Chupacabra

無限の生命力

 少女の行方が分からなくなってから、今日で四日目だ。時は矢のように過ぎていくのに、手がかりは少ない。それでもゼロではない。ソフィアは生きて森を彷徨い、その痕跡を残している。必ず何か見つかるはずだ。目を凝らしながらゆっくり馬を歩かせていると、少女はいなかったが、木の幹に食料を見つけた。矢が唸り、刹那のうちにリスを仕留める。矢を抜いてリスの死骸を回収し、ズボンのベルトに引っ掛けて先へ進んだ。

 少し行くと、木々の切れ間に光が見えた。眼下に走る小川が抜けて見えている。ダリルは思わず声を漏らして馬を止めた。よく見ると、自然の中に不自然な何かが紛れているような気がする。馬を降りて、木々の合間から身を乗り出したダリルは、それに毛糸の髪の毛が生え、短い手足がついていることに気がついた。

 背負っていたクロスボウを手に持ち直し、若木に掴まりながら斜面を下りた。下流で行き止まりになった流木に引っかかっていたそれは、ソフィアがモラレスの娘からもらった女の子の人形だった。ダリルが拾い上げると、人形は涙のように水を滴らせた。切なく笑みを浮かべている顔は、泥で薄汚れている。ダリルは周囲を見回し、腹の底から声を張り上げた。

「ソフィア!」

 返事はない。

 しかし、これは収穫だった。ソフィアは確実にこの辺りを通った。小川を渡ろうとして、誤って人形を落としたのだろう。

 ダリルは人形をベルトに挟んで斜面を上り、再び馬を進めた。途中でカラスの大群が眼前を横切り、馬がすっかり怯えてしまったので、ダリルは声をかけて懸命に宥めた。唇を鳴らして呼びかけ、さらに奥へ向かう。少しの手がかりも見逃さないように、鋭い目を崖の下に注意深く走らせていた。

 その時、枯葉の下から何か蠢くものが飛び出して来たかと思うと、馬が恐怖のいななきを上げて暴れ出した。ダリルは驚きに声を上げ、なんとか馬を宥めようと手綱を引いたが、馬はますます暴れ回り、ついにはダリルを振り落とした。ヒュッと胃袋が浮き上がるような奇妙な感覚がしたあと、全身に息が詰まるような衝撃が走り、次の瞬間、世界が激しく回転し出した。天と地がめまぐるしく入れ替わり、それを痛いと感じる前に、バシャッと冷水の絨毯に飛び込んで、堅い岩肌に叩きつけられていた。何かが服の腹を突き破り、脇腹が急激に熱くなった。ダリルは受け身を取って抗うことも出来ず、濡れた斜面をただ滑り落ちて行く……。

 最後に強烈なドスッという打撃が加わって、ダリルは下流の浅瀬に仰向けになっていた。あちこちが痛み、息をするのも辛かった。特に脇腹には焼けるような激痛があった。

「クソったれ……」

 自分の体から染み出す赤い血が、絵の具を水に溶かすようにじわじわと広がっていく。腹に力を入れて顔を起こすと、脇腹の皮膚を突き破って矢尻が飛び出しているのが見えた。

 ダリルは傷の近くを押さえながら、もう片方の手を使って浅瀬から這い出した。少し体を動かすだけで、刺さった矢が動いて皮膚の内側を擦る感触がした。ダリルはナイフでシャツの袖を両方切り落とし、繋いで帯状にしたものを、胴体にきつく結びつけて圧迫した。矢を動かないように固定するのに、強烈な痛みや息苦しさと戦わなければならなかった。

 ナイフを革の鞘に納め、肩で息をしながら尾根を見上げたダリルは、そのあまりの高さに絶望した。切り立った崖が嘲笑うかのようにダリルを見下ろしている。

 ダリルは傷口を庇いながら立ち上がり、手頃な枝を拾って杖にした。杖を頼りに崖をよじ登ろうとしていた時、すぐ傍の茂みから葉を揺らす物音が聞こえ、背筋が冷えた。こんな時に、もしもウォーカーに襲われたら──反射的に背中に手をやったが、そこにあるはずのクロスボウがない。転落した拍子に水の中に落としてしまった。ダリルは急いで探しに戻った。泥とダリルの血ですっかり濁った川底を、杖を差し込んで探った。なんとかクロスボウを見つけて拾い上げると、いつもなら何てことのないはずの武器の重みで膝が折れかけた。

 重いクロスボウを腕にぶら下げ、動かない体で急斜面を登っていく。一歩一歩杖にしがみつきながら、滲み出る激痛に喘ぎ、歯を食いしばった。やっとの思いで中程まで上がってくると、土が脆くなり、杖をつく場所がなくなった。ダリルは急に馬鹿らしくなって、杖を放り投げた。見上げる先は絶望的に遠い。

