Nebraska

希望という幻想

 一人は巨漢で、一人は中肉中背、どちらもいかにもな出で立ちをしていた。リックは彼らに見えないよう、カウンターを指で叩いてり以子に合図した。その意図を察することが出来ないほど鈍くはない。り以子は咄嗟にフードを被り、目元が隠れるまで引き下ろした。

「デイブだ」と、痩せた方がテーブル席に座って名乗った。リックがデイブの前にグラスを置き、酒を注いでやっている。

「そっちの痩せはトニー」

 デイブはグラスを手に取り、カウンターに腰掛けた巨漢を指して皮肉った。トニーは笑いながら「くたばれ」と罵った。

「フィラデルフィアを出て95号線で会った」

 リックは自分のグラスにも同じものを注いだ。ひょっとして、こんな連中と飲み交わすつもりだろうか?り以子は不安になり、なるべく仲間から離れないように、グレンの近くに陣取った。

「俺はグレン。よろしく」

 グレンは何故か男たちに友好的だった。

「リック・グライムズだ」

 続けてリックも名乗ると、デイブは探るような目をり以子に向けた。何もかも見透かされそうな気がして、り以子は反射的に俯いた。

「──は」
 リックがすかさずり以子と男の間に割って入った。「アレックスだ。留学生で英語が話せない」

 グレンが何故リックが嘘をついたのか分からないという顔をしていた。デイブは「へえ」と流して、最後にハーシェルの赤ら顔を見た。

「で、あんたは?飲まないのか?」
「禁酒中だ」
「面白いこと言うぜ」
「ハーシェルだ」リックが代わりに言った。「今日大勢を失った」

 デイブの目が空間を彷徨った。気まずさを感じたというより、別のどこかに引っかかったような感じだった。

「お気の毒に。新しい友に乾杯。そして死者が安らぎの地へ行けるように」

 全員が──り以子とハーシェル以外が──杯を掲げて酒を呷った。

 一口でグラスを空けたデイブが、テーブルに身を乗り出してそれを置いた。そのズボンのベルトに、黒光りする鉄の塊が見えた。リックが険しい目つきで見ていると、視線に気づいたデイブが拳銃を引き抜いて見せびらかした。

「いいだろ?警官のだ」
「俺は警官だ」と、リックがすかさず言った。
「持ち主は死んでた」

 奇妙な空気だった。互いがいかに少ない言葉で相手の情報を盗み取れるか競い合っていた。

「フィラデルフィアからじゃ遠かっただろ」
「まるで陸の孤島さ」
「なぜ南へ?」
「来たくなかった。暑くて30ポンドも痩せちまったよ──」トニーが「羨ましい」とぼやいた。「──難民キャンプがあると聞いてD.C.へ向かったが、大渋滞で近づくことすら出来なくてね。ハイウェイを降りて脇道に逸れた。会う人ごとに言うことが違った」
「ある男は『湾岸警備隊がフェリーで島へ渡らせる』とか」
「最新のは『モンゴメリーに車両基地があって、カンザスのネブラスカまで列車が出てる』とか」

 グレンが「ネブラスカ?」と聞き返した。トニーによると、人口が少なくて銃が多い場所らしい。グレンはなるほどと頷いたが、デイブにとっては論外のようだ。

「ガキ、ネブラスカに行ったことは?超がつくほどド田舎だ」

 トニーが笑った。デイブもつられて笑いながら、二人の視線が磁石のように引き合って自然とくっついた。「……あんたらは?」

「フォートベニングへ」
「ガッカリさせたくはないが、駐在してた兵士が言ってた。あそこは『クソったれ』だらけだと」
「待てよ、フォートベニングが堕ちた?間違いない?」

 グレンが青ざめた。

「残念だが、この地獄からは抜け出せない。淡い希望にしがみつき、寝床を襲われないように祈る」
「眠れるならの話だがな」
「──あんたらはここに住み着いてるようには見えないが。別のどこかにいんのか?」

 リックは「まあな」とはぐらかした。

「……外の車はあんたらの?」
「ああ」
「何故?」グレンはいまいち状況を把握し切れていない様子だった。
「俺らは車に寝泊まりしてる。あんたらのはほとんど空だ。片付いてる。荷物は?」

 り以子はぞくっとした。り以子たちの知らないうちに、車の中を見られていたのだ。

「仲間と別の場所に滞在してる。飲みに来たんだ」ハーシェルが答えた。
「飲みに?ハーシェル、禁酒中のはずだろ」

 冗談めかしてはいるが、いちいち言葉尻を拾って突ついてくるところがどうも不気味だった。

「まあいい。俺たちはこの辺に居座ろうと考えてるんだ。どうだ?ここは……安全か?」
「悪くない。近くでウォーカーを数人殺したけど」グレンが答えた。
「ウォーカー?奴らをそう呼んでるのか?──いいね。いいよ、『クソったれ』より気に入った」
「言い得て妙だ」
「ああ、トニーは大学に行ってたんだ」
「二年もな」

