Triggerfinger

繰り返されるウソ

 独りになったキャンプは、とても静かで、とても楽で、とても妙な心地だった。思えば、ダリルはリックたちと出会って以来、独りで夜を明かしたことがなかった。採石場でも、CDCに宿泊した日も、ハイウェイの廃車で夜を明かした時でさえ、常に近くに誰かの気配を感じていた。保安官の言いなりになって、無力な女子供の面倒を見て、ぬるい砂糖水に浸かったみたいに……兄と生き別れてからの自分は、借りてきた猫のようで、そんなのは自分らしくもなかった。急に今までの何もかもが馬鹿馬鹿しくなって、自分が間抜けに思えた。

 ランタンの傍に、黒い合皮の手帳がぽつんと置かれている。ダリルはどうしてあんな少女のものを後生大事に隠し持っているのか、自分でもよく分からなかった。何度か返そうと思ったし、その機会はいくらでもあったはずなのに、いざ顔を合わせると、何故かその気になれなかった。

 拾った時より少し薄汚れたそれをぼんやり眺めていると、ふと、外の明かりが僅かに揺れた。放置された焚き火の横を誰かが通り過ぎたのだ。

 キャロルが再びダリルの野営地を訪れていた。木と木の間に渡したロープに、開いた小動物の死骸が吊るして干してあって、キャロルはその一つ一つを不思議そうに見つめていた。その中に別の何かが紛れているのを見つけ、それがウォーカーの耳のネックレスだと分かると、キャロルは慄いて後退りをした。

「何してる」

 ダリルが声をかけると、キャロルは息を呑んで振り返った。

「……あなたが心配で」
「見張りかよ」

 ダリルは今すぐキャロルにここを立ち去って欲しいという苛立ちを隠さなかった。

「離れて行って欲しくないの。あなたには居場所が出来たでしょう」
「他人のことに首を突っ込んでるから娘が殺されたんだ!」

 ダリルの浴びせた暴言は、研いだナイフのように鋭くキャロルの胸を抉ったはずだ。しかし、彼女は泣き出すことも、逆上することもなく、静かにそれを受け入れていた。

「……続けて」
「何をだ」

 キャロルは答えずに待った。その表情はまるで聖母のようで、ダリルはますますイライラして目を細めた。

「行けよ!近寄るな!──マジでうざいんだよ、おばさん。何だよ、俺に説教するつもりか?ふん、放っとけよバカが。あんた、怖いんだろ。独りだから怖いんだ。ダンナも娘もいない。一人じゃどうしたらいいか分からないんだ。だが知るか!ソフィアは俺の娘じゃねえ!」

 ダリルはぐっと踏み込んで声を荒げた。キャロルは全部受け止めた。

「何もかもあんたが悪い!」

 肩を突き飛ばされても、キャロルはそこに立ち続けた。一滴も涙を流さなかったし、目を逸らすこともなく、言い返しもしなかった。

***

 充分にウォーカーの群れを引き離すと、車は路上でゆっくりとブレーキをかけた。車内は濃い血の臭いが充満している。り以子が天井に掲げるペンライトと、車のヘッドライト以外に、そこには明かりと呼べるものはなかった。一歩でも間違えて進めば、たちまち暗闇に呑まれてしまいそうだ。

「どうして停まりますか?」

 り以子はハーシェルが少年の脚を縛り直すのを見守りながら、運転席に声をかけた。

「これ以上は進めない。暗すぎて道がわからない」
「ライトでウォーカーが寄ってくるかも」
「日が昇ったら、すぐに車を出そう。今日はこのまま車に泊まる」

 リックとグレンが口々に言った。

「痛い……痛いよ……脚が痛い……助けてくれ……」

 少年がシートにもたれながら喘いでいる。酷く汗ばみ、発熱もしていた。り以子は「しーっ」と少年をなだめながら、際限なく噴き出す顔の汗を拭ってやった。

「大丈夫ですよ。動かないで。手当てが出来ません」

 拙い英語でも懸命に語りかければ、少年はちゃんと理解して体の力を抜いた。今のうちに──り以子が目配せをすると、ハーシェルが頷いて傷口に当て布をした。その布はり以子のパーカーを裂いたものだ。清潔なガーゼも包帯もない中で、唯一ほとんど汚れていなかったのがり以子の服の裏側の生地だった。トニーの汚れた手でフードを触られ、二度と着る気もなかったので、ちょうどよかった。

