Nebraska

希望という幻想

 ダリルもシェーンもどこかへ行ってしまい、残った遺体の処理はり以子、リック、アンドレアとTドッグでやらなければならなかった。デールが見守る中、アンドレアとTドッグが最後の遺体を積み上げると、オーティスの車の荷台は山のようになった。これ以上一人でも多かったら、二回に分けて運ばないといけなかっただろう。

「シェーンの決断はよかった」
「俺の前で『よかった』だなんて言うな」

 何気なく呟いたTドッグに、デールが険悪な顔をした。

「まったくだ」リックも同意した。「ハーシェルを怒らせた」
「今は悲しんでいても、いずれ選択肢はなかったと分かる。あのね、私だって撃ったわ。全部シェーンのせいじゃない」
「ああ。俺は罪悪感なんてない。うちの裏庭にウォーカー?──あり得ない」

 り以子はキッとTドッグを睨んだ。

「選択肢はありました。リックさんがしていたことが正しかったです。あれらを撃つ前に、グリーンさんは死を悼む過程が必要だったのに、私たちはそれを与えずに彼らの家族を奪いました。私たちは、私たちの安全を守るために、彼らを痛い目に合わせる必要はありませんでした」
「その通りだ」デールが深く頷いた。「俺は問題を処理すべきじゃなかったと言ってるんじゃない、だがパニックを招いた──」
「議論の余地はないわ。過ぎたことよ」

 ローリが静かにデールを遮った。「私たちに出来ることはないわ」

 野営地に戻ると、ダリルのテントが忽然と消えていた。彼の兄のバイクもなくなっている。一体どこへ行っちゃったんだろう。心配になって敷地をうろうろしていると、ちょうど玄関を飛び出してきたグレンと鉢合わせた。

 葬式の時よりも蒼白な顔色にり以子は面食らったが、グレンが告げた言葉で何もかも吹っ飛んでしまった。

「大変だ──ベスが倒れた」

 ベッドに横たわるベスを見た時、り以子は彼女が生きている確信が持てず、肝が冷えた。青白く血の気のない肌に、美しいブルーの瞳は力なく開かれたままで、まるでガラス玉だ。まつ毛は微動だにしない。マギーがそっと頬を撫でても、優しい声で呼びかけても、全く反応を示さない。生気が感じられず、たちの悪い精巧な蝋人形のように見えた。

「この子、どうしちゃったのかしら」

 マギーが困り果てた様子でローリを仰ぎ見た。

「ショック状態なのよ。ハーシェルは?」
「どこにもいない」

 グレンが答えた。り以子とローリは目を素早く見交わした。

 二人はすぐさま保安官を呼び、ハーシェルの部屋を捜査した。ベッドには段ボールがいくつか組み立ててあって、女性物の洋服や小物が雑多に放り込まれていた。

「義理の母のものか?」
「父は必ず治ると信じてた。だから捨てなかった」

 マギーはシェーンに物言いたげな目をやりながら答えた。シェーンは窓際に寄りかかって、箪笥の上の小物を次々手にとって観察していて、古臭いスキットルを見つけると、それをリックに向かってぽーんと放り投げた。

「昔を思い出したか」
「祖父が亡くなる時に父に贈ったものよ」
「俺にはハーシェルが酒飲みとは……」
「いいえ。私が生まれた日にやめたのよ。家にアルコールを持ち込むことさえ禁じた」

 マギーがリックの手からスキットルを抜き取ると、リックは考え込むようにまばたきをした。

「町にバーは?」
「ハットリンね。父は飲んだくれ時代にそこにほとんど棲みついてた」
「そこにいるな」
「ああ、場所を知ってる。連れてくよ」

 グレンが名乗り出て、リックは気軽に了承したが、マギーは渋った。彼女にはグレンが外の世界へ出ることに不安があるようで、しばらく二人の押し問答が続いた。

「リックさん」

 り以子がリックの前に進み出ると、リックは「勘弁してくれ」と呻いて項垂れた。

「私は行きます」
「俺が『ダメだ』と言うのを分かってて言ってるのか?」

 お決まりの「嫌!」「嫌じゃない」というやり取りが交わされた。その間も、リックがり以子の顔を見ることは一度もなかった。

「お願いします。ベスさんは私の……」

 友達と言いかけて、り以子は思わず喉が詰まった。自分がベスにとってどんな存在になってしまったのかは、彼女の目を見たらわざわざ聞かなくたって分かる。

「……私はベスさんのために何かしなくてはいけません」

 り以子がハンドルを切って進路変更をしたことに、リックは気がついていたかもしれない。

「あなたが『ダメ』と言うなら、私はトランクに隠れて行きます。あなたがそれを止めたら、私は馬で勝手に行きます。もしあなたが私の安全を思うなら、『ダメ』と言うべきではないでしょう」
「脅してるのか?」
「私は分かりません」

 リックの長い長い溜め息が、やむなく承諾の意を示していた。

***

 刀を二本差し、スカートを脱いでジャージのズボンに履き替え、久々にフード付きのパーカーに袖を通した。準備を終えて車に向かうと、リックが車体に足をかけ、待ちくたびれた顔をしながら拳銃に弾を込めていた。り以子の足音が聞こえても、リックは銃の用意で忙しいというような態度だったが、不意に目をやった玄関先で、グレンとマギーが吸い寄せられるようにキスをし出すと、パッと顔を背けた。