 二人が軽口を叩いたところで誰も笑う者がいないので、空気は悪くなるばかりだった。さすがのグレンも異様さに気がついたらしかった。じりじりと僅かに動きながら、り以子を側に引き寄せようとしている。

「じゃあ何だ?ってことは、あんたらは郊外に居住地を構えたってことか?あの住宅開発地か?」
「トレーラーか何かか?農場?」

 トニーが椅子を軋ませて立ち上がり、でっぷりした巨大な腹を揺らしながらり以子の前を横切って行った。デイブが何か思い至ったように眉を動かし、「マクドナルド爺さんの牧場」と口ずさむと、トニーは笑いなら、壁に向かって何やらゴソゴソし始めた。

「農場だな?──安全か?食料と水は?」

 デイブが問い詰めたが、リックは答えずにトニーに顔を向けた。トニーは童謡の続きを歌いながら、なんと床に放尿していた。気づいたり以子は思わず息を呑み、パッと顔を伏せた。

「おいおい、どうした?アレックス」

 デイブがせせら笑った。やってしまった──り以子は顔を上げることが出来なかった。きっと今のでバレた。心臓があり得ないスピードで脈打っている。

「おい!」──誰かが叫び、次の瞬間、り以子の視界が突然開けた。ぎょっとするり以子の眼前にはトニーの脂ぎった笑顔がある。さっきまで虫酸の走るような何かを握っていた男の手で、パーカーのフードを脱がされたのだ。リックが拳銃に手を添えて立ち上がりかけていて、グレンは物凄い力でり以子の腕を掴み、自分の後ろに押し込んだ。

「女だ」トニーが鼻で笑った。「こいつら、若い女なんか囲ってやがる。俺なんかもう何週間もヤってねえのに」
「トニー……まったく、都会っ子はがさつで仕方ない。許してくれ──何もしない。誓うよ」

 デイブが参ったように目を擦りながら言った。

「それで、グレン──」
「話すことはない」リックが遮った。
「少しくらいいいだろ。その農場は居心地が良さそうだな。南部のもてなしは?──何人か仲間がいるが、苦しい状況でね。少し部屋を分けてくれないか?物資を分けるし、人手も必要だろ」

 リックはきっぱりと断った。何度頼まれても答えは変わらなかった。

「知らない者同士だ」
「そうさ。あんたは何も知らない。俺たちがどんな目に遭い、何をしてきたか。あんただって同じだろう。こんな世界で手を汚してない者はいない。みんな同じだ──だから、農場へ向かいながらお互いを知ろうじゃないか」

 リックはもう一度同じ答えを口にした。「そうはいかない」

「クソ野郎!」トニーが吐き捨てた。
「落ち着け」と、リック。
「俺に指図するんじゃねえ!二度と指図するな!ドタマをブチ抜いてクソ農場を乗っ取るぞ!」

 リックが立ち上がってトニーに詰め寄ると、デイブが大慌てで止めに入った。

「おいおいおいおい、落ち着け!落ち着くんだ。誰も殺したりしない。誰も撃ったりしないよな」

 デイブはカウンターを飛び越えて向こう側に下りた。リックが拳銃に手をかけ、警戒してデイブに体を向けると、背中でトニーがショットガンに手を伸ばした。当然リックは気づいていた。素早い反応をする彼を見て、デイブが小さく手を上げながら自分の拳銃をカウンターに出した。

「友と酒を飲むだけだ」
 デイブが拳銃から手を離した。
「さあ!うまい酒はどこだ?ん?うまい酒、うまい酒、うまい酒……」

 デイブの姿がカウンターの下に隠れると、リックの手が拳銃を掴んだ。デイブはそれに気づかないふりをして、満足そうな表情でボトルを一本掲げて見せた。

「分かってくれ。外では暮らせない。分かるだろ?」

 とくとくとグラスに酒が注がれる音がする。いつ何が始まってもおかしくない、剣呑な空気が満ちていた。グレンは背中に隠したり以子を後ろ手で囲み壁に押しつけている。り以子に触れる腕は冷え切っていた。

「ああ。分かるが、農場は人が多すぎる。すまない。他を当たってくれ」
「他って?どこへ行けばいい?」

 リックは無責任に首を傾げた。「分からない。ネブラスカはどうだ?」

「ネブラスカ?──言うね」

 それが合図だった。デイブの顔から一切の笑みが消し飛び、カウンターの拳銃を取って人に向ける頃には、リックの拳銃が唸り、その命を奪っていた。グレンがり以子に覆い被さって床にしゃがんだ。リックはり以子の悲鳴を聞きながらその場で体を翻し、背後でショットガンを構えようとしていたトニーの右肩を撃ち抜いた。再び銃口が光り、でっぷりした腹に穴が開くと、はずみでショットガンが暴発して天井に流れ弾を撃ち込んだ。壁に背中で血を塗りたくりながら、トニーがずるずる崩れ落ちる。リックはつかつかと歩み寄り、とどめの一発を放った。