「ライトを切るぞ」

 あたりがフッと暗くなり、り以子のペンライトだけが残った。少年がパニックを起こして暴れた。

「しーっ。落ち着いて……あなたの声がウォーカーを呼びます」
「そうだ」リックが口を挟んだ。「これ以上叫んだら撃つぞ」
「撃たないでくれ!頼む!殺さないでくれ!」

 少年はますます取り乱し、車体が揺れた。ハーシェルがリックを睨んだ。り以子は酸欠になりそうなくらい「しーっ」を繰り返して、しきりに肩をさすったり汗を拭ったりした。

「分かった、分かった。殺さない。だから静かにするんだ」

 困り果てたリックは両手を上げて宥めるように言った。

「お前の声でウォーカーが寄って来る。今ここで囲まれたら俺たちは袋の鼠だ」
「お願いだ……殺さないで……」
「ああ、殺さない。いいから冷静になれ。お前は……名前は?」
「ランダル」
「ランダル。ゆっくり深呼吸をするんだ。彼らが傷の手当てをしてやってる」

 ランダルと名乗った青年は、痛みのせいか、呼吸は浅く、目もうつろだったが、リックの説得で何とか話が出来る状態にはなったようだった。

「しないとは思うが、妙な真似はするな。お前の希望を叶えてやれなくなる」
「わ、分かった……」
「それと、質問もなしだ。俺たちは一切答えないし、名乗りもしない。いいな?」

 ランダルの首がこくこくと縦に激しく動いた。

「出来るだけ早く手術をしなければならん」

 ハーシェルは傷口をきつく縛って止血しながら、深刻な表情で告げた。グレンは助手席の窓から死体の影がないか見張っていたが、その言葉にぎょっとして振り返った。

「手術?連れて帰るのか?」
「目隠しをしよう。道順を覚えられないように」

 グレンは応急処置だけをして、どこかで解放するものと思っていたようだったが、リックがいるのだからそういうわけにはいかないだろうとり以子は薄々感づいていた。

 だけど、どうするのだろう。このまま農場へ連れて行って、り以子を採石場に迎え入れたみたいに、この少年も仲間にするのだろうか?ことの顛末と、今の皆の精神状態を思うと、それはとても難しいことのような気がした。

***

 翌朝、日が昇ると同時に目が覚めた。一晩車中泊をしたせいで、全身の関節が軋んでいた。り以子は助手席でドアに寄り添って眠り、後部座席にはリックとグレンがランダルを挟んでいた。二人は見張りでほとんど眠れなかったようだが、わざわざ二人で徹夜しなくても、ランダルは気絶していて、目を覚ますことすらないだろうと思われた。

 リックが運転席に移って車を出し、り以子がグレンと二人でランダルを見張る番になった。発車してからはあっけないほどすぐだった。無人の役場前を違反スピードで通り過ぎ、凸凹道に揺られながら代わり映えのしない景色を眺めているうちに、牛糞の臭いがする大草原に出た。遠くに白い大きな家を見つけると、途端に安堵と疲労が一気に押し寄せた。

 野営地の前を通り過ぎると、シェーン、Tドッグ、アンドレア、そしてダリルが慌てた様子で車を追いかけて来た。皆武装していたから、リックたちを捜しに行こうとしていたのかもしれなかった。

「パパ!」

 車が家の前に停車すると、玄関のドアがパッと開き、カールたちがワッと溢れ出してきた。リックはカールを抱きとめてローリを抱き寄せ、シェーンがそれを後ろから見つめていた。マギーは父親のハーシェルの横を堂々とすり抜け、その後ろにいたグレンに飛びついた。

