Secrets

明かされる秘密

 カールが退院した。この場合、担当医は獣医師で、入院先が農家のベッドだから、その言い方は少々おかしいかもしれない。とにかく、カールはハーシェルの許可が出てベッドから解放され、日常生活を送れるようになった。

 カールが眠っている間はほとんど面会謝絶状態で、り以子はベッドに沈む青白い寝顔しか見ていなかったが、久しぶりに会う彼は事故に会う前となんら変わりない元気な笑顔を見せていた。

「こーんなに近くで鹿を見たんだ」

 テントで荷物を漁っていたり以子に、カールは撃たれる直前の奇跡の出逢いを自慢げに話して聞かせた。

「すっごいよ。目が大きくて真っ黒で、すっごくかわいかった。り以子は見たことある?」
「はい」り以子は張り合うように鼻を高くした。「日本の奈良の鹿は信号待ちをします」
「嘘だよ!」

 衝撃を受けるカールの顔がかわいらしくて、り以子はローリと顔を合わせてクスクス笑った。

「……まさか、本当にしないわよね?」
「本当ですよ。彼らは横断歩道を渡ります」
「晩飯を手に入れるのが楽になるな」

 近くのテントから何もかも台無しにする一言が飛んできて、三人の顔から笑顔が消え去った。

 微妙な空気をどうしたものかともじもじ荷物を弄んでいると、遠くからパトリシアが呼びかけて、鶏の餌やりを手伝って欲しいと申し出た。即座にり以子が手を挙げたが、カールがそれを遮って立ち上がった。

「僕、やりたい」
「いいのよ。り以子に任せましょう」ローリがカールの柔らかい髪を撫でながら言った。「あなたは病み上がりなんだから」
「餌をやるくらい何てことないよ。僕、何かをしてたいんだ。ずっと寝てたから」

 ローリが困り果てた表情でり以子を見た。り以子は参って肩をすくめた。結局ローリが折れ、彼女の監視のもとでカールが餌やりに向かった。

 り以子は手持ち無沙汰になってしまい、何か手伝うことはないかと野営地を歩いて回った。デールがTドッグとキャンピングカーのひさしを張っているが、力仕事はやらせてもらえないだろう。他の皆もちょうど今起きてきたばかりのところで、人手の需要はなさそうだ。り以子は打刀を外して折りたたみ椅子にちょこんと腰掛けた。絶対安静を言い渡されたダリルが、テントの中で退屈そうに矢を弄んでいる。その矢で蚊帳に穴を開けているのを見て、テントは大丈夫かなと心配になった。

「いい?」

 アンドレアがダリルのテントに入っていくのが見えた。デールのキャンピングカーにあった分厚い本を持っている。

「あんまり面白くないけど……」

 暇つぶしの差し入れのようだ。自信なさげに様子を窺うアンドレアの前で、ダリルは興味なさそうにパラパラと本をめくった。

「絵がない」
「本当にごめんなさい。反省してるわ」

 アンドレアは本の内容について謝っているのではないと、り以子にも分かった。ダリルの怪我の一つは、アンドレアの勇み足が原因だ。しかしダリルはさして気にしていないようで、本を脇に置きながらこともなげに言った。

「ああ、お互い様だ」
「許しは請わないけど……何か出来ることは?」
「あんたは仲間を守ろうとした。それでいい」

 アンドレアはホッとしたようだった。立ち上がって、テントから出て来ようとする。ダリルはその背中を「だが」と言って呼び止めた。

「今度俺を撃つ時は、ちゃんと死ぬよう祈っとくんだな」

 立ち去ったアンドレアの背中を見送りながらり以子はぼんやりと昨日の記憶を顧みた。ダリルが狙撃された時、り以子は死んだと思った。あちこち血まみれで、白目を剥いてひっくり返ったのだから無理もなかった。失神しているだけだと分かって幾分か安堵したけれど、なかなか目を覚まさないし、青ざめているし、口の周りをべっとり血で汚した姿はまるでウォーカーみたいで、ダリルが本当に目を開くまでは不安で仕方なかった。しかし、彼はあんな状態になっても、ソフィアの手がかりを掴んで帰って来た。本当に屈強な人だ。

「おはよう」

 蚊帳の向こうに寝転ぶダリルをぼうっと眺めていると、グレンが重そうな籠を持ってやって来て、り以子にいい香りのする実を差し出してきた。

「桃をどうぞ。一番おいしそうなやつだよ」
「ありがとうございます」

 急にどうしたんだろうと訝りながらも、り以子はありがたく桃を受け取った。さらさらの皮が魅力的な甘い香りを放っていた。り以子は鼻を近づけて思い切り香りを味わった。グレンはそれをじっと見つめている。なんだか今にも吐きそうな顔だ。グレンはり以子から視線が返ってきていることに気づくと、驚いたように顔を振り、苦し紛れに、

