重たいクロスボウと鉛のような足を引きずって森を抜け、やっとの思いで農場に戻って来た。長い道のりだった。ほとんど馴染みもないはずなのに、しみついた馬糞の臭いを嗅ぎ、田舎臭い白い家を見ると、どこか安堵を覚えた。
手のかかるポンコツ車から、武器を担いだ男たちが血相を変えて駆け寄って来る。ダリルが睨みつけると、リックが先頭で拳銃を向けた。
「これ、ダリルか?」
グレンが怪訝そうに声を上げた。大方、ダリルをウォーカーと見間違えでもしたのだろう。ダリルはリスの血で口周りを汚し、泥まみれの身体のあちこちから血を流していた。
「あんたが俺に銃を向けるのはこれで三度目だな!」
ダリルが荒い声を上げると、皆がホッとしたように武器を下ろした。
「引き金を引くのか?あ?」
その瞬間、遠くに銃声が鳴り響き、ダリルのこめかみで何かが炸裂した。たちまち目の前が真っ白になり、ダリルはその場にひっくり返った。世界が急激に遠のいていく。リックがしきりに「やめろ!」と叫んでいるのに混じって、つんざくような金切り声が聞こえた。
誰かが胸に覆い被さった。ダリルは朦朧としながら、頭部の灼熱に恐る恐る触れた。その手を誰かが掴んで引き寄せ、力強い四本の腕に抱き起こされた。何となくリックとシェーンだろうと思った。
「冗談だよ……」
本当に撃ちやがって……。
足に力が入らない。立っているのか座っているのかよく分からなくなってきた。薄れゆく意識の中で、り以子がきゃあきゃあ喚いているのだけは、いつまでも感じていた。
「ダリルさん!ダリルさん!この人、死んでる!」
「落ち着け、失神してるだけだ」
「嫌!ダリルさん!ダリルさん──」
ダリルはふわふわした何かに包まれていた。すごくいい匂いがする。とろけるほど気持ちがよくて、しばらくこのままでいいと思った。徐々に感覚が戻り始め、自分の体がどうなっているのか、ぼんやりとだが分かるようになってきた。清潔なベッドの上に横たわっている。ふわふわしたのは枕かクッションだ。温かく湿った柔らかいタオルが、顔や首筋を這い回っている。ほの甘いクリームみたいな匂いは何だろう。
ゆっくり瞼を押し上げると、全部がぼやけて見えた。何度か瞬きをするうちにピントが合い、ダリルとは違う黒っぽいはっきりとした色の瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいるのが分かった。
「ああ、よかった。本当に生きてた」
女子高生がホッとしたように何か言った。ダリルの知らない言葉だった。
「失礼します」
白い手が遠慮がちに伸びてきて、温かい濡れタオルで優しく口の周りや顎を撫で出した。照れくさくてすぐに「やめろ」と言いたかったが、なんだかひどい倦怠感で動く気がしなかった。り以子はベッドに片脚まで乗り上げて座り、ダリルの顔のすぐ側に手をついて、こびりついた血や泥を拭い落としていた。もっと乱暴にしたっていいのに、まるで壊れ物を扱うみたいな優しい手つきだ。胸の裏がざわざわする。
「……これは何の血ですか?」
生で食ったリスの血だと答えたら、り以子が脅えてこれを止めてしまうような気がして、ダリルは無言を押し通した。
り以子は一旦洗面器に張った湯の中でタオルを洗い、固く絞ってから、再びダリルに向き直った。さっきよりも温かいタオルが首筋をいたわるように撫で上げる。ダリルはり以子を見つめているのに、り以子はダリルの首を見ているので、視線が交わらないのがもどかしくもくすぐったい。思わず身を捩ると、り以子がもう一方の手で顎をそっと押さえたので、馬鹿みたいにドキッとした。
り以子がまた洗面器でタオルを洗っている。ささやかに揺れる水の音が耳に心地よかった。柔らかいオレンジ色の照明が気遣うようにダリルを照らしている。これは夢だろうか。憎たらしく毒を吐く兄貴の次は、砂糖水に浸かったような馬鹿げた妄想か。ダリルは自分がいよいよイカれたと思った。
真っ白い、清らかな花の香りがするふかふかのタオルがこめかみに触れた。ピリッと僅かな痛みが走ったが、ダリルに覆い被さるり以子のほのかな香りが、何もかもどうでもよくさせていた。
ガチャッと扉が開いて、ハーシェルを連れたリックとシェーンが部屋に入って来た。途端にダリルはかかっていた魔法が解け、五感のすべてが現実に戻ってくるのを感じた。自分の夢にこいつらが出てくるはずがないのだ。
「傷の手当てをするぞ」
