Chupacabra

無限の生命力

 頭が朦朧としていた。体の全ての感覚がない。空が見えるような気もするが、梢に遮られているような気もする。自分がどこにどんな格好でいるのかさえよく分からなかった。それなのに、ゆっくりとぬかるんだ土を踏みしめながら近づいてくる足音だけは、奇妙なほどはっきりとダリルの耳に届いた。ダリルが重たい瞼を押し上げると、ぼやけた自分のまつ毛の向こうに、見下すような一対の青い目が現れた。

「矢を抜けよ、阿呆。傷の治りが早い」

 ダリルは失笑した。ニヤニヤと自分を見下ろす憎たらしい顔は、兄のものだ。

「……メルルか」
「ふん。ここで何してる?お昼寝シエスタか?」
「しんどい一日でな、兄貴」
「枕でもやろうか?フットマッサージは?」
「ふざけるな……」

 ダリルの声は自分でもちゃんと出ているのか疑問に思うほど弱々しく掠れていた。

「ひどくやられたようだな。一人前の男に仕立てようと長年汗したが、この体たらくだ。ったく……使用済みのゴムみたいにへたってやがる。お前はここで死ぬんだ、兄弟。何のためだ?」
「女の子が……」ダリルが幽かに言った。「小さい女の子が行方不明だ……」
「少女趣味に走ったのか?てっきり黄色い女子高生が好みかと思ってたぜ」
「黙れ……」

 ダリルが唸った。メルルは黙らない。

「お前がメルル兄ちゃんを探すのは諦めたって気付いちまったからな」
「必死で探したんだ、兄貴」
「必死に?お前はいなくなった。さっさと見捨てたくせに」

 うんざりするような無の中で、ダリルは自分の心臓が嫌な音を立てたのが分かった。

「見捨てたのはあんただ。あんたは待ってなきゃいけなかった……俺たちは戻ったんだ。リックと俺で……うん……あんたの言う通りに……」
「俺を屋上に縛りつけたリックのことか?俺の手首を切り落とさせた?」

 その時、ダリルは目の前の男の腕に右手がくっついていることに初めて気がついた。違う。これは幻覚だ。そうだ。兄貴がこんなところにいるはずがない。それも五体満足で……。

「お前、あいつの奴隷になったのか?」
「俺は誰の奴隷でもねえ」
「馬鹿言うなよ。吊り目スロープちゃんとか黒人野郎ニガーとか、民主党支持者どもの使いっ走りじゃねえか」

 メルルはせせら笑った。

「連中にとっちゃ、お前は気違い以外の何者でもないのさ──赤っ首のゴミレッドネック・トラッシュ。それだけだ。隠れてお前を罵ってるんだ。分かってるんだろ?」

 もう長いこと聞いていなかった、この世から消えてなくなったとさえ思っていた差別的な言葉の集団に、ぼやけた視界がグラグラした。

「教えてやろう、兄弟。いつか靴底についた犬の糞のように引き剥がされる」

 うるさい……黙れ……何も知らないくせに……。

「小娘なんかに惑わされるなよ。あいつはナイトが欲しいだけなんだ。誰にでもいい顔をする。頭の悪そうな男に白い太ももを見せびらかしてよ、キスで騙してその気にさせて、優越感に浸ってるただのビッチだ。俺にだってそうしたようにな──ああ、お前はキスもしてもらってないんだったか?」

 スーッと、意識が遠のきかけたダリルの胸を、メルルが「おい」と叩いた。

「奴らはお前の家族じゃない。よそ者だ。お前のタマ袋が空じゃなけりゃ、戻ってお友達のリックの顔に弾をブチ込め。いいか、よく聞け──」メルルがダリルの顎を掴んだ。「お前のことを思ってるのはこの世で俺だけだ、兄弟。誰もお前なんか気にかけちゃくれない」

 硬い手がダリルの頬や胸を挑発的に叩いている。

「さあ、立つんだ。さもなきゃ出っ歯を蹴り折るぞ。ほら──」

 脚を蹴られた。体が揺さぶられる。うるさい……黙れ……俺は眠りたいんだ…………。

 メルルの声が汚物を吐くような醜い嗄れ声に変わった。何だか変な感じがして、急激に意識がクリアに晴れた。足元を見下ろすと、ダリルのブーツを掴んでかじっていたウォーカーと目が合った。

 たちまち頭の中が恐怖で満たされた。ウォーカーの頭を力一杯蹴り飛ばし、転がっていたクロスボウに手を伸ばす──それを阻むように、起き上がったウォーカーが体の上に覆い被さって、ダリルに顔から食らいつこうとした。ダリルは咄嗟に石でウォーカーの肘を叩き、立て続けに殴ったり蹴ったりして、地面に転がした。しかし、ダリルがマウントポジションを取ったのは一瞬で、すぐに髪を掴んで引き倒されそうになり、満身の力でウォーカーを投げ飛ばした。

