企んでいるのやらと目を細めていたら、シェーンがぐずぐず言い出した。

「ダリルはソフィアの悲鳴を聞いたわけじゃない。その農家にいたのは別の誰かってこともあり得るだろう」
「あの子ってこともあり得るわ。でしょ?」アンドレアが言った。
「あの食器棚で寝れる奴はこんくらいもないはずだ」

 ダリルが自分の腰の位置よりも低いところを示すと、アンドレアが「そうね」と頷いた。

「元の道に戻るか」リックが提案した。
「いや、いい。馬を借りるぞ。この尾根に登って鳥瞰で全体を見渡して来る。もしあの子がそこにいるなら見つかるはずだ」
「確かに」Tドッグが横槍を入れた。「チュパカブラにも出くわすかもな」

 皆が一斉に押し黙った。リックが訝しげに眉を寄せる。「チュパカブラ?」

 すると、ショットガンを配りにやって来たデールが、バッグを開けながら言った。

「知らないのか?キャンプ最初の夜にダリルが言ってた──『リス狩りに行ってチュパカブラを見た時のことを思い出す』とね」

 ジミーが噴き出したので、ダリルはすかさず彼を睨みつけた。

「おかしいか?若造」
「吸血犬を信じるとでも?」

 リックまでもがおかしそうに揶揄してきた。

「歩く死人を信じるか?」

 誰も答えない。ダリルは自分の隣で物珍しそうにショットガンを眺めているり以子を見下ろした。り以子は少し遅れてから視線に気づき、何故自分が見られているのか分からないという顔をしたが、ダリルが促すように眉を吊り上げると、

「私も幽霊を見ました」と抜かした。

 皆が微妙な顔をして無視をした。これは素っ頓狂な方の発言だ。

「おい。気をつけろ」

 突然リックが声を上げた。ジミーが車の上に置かれたショットガンを手に取ろうとして、リックに取り上げられていた。

「撃ったことは?」
「外に行くなら僕も銃が欲しい」
「ああ。地獄にいる人間もスラーピーを欲しがるよ」

 ダリルの挑発にジミーはムッとした顔を見せたが、ダリルはどこ吹く風で、クロスボウを背負って厩舎に向かった。

 厩舎には馬が二頭いた。特有の藁と馬糞の混ざった臭いが立ち込めている。一部屋ごとにしっかり扉が閉まっていて、馬たちは窓の網越しに探るような目で自分の知らない来客を観察していた。ダリルは倉庫から鞍を探して持ち出し、壁にかかっていた鍵を適当に一つ選んで馬を連れ出した。

 グリーン一家の家の前で、り以子がジミーと話し込んでいるのが見えた。声までは聞こえないが、ジミーが身振り手振りで一方的にまくし立てているのを、り以子が一生懸命聞き取ろうと前のめりになっている。り以子はいつもそうだ。英語を理解しようと必死なのか、身を乗り出して食い入るように唇を見つめてくる。何日か前にガソリンスタンドで燃料を調達していた時、グレンが「いつかキスされちゃうような気がする」と軽口を叩いていたのを思い出した。

 初々しいカップルのように額を寄せる二人がなんだか馬鹿馬鹿しく思えて、ダリルはふんと鼻を鳴らした。馬に跨って森へ消える時、り以子が振り返ってこちらを見たのに、ダリルはちっとも気づかなかった。