Triggerfinger

繰り返されるウソ

 弾は命中し、男は真後ろにひっくり返った。だけど、死んではいない──芝生の上で身をよじりながら、弱々しく喘ぎ声を上げている。いつ起き上がるか分からない緊張感で、ハーシェルもり以子もこれ以上動くことが出来なかった。グレンはどうなっただろう。暗闇にスニーカーを履いた足が投げ出されているのが見えたが、ゴミ箱の陰で安否が分からなかった。

「グレンさん!グレンさん!」

 り以子はヒソヒソ声を限界まで張り上げて呼びかけた。

「生きていますか?グレンさん!」
「何があった」

 店の中からリックが駆けつけた。

「撃ってきた。グレンが撃たれたかもしれん。ゴミ箱の後ろにいる──動かないんだ」

 男はまだ唸っている。リックはもう一枚の扉も開け放つと、左手にショットガン、右手に拳銃を構えて、警戒しながらゴミ箱へ近づいていった。

「撃たれたか?」応答がない。リックは更に距離を詰めて繰り返した。「撃たれたのか?」
「……いや。……いや……」

 グレンが硬直が解けたように口を開いた。り以子とハーシェルはホッとしつつも、発砲男から目が離せなかった。悶絶の声は仲間を呼び寄せているに違いない。建物内から出て来たばかりのり以子たちはあまりにも不利だ。早くここから離れなくてはいけないという焦りがり以子たちの頭を満たした。リックが物陰に身を滑り込ませ、グレンを勇気付けている。

「大丈夫。車はすぐそこだ。もうすぐ帰れるぞ──大丈夫か?」
「大丈夫だ」

 リックが「行くぞ」と物陰から顔を出した瞬間、どこからか銃弾が飛んできて、金属製のゴミ箱に当たった。り以子は咄嗟に銃声の出所を見上げた。通りを挟んだ向かいの建物の屋上に、ライフルでこちらに狙いをつけている若い男がいた。

 ここからでは撃ち返せない。しかし、向こうが更に撃ってくることはなかった。奴らの仲間の車が焦ったように通りへ飛び込んで来て、男を呼んだからだ。

「逃げるぞ!『ローマー』だらけだ。急げ!ここを離れる」
「ショーンは?」
「奴らに撃たれた!行くぞ、そこら中に『ローマー』がいる!──飛び降りろ!」

 仲間に急かされた男は、屋上から隣の低い建物の屋根に向かってジャンプした。しかし、そこから大きくバランスを崩し、不自然な体勢で車の向こうの陰に消えた。鋭い悲鳴が聞こえた。

「落っこちた……」

 り以子は思わず呟いていた。何かで酷い怪我をしたのかもしれない。痛々しく叫びながら、しきりに助けを求めている。ところが、仲間は助けに降りるどころか、一言「すまない!」と言い残して車を出した。置き去りにされたのだ。じきに聞き覚えのある唸り声が四方八方から聞こえ始めた。男の喚き声に釣られて、とうとうウォーカーがやって来た──。

「ハーシェル!り以子!」

 グレンが呼ぶ声がした。ハーシェルが戸口から一歩踏み出し、発砲男が倒れていた場所に向かって撃った。男はウォーカーにたかられて、抵抗することも出来ないまま顔の皮を剥がされていた。ハーシェルの弾で一体が倒れたが、もうああなってしまっては手遅れだ。

「ハーシェル先生」

 り以子はハーシェルのサスペンダーを引いて呼んだが、ハーシェルはそれを振り切って飛び出した。その目は初めて目撃するウォーカーの食事風景に釘付けだった。激痛と死の恐怖に絶叫する男から、臓物を引きずり出して一心不乱に貪っている。あまりにもおぞましかった。この世のものではない。獣だってもっと品のある食べ方をするだろうと思われた。

「ハーシェル。ハーシェル!」

 グレンの焦ったような声を聞き、ハーシェルは後ろ髪を引かれながらも男に背を向けた。

「……銃声でウォーカーが集まった。リックは?」
「む、向こうに走ってった」

 グレンが通りの向こうに顔を向けて言った。デイブとトニーの車は目の前だ。今すぐ出なければという時に、一体何をしているんだろう?