「彼らはキスしてます!」

 り以子はリックとの気まずさも忘れ、興味津々に身を乗り出した。リックはうんざりしたように溜め息をついた。

「実況しないでくれ」

 グレンがマギーとの別れを済ませ、こっちへ歩いて来る。

「行くぞ」
「ああ」

 たった数秒前まで恋人と甘いひと時を味わっていた割に、グレンの表情はなんだか冴えなかった。とはいえいちいち首をつっこむことでもないと思い、り以子はリックが運転席に、グレンが助手席に乗ると、打刀を外して後部座席に乗り込んだ。マギーはしばらくテラスから不満げにリックたちを睨んでいたが、リックがエンジンをかけて車を出すと、大股で家の中へ入って行った。

 車の走行音だけを聞きながら、時折通り過ぎる道路の凹凸に揺られ、り以子たちは無言で田舎道を進んだ。り以子は助手席の俯きがちな黒い頭を見た。グレンは何かを思い悩み、窓の外を過ぎていく深い緑を恨めしそうに眺めている。農場を出てからずっとこんな調子だ。

「……マギーが『愛してる』と」

 後部座席と運転席から交互に投げかけられる気遣わしげな目に堪えかねて、グレンが打ち明けた。り以子ははしゃいで歓声を上げた。

「すごい!」
「そんなはずないよ。つまり……愛してるわけがない」

 グレンが自嘲的に笑った。り以子は何故グレンがマギーの気持ちを信じられないのか、理解が及ばなかった。グレンが出かけるだけであんなに取り乱していたのに。

「動転してるとか、混乱してるだけだ。だって彼女は──」
「彼女は聡明だ。自分の気持ちをちゃんと理解してるだろう」

 リックが被せるように言ったが、グレンは頑なに「違う、違う」と首を振り、リックを思わず笑わせた。

「恋をしてると思いたいだけさ。彼女はそうやって……何かに、その、しがみついていたいんだ」
「グレン、マギーが君を愛してることは皆が知ってるし、それは君の他にもう男がいないからってわけじゃない。さあ、何が問題だ?」

 グレンは決まり悪そうに項垂れた。

「応えなかった」
「えーっ!」

 り以子が露骨に非難めいた声を上げると、グレンはたちまち慌て出した。

「女の人にそんなこと初めて言われたんだ──ほら、母親や姉妹以外にね。けどマギーは違う。お互いのことをほとんど知らない。彼女は俺の何を知ってる?なんにもだ。他人同然だよ。どうすればいいか分からなくて、間抜けみたいにただ突っ立ってた」
「なあ、いいことじゃないか」リックが言い聞かせた。「こんな日々じゃ貴重なことだ。せっかくだから楽しめよ。帰ったら気持ちを伝えよう」

 グレンは納得したようだった。自信なさそうに頷く後ろ頭が見えた。

「……り以子はどうなんだ?」

 ややあって、グレンは空気を誤魔化すように後部座席に話を振ってきた。この手の話を振られるような覚えがなくて戸惑っていると、グレンが焦れったそうに先回りした。

「ダリルさ!すごくいい感じだったろ?」
「何だって?」

 り以子よりも、どうしてかリックの方が取り乱していた。

「どうしてそこでダリルの名前が出てくる?」
「だって……ほら、分かるだろ……あいつはやたら彼女を気にかけてる」
「そんなことない」

 リックは少しむきになっていた。

「あるさ。危険な時だって、そうじゃない時だって、あいつが真っ先に向かうのは彼女のところだ」
「そうじゃない。ダリルはああ見えて……感傷的だ。キャロルやソフィアにも人一倍気にかけてた。奴の性分なんだ、これまでは俺たちが偏見していただけで」

 リックは声を落とし、り以子に聞き取るのが難しいほど早口でまくし立てた。もしかすると、り以子に聞こえないようにわざとそうしたのかもしれなかった。

「だけど、あいつが彼女を見る目は、どう見ても──」
「彼女は十代だ。ダリルじゃ年齢が離れすぎてる。いいか?恋愛とは切り離して考えろ」

 グレンはまだ何か言いたげだったが、リックがこれ以上は一言たりとも聞き入れないという態度を改めないので、憮然とした顔でり以子を振り返った。り以子はちょうど身を乗り出して耳を澄ませるポーズをしていた。

「……君、お父さんが頑固で大変だね」

 グレンが言った。

 それからすぐに車は町に到着した。ブロック一つ分ほどしかない小さな町で、建物もほとんどが老朽化している。こんな世界になる前からとっくに寂れていたようだった。

 リックとグレンがショットガンを持ち、また何やらヒソヒソ言いながら車を降りて行った。『薬』がどうとか、『過ち』がどうとか聞こえたが、他は難しくてうまく聞き取れなかった。り以子が腰に打刀を差しながら外に出る頃には、二人は会話を終えていて、リックはり以子に向かって素っ気なく後ろにつくよう指示をした。