ハーシェルがベッドサイドテーブルに器具を置き、パトリシアに洗面器を持って来させた。ダリルとり以子の距離感に気づいたリックが、物言いたげにダリルを見ている。ダリルは小さく舌打ちを飛ばして、女子高生からタオルを奪い取り、自分で頭の傷を押さえた。
「り以子、足を下ろせ」
リックが目も合わせずにり以子に言った。ダリルはり以子がムッと鼻にしわを寄せたのを見た。
「嫌」
「嫌じゃない。下りて、手伝いをしてくるんだ、ローリたちの」
「いーや」
「いーやじゃない」
リックはり以子の傍に立って、持っていた測量図を丸めた筒で促すように肩を叩いた。不満げなり以子が応援を求めてダリルに目を寄越し、ダリルは俺を巻き込むなと心底うんざりしつつも、言う通りにしとけと顎をしゃくった。り以子は信じられないという顔で最後にシェーンを振り返り、シェーンが面倒臭そうに肩をすくめると、気を悪くして床をドスドス鳴らしながら寝室を出て行った。
「焼きもちじゃなさそうだな」
シェーンが茶化したが、リックは何も言わずにベッドの上に測量図を広げた。ハーシェルがダリルのタンクトップを鋏で切って脱がし、脇腹の傷を消毒している。
「何があった?」
リックが訊いた。ダリルは口をへの字にひん曲げて肩をすくめた。
「へましただけさ。ハラキリしてたわけじゃない。崖から落ちたんだ」
「ウォーカーに襲われたのかと」
「俺の靴がな」
「……夕方になってもお前が帰らないとり以子が騒いでた」
ダリルは妙な気持ちになって眉をしかめた。なんであの子がダリルの帰りなんかを待っていたのか、理解が及ばなかった。ひょろっこい若造と楽しくやってるのかと思っていた。
「ところでソフィアの人形だ、ダリル、どこにあった?」
「小川の岸に流れついてるのを見つけた。あの辺りを渡ってる時に落としたんだろう」
「これで範囲が半減する」
「ああ、礼はいいぞ」
ダリルはハーシェルがチクチクやっているのを見ながら、軽い調子で言った。シェーンは浮かない顔でじっと黙っている。
「傷は?」と、リックがハーシェルに声をかけた。
「抗生剤の消費が思ったより早い」
ハーシェルは糸を切ると、洗面器で手を洗いながら厳しい目をダリルに向けた。
「私の馬はどうした?」
「ああ、俺を殺しかけた奴か?頭がよけりゃ国を出てっただろう」
「我々はネリーと呼んでる。『臆病なネリー』だ。連れてく前に訊ねてくれれば教えたのに」
ダリルはぐったりとベッドに仰向けになった。
「ここまで生き残ったのは奇跡だな」
まもなくして夕食の時間になった。キッチンから漂う美味そうな匂いが、ダリルの疲れ果てた胃袋をいじめている。ダリルは腹にガーゼを貼られ、頭に包帯を巻かれ、傷を上にした寝相で安静にしていなければならなかった。一度猛烈に喉が渇いてベッドを這い出したら、ハーシェルに「部屋から出るな」と押し戻された。部屋に戻る途中、食器棚の陰に隠れてベスとキスしているジミーを見つけて、ダリルは脱力した。
ダリルがベッドで腐っていると、遠慮がちにドアが開き、腕に盆を乗せたキャロルが現れた。ダリルは自分がシャツを着ていないことを思い出し、腰にかけていた毛布をサッと胸まで引き上げた。
「気分はどう?」
「見ての通りだ」
ダリルはキャロルに背を向けたまま、ぶっきらぼうに返した。
「……夕食を。お腹すいたでしょ」
キャロルがベッドサイドテーブルに盆を置いた。ダリルはそれを一瞥したきり、礼の言い方が分からず、不器用に黙り込んだ。
少し、何か考え込んでいるような間があった。キャロルがおもむろに身を乗り出してきて、ダリルは反射的に肩を縮めて構えてしまったが、敵意なんてあるわけないのだと警戒を解くと、キャロルは包帯の上から傷ついたこめかみにキスを落とした。再び離れていくキャロルを、ダリルはぎょっとした顔で見送った。
「……傷口が開く」
憎まれ口しか叩けない余計な口が、何か口走った。
「あなたは理解しておくべきよ」キャロルが静かに言った。「あなたが今日娘にしてくれたことは、あの子の父親が一生かけても出来なかったことだわ」
「リックやシェーンでも出来たことだ」
「そうね。二人に負けない男よ──自信を持って」
キャロルは部屋を出て行こうとして、ドアの隙間に張りついてひっそりと二人を覗いている少女に気がついた。いけないものでも見たかのような、ばつの悪そうな、同時に興味津々な顔をしている。キャロルはダリルと顔を見合わせると、微かにだが、おかしそうに笑った。
「行きましょ」
キャロルが手を伸ばして呼ぶと、り以子は子犬のように彼女について行った。ドアが閉まる直前、ダリルはり以子が自分に向かってぺこりと会釈をしたのを見た。