「まったく、彼を置き去りには出来ん──リック!」

 ハーシェルが苛立った声を上げながら走って行った。り以子とグレンもそれに続くと、路地のゴミ箱を見つめているリックの背中が見えた。り以子は最初、リックがゴミを眺めているのだと思ったが、彼はさっき転落した男の足を茫然と見つめていた。路地を塞ぐ鍛鉄の柵の忍び返しが、膝の下をぶっすりと貫通していた。

「早く行くぞ」
「待ってくれ!」

 ハーシェルが急き込むと、男が泣き叫んだ。まだり以子と少ししか変わらないくらいの歳若い青年だった。

「悪いが、青年、行くよ」

 ハーシェルは青年の無事な方の膝に手を置いて言った。青年は飛び起きて懇願した。

「待って、待ってよ、頼む置いてかないで!」
「行くぞ」
「置いていけない!」と、リック。
「俺たちを撃ってきた奴だぞ!」

 グレンが声を荒げると、リックは激しく叫んだ。

「子供だ!」

 その時、り以子の中でずっとこんがらがっていたパズルのピースがピタリと嵌った。リックはこういう男なのだ。子供や女性を見放すことが出来ない、根っからのお巡りさんなのだ。り以子はリックにとって特別な存在だったから助けられたわけじゃない。あの場にいたのがり以子じゃない別の誰かだったとしても、リックはきっと助けていたし、グループに引き入れたんだ……。

「貫通してる。引き抜くのは無理だ」

 ハーシェルが青年の足の状態を見て言った。グレンがつかつか歩いてきて、柵の建てつけを確かめるように乱暴に揺さぶったので、青年が激痛に悶えて絶叫した。リックが銃を向けて脅した。

「黙らないと撃つぞ!」
「その方がいい」ハーシェルがリックを引き離して声を落とした。「引き抜けば筋肉が裂ける。出血して走れやしない」

 青年が暴れて物音を立てた。グレンが「黙れ」と足首を掴むと、一層声を上げて騒いだ。

「ごめん!しーっ、静かに。静かに!」
「殺してやるべきかもしれん」

 ハーシェルが静かに告げた。

「これ以上殺しを見たくはないが、このままでは残酷だ」
「脚を切れば?」

 グレンが思いついた。リックとハーシェルが押し黙り、異変に気付いた青年が青ざめた顔でこちらを見ていた。

「車に斧はあるか?」リックが訊いた。
「やだ、やだ!あ、あ、脚を切り落とすなんて、やめてくれ!頼む!」
「これで骨まで切れるか?」

 リックが刃渡の短い小さなナイフを取り出した。

「こっちの方が鋭いです」

 り以子は鞘から脇差を抜いて、柄をリックに向けて差し出した。

「私はこれで首を斬り落としたことがあります」

 リックは三十センチを超える刀身を見下ろして、少し躊躇う気配を見せたが、恐る恐る脇差を受け取った。

「──膝下の靭帯を切断する。膝から下を失う。その後、傷口を焼いて固める。出血を防ぐためだ」

 ハーシェルがいそいそとシャツを脱ぎながら言った。ぼんやりとした淡い月明かりを鋭く反射する鋼の刃に圧倒されて、青年がついに泣き出した。

「嫌だ、嫌だ……」

 リックが青年の胸を腕で押し倒した。ハーシェルが脱いだシャツで膝上を縛っている。「棒を!」──り以子は脇差の鞘をハーシェルの手元に置いた。

「みんな──ウォーカーだ!」

 グレンが叫んだ。振り返ると、通りの向こうの森から、ウォーカーの波が徐々に押し寄せていた。青年が絶叫し、リックが慌てて口を押さえた。

「急げ!」

 グレンがショットガンを撃ち出した。青年を黙らせようと躍起になっていたリックは、反対側からもウォーカーが近づいてきていたことに気づき、急いで拳銃を抜いた。

「マズいぞ。こっちもだ」

 前後の激しい銃声が町中にこだましている。ハーシェルが「手を貸せ!」と叫んだのを受け、り以子はゴミ箱に飛び乗って、全身で青年の胸を押さえつけた。ハーシェルが脇差の切っ先を膝下に突き立てた。青年はまだ懇願している。

「嫌だ!あ、あ、あ、脚を切らないでくれ……頼む……」

 しかし、ハーシェルの決心が切っ先をそれ以上押し進める前に、グレンが「逃げるぞ!」と言い出した。もうすぐそこまでウォーカーの大群が迫っていた。

「弾が切れる!」リックも叫んだ。
「もう無理だ!行こう!」
「食い止めきれない!ハーシェル、急げ!」

 リックは銃を撃ちながら後退している。

「早くしろ、ハーシェル!」
「無理だ!」
「ハーシェル!何とかしろ!」

 真後ろに冷たい呼吸を感じ、り以子は青年から飛びのいてウォーカーを抜き打った。だが──場所が悪すぎる。狭くて打刀を振り抜けない。崩れ落ちたウォーカーは死に切れず、まだ不気味に蠢いている。

「置いてかないでくれ!頼む!行かないで──」

 ハーシェルが脇差を置いて逃げた。り以子はゴミ箱から飛び降り、素早く脇差を拾い上げてウォーカーの人垣に向けた。

「──お願いだ!行かないで!」

 リックが青年の靴を掴んだ。そして、忍び返しから力任せに引き抜いた。