シェーンが怒り狂う気持ちも、全く分からないというわけではない。安全な地だと思って滞在していたのに、実は目と鼻の先でウォーカーを飼っていただなんて、とんだ詐欺にあった気分だ。しかし、リックの言うように、ここはハーシェルたちの土地で、り以子たちはあくまでも彼らの善意に甘えて場所を借りている身だ。彼らを糾弾する権利はない。
それより、り以子はもっと別のところに複雑な思いを抱いていた。腐臭を放ち、あちこちを再起不能なほどに損傷した醜い体で、薄暗い納屋に閉じ込められて永遠に蓋をされるなんて、彼らがかわいそうだ。犠牲になった家族を想うならば、人として葬ってやるべきじゃないんだろうか。り以子は厩舎でネリーの毛並みを手入れしながら呻くように溜め息をついた。
「何してるの?」
背後で足音が聞こえて、り以子は驚いて叫んだ。ウォーカーのことを知ったせいで疑心暗鬼になっていたが、背後に立っていたのはベスだった。
「……なんでも。私はただネリーを撫でていました」
「ふうん」
ベスは何か言いたそうにしていたが、彼女から進んで切り出すことはなさそうだった。り以子は思い切って口を開いた。
「今朝、私たちは納屋に行きました」
「そのようね」
「何故あなたたちはウォーカーをあそこに放置しますか?」
ベスはムッとしたように眉間にしわを寄せた。
「『ウォーカー』じゃないわ。私のママよ。それに、兄のショーン。いとこのアーノルドに、フィッシャー夫妻……他にもたくさんいるけど、みんな病気なの。治してあげられるまで、一時的に隔離しているのよ」
「……いいえ、彼らは違います」
「どうしてそんなことを言うの?」
ベスはり以子が非人道的で冷酷なことを言っているというような口ぶりだった。
「あなたに私の家族を否定出来る権利なんてない。何も知らないくせに──」
「私は知っていると思います。あなたも知っているはずです」
り以子は歯がゆい気持ちになった。なんとかベスを説得しないと、何か危険で恐ろしいことがすぐにでも起こりそうな予感がしていた。
「あなたとパトリシアさんが銃の使い方を習いたかったのは何故ですか?身近にウォーカーがいるから。それは違いますか?」
「『ウォーカー』って呼ばないで、人殺し」
今度はり以子は眉根を寄せる番だった。
「私は誰も殺していません。あれらは人ではありません!」
「何故?病気でおかしくなってるから?乱暴だから?それだけで、その腰の剣で私の家族を刺すって言うの?非道だわ!あなたたちに慈悲はないの?」
「あれらは病気じゃありません!あれらは死体です!」
ベスがハッと息を呑んだ。り以子はすぐに言い方を間違えたと後悔した。
「……いくら英語が下手だからって、言って許されないことがあるわ」
瞳に涙を溜め、軽蔑をにじませるベスに、り以子は言葉をかけることが出来なかった。ベスはり以子の横を乱暴な足取りで通り抜けて、厩舎を走り去った。
「喧嘩か?──倉庫まで聞こえてたぞ」
入れ違いにダリルが入って来た。重たそうに馬具を抱えていて、り以子を視線でどかせると、そこにあった台に勢いをつけて放り投げた。
「どっ、どこに行くんですか?」
「聞かなきゃ分からんか?」
「──ダメよ」
厩舎の外からキャロルの声がした。ダリルを見かけて急いで駆けつけたらしい。
「平気だ」
り以子にはとてもそのようには見えなかった。ダリルは馬具を倉庫からここまで運ぶだけで息切れし、汗をかいている。こんな体で農場を出たら、奴らのいい餌になるのが落ちだ。
「ハーシェルはまだ治療が必要だと」
「ああ、気にしねえよ」
「私が気にするのよ。リックが後で捜しに出かけるって」
「だってな。けど何もしないでじっと座ってられない」
ダリルはキャロルを軽くあしらって、馬に轡を嵌め、頭絡を取り付け始めた。
「ダメよ。もっと危険な目に遭うかも──り以子、あなたからも言って」
キャロルにバトンを投げて寄越され、り以子はうろたえた。それでも自分なりになんとかダリルを止めようと、
「私が行きます!」と申し出た。
「迷子を増やすつもりか」
