Nebraska

希望という幻想

 これが悪夢ならば、今すぐ覚めなければならないと思った。これ以上悪くなったら、り以子の頭はおかしくなってしまう。鼻をつく血や腐った肉の臭いも、汗で肌に張りつく髪の毛の感触も、全部が気持ち悪かった。頭痛を覚えるような静寂の中、ベスとキャロルの嗚咽がずっと聞こえている。

「見るな。見るな……」

 ダリルがキャロルを抱え起こし、ソフィアの遺体の前から引きずって行こうとした。キャロルはダリルを突き飛ばし、逃げるように走り去って行った。

 手持ち無沙汰になったダリルが、思い出したようにこちらを振り返り、来いと言うようにり以子に向かって腕を伸ばした。何だかよく分からなくてそこに突っ立ったままでいると、ダリルは小さく指を動かして急かした。り以子は何も考えず、促されるままに歩いて行くと、壊れ物に触れるような恐々とした手つきで頬を摩られ、初めて顔中にウォーカーの返り血を浴びていたことを知った。

 妙な感覚だった。ダリルの青い目がり以子の汚れた頬を見ている。節くれだった太くて固い親指が、目の下の皮膚の柔らかいところをこすってこめかみに流れていって、大きな手の平で掬うように顔を持ち上げられた。り以子が泣いていないか確認しているのかもしれないと漠然と思った。

 甲高いベスの泣き声が急速に近づいて来て、り以子を追い抜いていった。彼女はリックの制止を振り切って遺体の海に駆け込み、腐ったり干からびたりして見分けのつかなくなった中から、最愛の母の遺体を探り当てた。覆い被さっていた誰かの遺体をどかし、うつ伏せに倒れていた母親を仰向けに返した時──り以子は干からびたウォーカーの頭部に、一つも傷がついていないことに気がついた。

 ウォーカーが唸り出し、ベスの垂れ下がった美しい金色のツインテールを掴んだ時には、り以子は鞘を払い、ウォーカーの胸に突き立てて、地面に縫い止めていた。それ以上動けなくなったウォーカーの手から、リックとシェーンが大急ぎで恐怖に叫ぶベスを引き離した。グレンがウォーカーの腕を取り、Tドッグが頭を踏みつけるけれど、今度はグレンが危なくなった。

「下がって!」

 り以子はTドッグを押しのけた手で脇差の柄を握り、グレンを傷つけないようにウォーカーの背後から後頭部を抜き打ちした。

 ベスの母親は糸が切れたように動かなくなり、グレンが手を離すと、ドサッと地面に落ちた。り以子は血振りした脇差をペン回しのように回転させて鯉口に突き立てると、すっと鞘の中へ刀身を滑らせた。胸に刺さっていた打刀は、アンドレアが引き抜いてり以子に手渡した。

 危ないところだった。ベスはハーシェルに抱きかかえられて泣き崩れ、ジミーに優しく背を撫でられていた。その目がまさに親の仇を見る憎悪を浮かべてり以子を射抜いていたことに、り以子はショックを受けることも、悲しむこともなく、ただただ虚しく思った。

***

 分厚い雲がはびこり、農場に生臭い風を吹かせ始めた。アンドレアたちが遺体の処理をしている間、キャロルはキャンピングカーのダイニングに篭り切って、レースカーテン越しにぼやけた景色を眺め続けていた。ダリルが気遣わしげに車内へ上がり、キッチンに腰掛けてキャロルの顔色を窺ったが、彼女は一度だけダリルを振り返り、すぐにふいっと顔を背けてしまった。

 グレンはマギーに付き添ってグリーン家にいる。グループは恐らく農場を追放されるだろうけれど、グレンだけは残るかもしれないとり以子は思っていた。

 アンドレアがソフィアの小さな遺体を毛布に包み、傍らにしゃがみ込んで呆然としている。その様子を眺めながら、カールが母親にぽつりぽつりと話を聞かせていた。

「彼女を見つけたかった」
「見つけたわ」
「そうじゃない。僕が……僕が彼女を見つけてやりたかった。洞窟とか森の中とかに隠れてて、安全で、僕が見つけて連れて帰るんだって……」