 藪の向こう側から、ウォーカーがもう一体やって来るのが見えた。挟まれたらおしまいだ。ダリルはさっき捨てた杖を掴んで立ち上がり、目の前のウォーカーも立ち上がった。り以子が刀を振るうみたいに振るってウォーカーの足を払い、起き上がれないように杖で胸を押し倒した。そのままウォーカーの顔面を叩き潰し、とどめに頭蓋骨を貫通して地面に突き刺した。

 もう一体のウォーカーがすぐそこまで迫って来ている。ダリルはその場に寝転がり、自分の腹を貫通している矢を力任せに引いた。矢羽が皮膚の内側を逆撫でし、震え上がるような激痛に声が漏れた。どうにか引き抜いたそれを口にくわえ、クロスボウを足で押さえて両手で弦を引っ張った。力むほど傷口から血が溢れ出すのを感じた。ウォーカーが来る──カチッと音がして、弦がトリガーにかかった──間に合わない──矢を装填する──ウォーカーがダリルの顔を覗き込んだ──。

 飛び出した矢がウォーカーの眉間を貫き、ウォーカーは目を見開いたまま、ダリルの横にうつ伏せに倒れ込んだ。ああ、生きている。引っ掻き傷も噛み傷もない。なんとか凌いだんだ──ダリルは大の字になり、暴れる息を吐いていた。

***

 気づくと太陽の位置が変わっていた。いつの間にかまた意識を飛ばしていたらしく、ダリルは壊れた死体と並んで水辺にひっくり返っていた。

 傷口からどくどくと堰を切って血が溢れ出している。ダリルは痛みを堪えながらシャツを脱いで傷口に当て、胴を縛っていた紐で強く結んだ。何もかも馬鹿げている。いつだって助けなんて来ない。自分がいなくなったことだって、誰か気づいている奴がいるか?

「クソ兄貴の言う通りだ」

 ダリルは流木に跨り、ナイフを川の水で軽くゆすいで、リスの腹を裂いて内臓を食べた。いつだったか、り以子が生魚を食べたいと言っていたのを思い出した。死体から抜いた靴ひもに、奴らの耳を削ぎ落として通し、首からぶら下げた。

 木の根や若木を掴み、急斜面をよじ登っていく。西日がギラギラとダリルに照りつけ、容赦なく体力を奪って行く。肩で息をしながら睨みつけていると、煩わしい鳴き声を響かせ、鳥が頭上を行き交うのが見えた。

「鳥に餌を与えないでください」

 ふざけた幻聴が聞こえる。またメルルがやって来た。

「どうしたの?ダリーナちゃん。くたびれちゃったかしら?」

 ダリルは無視して斜面を登った。

「バッグを捨てて登れ」
「……あんたの性の悪さを思い出した」
「おいおい、酷い言い草だな。味方だろ?」
「へえ?いつから?」
「お前が生まれた日からさ、弟ちゃん。誰かがろくでなしのお前の面倒を見なきゃいけなかった」

 こっちは必死に蔦を取ってもがいているのに、メルルは安全なところに突っ立って無駄口を叩いているだけだ。

「面倒なんて見てもらった覚えはないね」ダリルは怒りに任せて吐き捨てた。「嘘ばっかつきやがって!お前はいなかったじゃねえか!ちくしょう、今だってそうだ。何も変わってない」
「教えてやろう。俺はお前のチュパカブラと同じようなもんだ」
「本当に見たんだ!」

 ダリルが即座に言うと、メルルが冷たく笑った。

「マッシュルームでハイだったんだろ?え?女子高生はよかったか?」
「いいから黙れ!」
「さもないと何だあ?ここまで登って来て、力ずくで俺を黙らせるってか?へえ、ならやってみろよ。腑抜けのお前にできるかな?──ほら、ハイヒールを脱いでさっさと登って来い、兄弟!」

 ダリルは怒りで頭を振った。滝のように流れ出る汗が鼻先から飛んで行った。

「俺なら諦めるね。お前じゃ登ってこれない」

 ダリルは若木に全身でしがみついてよじ登った。あともうちょっとだ。もうすぐそこでメルルが手招きしている。耳障りな嘲笑が耳にこびりついて離れない。

「来い!弟よ、上がって来い──仲良しのリックの手を掴んでな」

 叩きつけるように伸ばした手が、ついに頂上にたどり着いた。呻き声を上げ、最後の力を振り絞って這い上がった。枯葉の絨毯の上に、黒い合皮の小さな手帳が転がっている。ダリルはそれを掴み取って立ち、ゼエゼエ言いながら木々の中にギラついた目を走らせた。兄貴はいない。どこにもその姿はない。

「逃げたな!」

 ダリルの吠えるような声が、木々の中に虚しく反響していた。