「クソッ……あと半分だ、くじけるな」

 自分で自分を叱咤し、痛みを覚悟して大きく踏み出したが、なかなか上手く進めない。不安定な足場でぐずぐずしていたら、急に自分の体が何か強い力で引きずり下ろされるような感じがした。咄嗟に手を伸ばすも虚しく、ダリルは再び真っ逆さまに落ちていった。

***

 背後で規則正しい寝息が上がっている。ダリルは真っ暗な部屋の中で、自分のものよりずっとか細い呼吸の音を妙な気分で聞いていた。

 CDCに迎え入れられ、密かに楽しみにしていた久々のベッドは、何の間違いか女子高生と折半する羽目になり、期待していたよりずっと窮屈で寝心地が悪かった。確かに清潔なシーツと弾むマットレスは最高のはずなのに、背中に感じる他人の体温のせいでよく分からなくなっている。犬猫と似たようなものだと思って招き入れたが、馬鹿な計算違いをした数十分前の自分を全力で張り倒してやりたくなった。

 タオルケットがずれて、スプリングが弾むのを感じた。肩越しに背後を覗くと、さっきまでダリルに背中を向けていた女子高生が仰向けに寝返りを打っていた。どうしてこいつはこんなに熟睡してるんだ?あんなに渋ってたくせに、一体どういう神経をしてるんだ?──ダリルは鼻筋の低い横顔を睨みつけて、じっとりと溜め息をついた。

 気にしないようにしようと、ダリルも仰向けに直って天井を見つめた。すーすーと気持ちの良さそうな鼻息が聞こえる。駄目だ。やっぱりどうしても気になって仕方がない。

 ダリルは舌打ちをして上半身を起こし、枕に肘をついてり以子を観察した。じっと見ていれば視線を感じて目を覚ますんじゃないかと期待したが、そんなことはなかった。

 馬鹿みたいにふわふわしたピンクのパジャマから、真っ白い柔らかそうな腕が伸びて、タオルケットの上に力なく乗せられている。暗がりの中、その柔肌にうっすらと残る赤い線が見えて、気づくと無意識のうちに手を伸ばしていた。危険を顧みず、兄貴を助けようとして負った傷だ。ダリルなら何もせずに放っておく程度のものだったが、そんなかすり傷でも、白くて華奢な彼女の腕には酷く痛ましく見えた。自分の無骨な太い指が、傷口を避けながら、り以子の肌をくすぐるようになぞり上げる。自分にはない、なめらかな感触がした。

 り以子が「ん……」と小さく声を上げて、肩を強張らせた。ダリルは手を止め、り以子の顔に目を向けた。り以子はちょっとだけ眉のあたりをしかめたが、すぐに穏やかな寝顔に戻った。ダリルはり以子の枕元に腕をつき、もっと近くから彼女の顔を覗き込んだ。

 顔にかかっていた黒髪を指で払いのけると、指先にふわふわした温かい頰が触れて、不覚にもどきっとした。り以子が小さく唸って、顔を僅かにこちらへ向けた。甘い、ダリルの知らない洋菓子のような香りが立ち、胸の奥の狭い場所がむず痒くなった。

 丸いおでこや小さな鼻、半開きになっている小ぶりな唇──顔の造形はもちろん、髪質も肌質もダリルとは全く違う。別の生き物のようにも見えてくる。こんなに弱々しい小さな体で、ダリルでさえ苦労する世の中をどうやって生き延びてきたか不思議で堪らない。これは壊れ物だ。薄いガラスとか、繊細な銀細工とか、そんな類の脆いもので、ダリルなんかが少し力加減を間違えばたちまち壊してしまう気がした。誰かが守ってやらなくてはいけない、無力な少女だ。

 ダリルの脳裏に二日前の記憶が電流のように迸った。襲われた仲間たち、ウォーカーだらけの野営地……死体の海の中に浮かび上がる白い脚を見つけた時、ダリルは本当に肝が冷えた。かわいそうに、死んでしまったのだと思った。しかしり以子は奇跡的に生きていた。ふにゃふにゃした心許ない体でダリルにしがみつき、ショックで泣いていた。これから先、もしもまたあのようなことが起きた時、誰が彼女を守るのだろうか。だって、彼女には身寄りがないのに。リックでさえ、妻と息子を守るだけで手一杯だったのに。

 ダリルが恐る恐る手の甲を近づけると、り以子は無意識に頬を摺り寄せてきた。非常灯にぼんやりと浮かび上がった儚げな輪郭をなぞって、ダリルは微かに瞳を揺らした。