 きっと、一人一人が同じように思っていた。少なくとも、ダリルやリック、アンドレア、り以子はそうだった。もしかしたら既にウォーカーに……なんて、絶対に考えてはいけないことだと思っていたし、そんなことになるはずはないと信じ切っていた。

「パパは正しいことをした……彼女を撃ったことさ。僕でもそうした」

 ローリはショックを受けて言葉を失っていた。ややあって、彼女はデールを呼びつけ、カールをテントへ連れて帰るように頼んだ。休んだ方がいいと言われて戻っていくカールの頭に、リックがすれ違いざまに帽子を乗せた。

 り以子は途方に暮れて遺体の海を見渡した。体は鉛のように重いが、これからこの遺体を全て処理しなくてはならない。ここで腐敗が進めば、とても不衛生だ。何より、死者が哀れでならない。

「埋めるか?」
「お葬式をしなくちゃ。キャロルのためにも」
「……それがいい」

 Tドッグとアンドレアのやり取りを聞きながら、り以子は一つ思い出した。ベスにもらったメモ用紙で折っていた、作りかけの千羽鶴を。少女の無事を祈って折った鶴は、少女の追悼のためのものになってしまった。

「お墓を……ソフィアのお墓を掘りましょう」
 ローリが切り出した。
「アネットとショーンも。あー、あの木の下に。それに、遺体を運ぶトラックがいるわ」

 ジミーが鍵を取りに行こうとしたのを遮って、シェーンがオーティスのトラックを取りに行った。

「……他の人は?たくさん墓を掘らないと」
「愛する人は埋めて、残りは燃やすわ」

 それでいいと皆が頷いた。

 り以子はTドッグを手伝い、大人たちに混じって墓を掘った。五人がかりで三つの穴を充分な深さまで掘るのに、さして時間はかからなかった。まだ頭の整理がついていなかったり以子は、もう少し無心に作業をしていたくて、手を止めて唾を吐くTドッグの後ろで、無意味に穴の形を整えていた。

 キャロルを呼びに行ったローリについて、り以子もキャンピングカーに向かった。薄暗い車内に、ぼうっとするキャロルの横顔の輪郭が悲しげに浮かび上がっている。ダリルがキッチン台に座って指先を弄びながら彼女を見守っていた。

「できたわ。行きましょう」
「……どうして?」

 キャロルが突き放すように言った。

「かわいい娘だろ」

 ダリルの言葉に、キャロルはそれまで切なく伏せていた目を持ち上げた。拒絶する目だった。

「娘じゃないわ。あれは別の何かよ」

 遣る瀬ない気持ちでいっぱいだった。り以子はふらふらとキャロルに近寄り、彼女の肩をいたわるようにそっと触れた。キャロルは腕を回して、鬱陶しそうにり以子の手を振り払った。

「私のソフィアは森に独りぼっち。ずっとそう思ってたけど……泣き寝することもなく、お腹も空かず、帰り道を捜してもいなかった。ソフィアはとっくに死んでたのよ」

 暗がりで、ダリルの目が傷ついたように揺れた。

「あの子は私に何も望んでいなかった」

 ハイウェイでの最後の夜に、り以子がキャロルに叩きつけた無責任な言葉が、後悔の波になってり以子の胸に押し寄せた。どうしてあんなことを言ったんだろう。こんなことになるって分かっていたら──言葉もなく立ち尽くすり以子の後ろで、荒っぽく空気が揺れた。ダリルがキャンピングカーを降りて行った後、り以子もキャロルの拒絶に押し出され、逃げるようにそこを後にした。

 無言で祈りを捧げる沈黙の葬式だった。り以子は制服をきっちり着込んで、ダリルとシェーンの間に立ち、黙祷した。やがてシェーンが去り、祈りを終えたダリルやグライムズ一家もバラバラに散っていった。

 一体、自分たちはどこへ向かっているんだろう?誰もいなくなった質素な墓地で、り以子は一人考えた。必死に生きて、戦って、守られて、けれども行き着く先は結局ここしかないのかもしれない。なんて虚しいんだろう。り以子たちは、死ぬために生きているわけじゃないのに。