「気分はどう?」と訊いてきた。

 それはこっちのセリフだとり以子は顔をしかめた。

「ごめん……そうじゃない。違う。ごめん」

 り以子にはグレンが何か言おうと思ってやめたように見えた。何でもないと手や首を振りながら、籠からもう一つ桃を取り出して、り以子の手の上に重ねた。

「これも。あんまり熟れてないから、ダリルにやって」

 グレンは押しつけるように言い残し、籠を持って離れて行った。

 り以子がグレンの背中を見送っていると、ヒュイッと口笛が聞こえた。テントの中からダリルが顎をしゃくっている。り以子は桃を二つとも抱え、呼ばれるままにテントを訪れた。ダリルはシャツのボタンをくつろげて大胆に胸元を晒していたので、り以子はちょっとどきっとした。り以子の足が止まりかけたのに気づいて、ダリルはさりげなくシャツを手繰り寄せ、ボタンを一つだけ留めた。り以子はホッとした。

「グレンさんは桃を私にくれました」
「見てたよ」

 り以子は打刀を蚊帳に立てかけ、ダリルの枕元にしゃがんで桃を一つ手渡した。「ナイフはどこですか?」

 ダリルがウォーカーの耳を削ぐのに使ったナイフを寄越したので、り以子は辟易した。

「何に使う?」
「えーっと……桃、覆い、取る」
「皮剥き」
「そう、皮剥き」
「いらねえ」

 ダリルは皮のままワイルドに桃にかじりついた。り以子はカルチャーショックでしばしあんぐり口を開けていた。もしかして、アメリカ人は、りんごも桃も皮ごと食べるのか。

「あなたは剥かないんですか?」
「中国人はいちいち剥かないと果物も食えないのか?」

 り以子はすっと目を細めた。

「日本人」
「何?」

 ダリルは困惑したように目元をしかめた。り以子が表情を変えないでいると、ちょっと遅れてから合点がいったように大きく頷いた。そういえば、前にグレンを中国人と呼んでいたのを思い出した。ダリルの中ではアジア人はみんな中国人の括りなのだろう。なんて人だ。

「どうでもいい」ダリルはもう一口桃をかじりながら、り以子の桃を指差した。「食え」

 り以子は手の中の桃を見下ろして、ためらいがちに唇を押し当てた。ちらりとダリルの様子を窺うと、もぐもぐ口を動かしながら、さっさと食えとばかりにじっと見つめて待っていた。思い切って、皮の上からかじってみた。予想していたより少し硬くて、一瞬顎が止まったけれど、気を入れ直して歯を押し進めた。期待していたほんのりとした甘さではなく、歯ごたえが強く、濃厚な味で、控えめな甘さの向こうに酸味がある。咀嚼しながら断面をまじまじと見ていると、ダリルが眉をひそめた。

「毛虫でもいたか?」
「黄桃……」

 見れば分かるだろうという顔をされた。

 それきりしばらくは二人とも無言だった。さくさくと桃を噛む音が続いている。最初はびっくりしたが、生の黄桃もなかなかおいしい。いつか皆に日本の白桃も食べてもらいたいと思った。

「鹿は」

 一足先に完食したダリルが、べたついた指を一本ずつ舐めとりながら言った。

「信号待ちするのか」
「はい」

 り以子はポケットからハンドタオルを引っぱり出してダリルに渡した。ダリルはちょっと躊躇したが、べたつきが取れなかったらしく、仕方なさそうにり以子のタオルで指を拭った。

「猿はお風呂に入ります」

 想像が及ばなかったのか、ダリルが難しそうな顔をした。り以子は小さく笑いながらタオルを回収し、自分の指のべたつきを拭った。

「日本は早々に国を閉じましたとジェンナー博士が言いました」
「へえ」
「……日本は島です。もしも日本へ行くことが出来たら、そこは安全かもしれません」

 ダリルの表情を見て、り以子は自分が馬鹿げた夢物語を語っているのだと自覚した。だが、夢を見ずにはいられなかった。もし感染を防げていたのなら、ウォーカーの脅威から守られた楽園かもしれない。それに、家族も親戚も皆いる。日本に帰りたい。出来ることなら、り以子の知っている人たち全員を連れて行きたい。大好きな人たち全員で安全に暮らしたい……。

「何が美味い?」

 出し抜けにダリルが切り出した。り以子は聞き取ることも、意図を汲み取ることも出来ず、黙ったまま目をパチクリさせた。

「食い物だ」ダリルが分かりやすく言い直した。「どれが美味い?」

 まだ意図はよく分からないけれど、り以子はとりあえず答えを考えた。

「……寿司。刺身」
「また生魚かよ」
「白桃!──おいしいりんご、甘酸っぱいみかん。抹茶味のアイス、ポッキー、コンビニスイーツ」

 あれもこれもと指を折りながら、思いつくものを何でも挙げた。ダリルにはきっと何が何だか分からなかっただろう。だけど何故だか言い出したら止まらなくなった。胸の奥が熱くなって、眉間の裏がつんと切なくなった。

「焼きそば!お好み焼き。たこ焼き。しゃぶしゃぶ、焼肉……お鍋!おでん──」

 どうしよう。り以子は思い出してしまった。帰りたい。り以子は家に帰りたかったのだ。

「──お味噌汁、白いご飯、とんかつ。おにぎり!お母さんの作る、甘ーい卵焼き……」