ダリルは案の定取り合ってはくれなかった。困り果ててキャロルにバトンを戻すと、キャロルは静かに息を吐いた。
「あの子が見つかるかどうか、私たちには分からないわ、ダリル。分からない」
ダリルの手が止まった。鋭い目がゆっくりと振り返り、信じられないという表情を浮かべてキャロルを射抜いた。キャロルは消え入りそうな声で重ねた。
「……私にも」
ダリルが目を細めてキャロルに詰め寄った。
「何だと……?」
「あなたまで失えない」
たちまちダリルの瞳が失望に沈んだ。頭絡を床に投げ捨てて、キャロルの横を抜けて行く。そして軽蔑を込めて睨みつけたかと思うと、台に乗っていた馬具をやけくそになって投げ飛ばし、脇腹を押さえて蹲った。
「大丈夫?」
キャロルが慌てて駆け寄ったが、ダリルは「放っとけ!」と振り払って怒鳴りつけた。
「……バカな女だ」
捨て台詞を吐いて去っていく丸まった背中を、キャロルは言葉もなく見送っていた。夏の暑さに汗ばんだ彼女の頬に、はらはらと一筋の涙が伝っていた。り以子はそっとキャロルの腕に手を触れた。
「大丈夫ですよ」
り以子の言葉は響かない。何の根拠もない、頼りない月並みの言葉だ。それはキャロルの心に届く前に、馬の嘶く声にかき消された。
ダリルはすぐに見つかった。敷地の境目に立っている柵に器用に腰掛け、鬱蒼とした森を睨みつけていた。り以子が近づくと、芝生がしなる音で気づいたのか、顔をこちらに向けかけ、あと少しで横顔が見えるというところで止まった。
「説教か?ろくに喋れもしないくせに」
り以子はそれには答えず、ダリルの隣に人一人分くらいのスペースを空けて寄りかかった。り以子は農場に体を向けているので、二人互い違いに別の方向を見ていた。
隣に来たはいいけれど、り以子は何と話しかければいいかよく分からなかった。ここでダリルの胸を打つスピーチをすることなんて、り以子には到底無理な気がした。キャロルの不安も、本当は娘を諦めてあんな風に言ったわけじゃないことも、わざわざり以子に説明されなくったって理解しているだろう。遣る瀬なくて八つ当たりをしてしまったことだって、ちゃんと反省しているはずだ。
「頭は冷えたか」
出し抜けにダリルが言った。よく分からなくて首を傾げると、ダリルは自分のこめかみを指でクルクル差して、同じ言葉を繰り返した。
「喧嘩してたろ。友達と」
「説教?」
最初にダリルが言った言葉を返してやると、ダリルは「この野郎」という目でちょっと笑いながらり以子を睨んだ。
「……私は私の言いたいと思っていることを一言も伝えることが出来ません」
ダリルはり以子のたどたどしい言葉を静かに聞いていて、少し間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「俺もだ」
「キャロルさんは」
り以子が慎重に切り出すと、ダリルは今その名前を聞きたくないというように首を振った。
「でも、彼女は、聞いてくれます」
ダリルの目が肩越しにり以子を窺った。り以子はまっすぐその目を見つめ返した。
「彼女はあなたの言葉に耳を傾けてくれます。あなたが言葉に詰まった時は、彼女はあなたを待ってくれます」
「……ああ」
ダリルがすんと鼻をすする音がした。馬鹿にしているようでも、まして泣いているようでもなさそうだった。り以子は急に自分の台詞が臭かったかもしれないと恥ずかしくなったが、今更取り下げる気はさらさらなかった。
「『キャロルは』?」
しばらくして、ダリルが微かな声で繰り返した。
「──お前は?」
り以子は目をぱちくりさせてダリルを見た。ダリルはほんの少しだけこちらに顔を向け、肩越しに試すような目でり以子を見つめ返していた。
「私ですか?」
なんでそんなことを訊くんだろうと訝りながら、り以子は思っていたことをさらりと答えた。
「あなたの言葉は私には難しいです」
ダリルはそれを聞いて自嘲的にせせら笑った。り以子は構わずに続けた。
「でも、あなたの声は好きかも」
ダリルはみるみる狼狽して目を泳がせた。短い褐色の髪の間から覗く耳が熱っぽく赤みを帯びているのが見えて、り以子はやっぱり自分の台詞は臭すぎたと反省した。