 り以子が打刀を差しながら車から降りると、ダリルの鋭い視線を感じた。ダリルは長袖のシャツに革のベストを重ね着して、クロスボウを背負っていた。本当にり以子たちを捜しに出ようとしていたのだと分かって、り以子はたちまち申し訳なくなった。

「怪我したのか」

 会釈をして通り過ぎようとしたり以子を、ダリルが手で引き止めて、険しい表情で顔を覗き込んだ。り以子にはどうしてダリルがそう思ったのか一瞬分からなかったが、今になって薄地のワイシャツが血まみれになっていたことに気づいた。

「私のではありません」
「パトリシア、手術の準備だ」

 ハーシェルがいそいそと家に入って行った。ダリルは意味が分からないと目元をしかめていた。

「あなた、怪我は?」

 ローリが心配そうに夫の無事を確かめているが、どう見ても彼女の方がボロボロだった。額には小さな傷があるし、唇も切れている。

「車で事故に」
「事故?何故だ?」
「あなたを捜しに行ったの」
「一人で抜け出した」シェーンが告げ口した。「俺が連れ戻したんだ」

 リックはカンカンになってローリを叱りつけたが、彼の説教が本格的に始まる前に、Tドッグが車の中に残されたもう一人の人物に気がついた。「ありゃ一体誰だ?」

「ランダルだ」グレンが簡潔に答えた。

 ハーシェルとパトリシアでランダルの手術を行っている間に、リックはダイニングで皆に一部始終を話して聞かせた。皆の反応を見て、リックのしたことが褒められたことではないのだと認めざるをえなかった。Tドッグはイライラと体を揺さぶっていたし、シェーンは呆れて物も言えないという顔だった。

「どうする気?」

 アンドレアの質問にリックが答えを見つけられずにいると、処置を終えたハーシェルがダイニングに入って来た。

「ふくらはぎの筋肉には出来る限りの処置はしたが、おそらく神経が損傷している。あの足では一週間は歩けない」
「回復したら食料を与えて出て行かせる」
「ウォーカーの群れに置き去りにするのと変わらないわ」

 アンドレアがリックに反論した。

 その時、微かな音を立ててドアが開き、武器を置きに行っていたダリルが家に入って来た。ダリルはキャロルと目を合わせると小さく顎を動かし、キャロルもそれに応えて微笑んだ。り以子のいない間に二人に何があったのだろう?──興味津々の目で見つめていたが、ダリルが不意にり以子を振り向いたので、慌てて顔を元の向きに戻した。シェーンとリックで居場所を知られていないかと揉めているところだった。

「目隠しして来た。奴は脅威じゃない」
「脅威じゃない、ね。奴の仲間は何人だ?三人殺して、一人を人質に取った」
「奴は見殺しにされた。誰も来ない!」

 バサッと肩に何かが降ってきて、り以子はビクッとした。暗い色の大きなシャツが背中にかかっていて、振り返ると、ダリルがそっぽを向いてドアに寄りかかるところだった。

「見張りは必要だ」Tドッグが深刻そうに言った。
「しばらくは気を失ってる」と、ハーシェル。
「そうかよ。花束とキャンディ持って見舞いにでも行ってやるか」

 ひょっとして、り以子が寒いと思って取りに行ってくれたんだろうか?前立てを掴んで引き寄せると、ゴワゴワと硬い手触りがして、ちょっとだけタバコの臭いがした。

「ここは空想の世界かよ!」

 せせら笑ってダイニングを横切ったシェーンが、わざとり以子の椅子にぶつかった。

「お前が納屋でしたことについてまだ話し合ってない」

 ハーシェルが声を荒げてシェーンの背中を呼び止めた。

「はっきり白黒させておこう──ここは私の農場だ。ここから出て行って欲しいが、リックに説得され我慢してる。お互いのために口を閉じてろ」

 シェーンはしばらく呆気にとられていたが、やがて逃げ去るように家を出て行った。