Nebraska

希望という幻想

「こんな外れにお引っ越し?」

 ダリルは野営地から大きく外れた、農場の敷地の隅にいた。ここからではハーシェルの立派な家も小さな白い点ほどにしか見えない。バックナイフで器用に枝を削って矢を作っていて、ローリが声をかけても顔上げようとすらしなかった。

「聞いて。ベスがショック状態なの。ハーシェルが必要よ」
「ふうん。だから何だ」

 ダリルがにべもなく言った。ローリはダリルの傍にしゃがみ、合わない目を覗き込んだ。

「だから町に行って急いで彼とリックを連れ帰ってちょうだい」

 ダリルは分かりやすく無視した。ローリが急かすように「ダリル」と呼びかけると、ダリルはようやく鬱陶しそうに顔を上げ、冷ややかに吐き捨てた。

「あんたのイヌはウィンドウショッピング中だろ。必要なら自分で行け。俺は忙しい」

 ローリは愕然とした。

「どうしたの?わがまま言わないで」
「わがまま?」

 ダリルが激昂し、弾かれたように立ち上がった。

「よく聞け、オリーブ・オイル!俺は毎日毎日少女を捜しに出た!そのせいで矢も弾も受けた!これ以上俺の手を汚させるな!」

 呆けた顔で立ち尽くすローリに向かって、ダリルはナイフをかざし、一方的に言い立てた。

「バカども二人を連れ戻す?楽しんで来いよ。もう人探しは懲り懲りだ」

 ローリはしばらく失望と軽蔑の目をダリルに向けていた。ダリルは気にも留めず、腰を下ろして作業を再開した。

「……二人じゃないわ」

 去り際、ローリは静かに告げた。「り以子も一緒よ」

 ダリルの手が止まった。ローリがどうしてその情報を寄越したのか分からなかったが、ダリルを厭悪の渦に突き落としたかったのなら、彼女の目論見は成功だ。ダリルが顔を上げて睨みつけた時には、ローリの背中は既に小指ほど小さくなっていた。

***

 リックとマギーの読み通り、ハーシェルはかつての行きつけにいた。照明も空調もつかず、埃っぽくなった薄暗がりの中に、寂しげな背中がぼんやりと浮かび上がって見えた。むっと酒の臭いが篭っている。かなりの量を呷ったらしい。

「ハーシェル」

 リックが呼びかけると、ハーシェルは振り返りもせず、溜め息まじりに訊いた。

「誰と来た?」
「……グレンだ。それに、り以子」
「グレン。マギーに言われて?」
「自ら来た。そういう男だ」

 リックは拳銃を腰のホルスターに戻し、ゆっくりと慎重な足取りで店の奥へ進んだ。り以子はグレンと顔を合わせて頷き、入り口を警戒しつつもリックに続いた。

「充分飲んだろ」
「まだだ」

 ハーシェルの声は深く沈んでいた。

「そろそろ帰ろう。ベスが倒れた。ショック状態だ──あなたも」
「マギーがいるだろ?」
「ああ。だがベスにはあなたが必要だ」
「私に何が出来る。必要なのは母親だ。もしくは……死を悼む時間が必要だった。私がそれを奪った。今なら分かる」

 ハーシェルは煤けたバーカウンターの向こうを仰ぎ見た。リックは懸命に語りかけた。

「あなたは治ると思っていた。希望を抱いた自分を責めてはいけない」
「『希望』?」

 ハーシェルが弱々しく笑った。

「最初にあんたが息子を抱えて私の農場に駆け込んで来たのを見た時、あの子が助かる希望はまずないと思った」
「でも、助かった」
「ああ、助かった。代わりに我々はオーティスを失った。あんたのとこのシェーンは戻り、あんたの息子は助かった。奇跡は起きるのだと確信したよ。だが、いんちきだった。奇跡など起きない。私はバカだったよ、リック。分かっただろ」

 り以子は不安になってリックを見遣ったが、リックは言葉も出ないようだった。

「娘に合わせる顔がない」

 ハーシェルはグラスを空け、またボトルを手にとって酒を注いだ。

 り以子は入り口の扉を開いて、外の様子を窺った。まだ日は高いけれど、日暮れまでたっぷり時間があるというわけでもない。辺りにウォーカーの気配がないのは幸いだった。

「どうする?潰れるまで待つ?」

 グレンがリックに囁くと、店の奥から「帰れ!」と突き放すように声が飛んできた。

「帰ってくれ!」
「マギーに必ず連れ帰ると約束した」

 ハーシェルがせせら笑った。「あの少女のようにか?」

「……で、あなたはどうする気だ?そのボトルを空けるのか?娘を見捨てて死ぬまで飲むのか?」
「家族や農場のことに口を出すな」

 ここにきてようやくハーシェルが立ち上がり、明かりのもとにその顔を晒した。酒気を帯びて赤らんだ目元は、怒りでギラギラしていた。

「お前たちは疫病神だ!信仰心で避難所を貸してやったのに、全て壊した!」
「俺たちが会った時には既に世界は壊れてた」
「お前に責任感はないのか!? リーダーだろう!」
「あるから来た!違うか!?」

 二人はしばらく火花を散らして睨み合っていたが、途端にハーシェルが「そうだな」と繰り返し呟き出した。何かを堪えるように頷きながら、フラフラとカウンター席に戻って行った。堅実そうだったハーシェルがここまで憔悴しているのが、り以子にはまだ信じられなかった。

「来てくれ。今こそ娘さんたちの傍にいるべきだ」
「信じたくなかった!」

 ハーシェルがリックの手を振りほどいて言った。その目は薄暗がりの中でもきらめいていた。

「治療法はない、病気じゃなくて死んでるんだと言われても、信じることを拒んだ!だが、シェーンに胸を撃たれたルーが歩き続けたのを見て、自分の愚かさを思い知った。アネットはずっと前に死んでいて、私は腐乱死体に食料を与えていたのだと!それで希望はないと悟った。そしてあの少女が納屋から出て来た時のあんたの表情──あんたも悟った。だろ?希望はない。そう分かったはずだ。私のように。違うか?」

 その言葉が、はっきりとり以子の頭の中に食い込んだ。誰もハーシェルの言葉に反論する術を持っていない。当然のように抱いていた最低限の希望でさえ、世界は叶えてくれた試しがなかった。

「どこにも希望なんてない」

 すると、リックが切れた。

「いいか、これ以上あんたの後始末なんかしないぞ。教えてやろうか?何も変わっちゃいない。死は死だ!ずっと前から存在してた。心臓発作やガンとウォーカーがどう違うんだ?以前なら絶望なんて考えなかっただろ?仲間には俺たちが必要なんだ。生きていくための支えが欲しいんだ。分かるか?俺たちの信念がどうであろうと関係ない。仲間のためだ」

 同じ大黒柱の言葉がハーシェルの心を動かし、ついに彼はグラスを置いた。り以子が安堵に息を漏らし、リックがハーシェルの肩に手を置いた時──音を立てて入り口の扉が開かれた。

「マジかよ。生きてるぜ!」

 それは、知らない男の二人組だった。