18 Miles Out

決闘

 ベスが食事用ナイフをかすめたらしい。何をするつもりでそんなことをしでかしたのか、それが分からないほど鈍い人たちではない。ローリが慌てて皆を呼び集め、今は姉のマギーが二人きりで話し合いをしている。初めのうちはハラハラしながらキッチンで待っていたけれど、『話し合い』は徐々にヒートアップし、今やダリルの野営地まで聞こえているんじゃないかと思われるほどの激しい口論になっていた。

「ハーシェルは?」

 今にも弾け飛びそうなドアを心配そうに見つめて、アンドレアが訊いた。

「見つけて欲しくないみたい」と、ローリ。「家族の問題よ。本人たちに何とかしてもらいましょ」
「あれで何とかなる?」
「ベスに気力がある証拠よ、止んだら心配だけど」

 その時、ドアの向こうからマギーの「わがまま言ってんじゃないわよ!」と罵る声が漏れ、アンドレアは眉を吊り上げた。

「もっといい方法が」
「方法って?」
「あなたはナイフを取り上げるべきじゃなかった」
「……何て?」

 ローリが信じられないという表情でアンドレアを振り向いた。

「間違ってる。デールが私の銃を取り上げたのと同じ。あなたが決断することじゃないわ。生を選ぶのは彼女自身じゃなきゃいけないのよ。理由は自分で見つけなきゃ」
「私にあの子の首吊り縄を結べって?」

 ローリは呆れ果てた顔で家事を再開した。アンドレアはローリの嫌味っぽい言い方を無視した。

「彼女が真剣なら、道を見つけるわよ」
「知らんぷりしろって?」
「そういうことじゃないわ、ローリ。彼女はたくさんの選択肢の中から自殺を選んだの」
「論外よ」

 冷たく一蹴されても、アンドレアは引き下がらない。

「いいえ、そんなことないわ。子供みたいに扱って怒鳴りつけるなんておかしい」
「彼女に銃を渡したら、あなたと同じ目に遭うわ」
「私は乗り越えた!」
「それでそんなに献身的な仲間になったわけ」ローリが痛烈に皮肉った。「この件はマギーに任せて。彼女のやり方で」

 アンドレアがムッと眉根を寄せた。

「私は貢献してるわ。ここの安全を守ってる!」
「……男たちだけで充分よ。彼らはあなたの手助けなんて必要としてない」

 ローリが布巾をキッチン台に投げつけた。アンドレアはしばらく飛んでいった布巾を呆然と眺めていた。

「ごめん、私に何をして欲しいの?」
「やることは山ほどある」
「そうかしら?私に仲良く洗濯しろって?」

「はあ?」

 り以子は自分の耳と英語力を疑った。アンドレアが必要のない見張りをしたがるせいで、皆にしわ寄せが及んでいるのに、そんな言い草はない。

「何よ」アンドレアがり以子を睨んだ。「はっきり言えば?」
「私たちの負担になってる」ローリが先に言った。「私やり以子、キャロル、パトリシア、マギーは、料理に掃除、ベスの世話だってしてる!だけどあなたは──キャンピングカーの上で、ショットガン片手に日焼けしてるだけ」

 アンドレアは一瞬何を言われたか分からないという顔で硬直し、ローリとり以子を順に見比べた。

「違う、私はウォーカーを見張ってるのよ。大事なことだわ、レモネードのフレッシュミントなんかよりね!」
「私たちは生活を安定させてる。生きがいのある暮らしを作ろうとしてるの!」
「あなたたちふざけてるの?」
「あちらの人手は足りています」

 り以子がたまらず口を挟んだ。

「あなたはやりたいことをやっているだけです」

 言いながら、これは失言かもしれないと思い始めていた。アンドレアが冷たい目でり以子を睨んだからだ。

「私が?──どうかしら。例えそうだとしても、あなたほどじゃないわ。私は外まで男を追いかけて足を引っ張るなんてことしない」

 り以子は込み上げてきた「はあ?」を必死に押さえ込んで溜め息に変えた。ここで自分が何を言っても正しく伝えられないし、伝わったところで新たな火種になる気がしてならなかった。だが、アンドレアはその態度を感じ悪く受け取ったらしかった。

「さっきから何なのよ!言いたいことがあるならはっきり言ったらどうなの?」
「いいえ、私は……」
「あなたっていっつもそう!仏頂面で黙ーって突っ立ってるだけ。かと思えば、手遅れになってから口出しするのよね。あなたは結局、自分がいい人に見える方につくのよ!」

 り以子は何も言えなかった。今度は単純にショックだったからだ。

「偽善者だわ」

 ローリが厳しい口調で「アンドレア!」とたしなめた。アンドレアはそれでようやく平静を取り戻したが、もうキッチンの空気はどうしようもなくなっていた。

「……あのね、私だってリックを追いかけて、ウォーカーを二体倒したわ」
「マギーの車を壊してね。彼女に謝った?」
「車──」ローリは何かを飲み込むように言葉を切った。「──あなたは非常識よ」
「いいえ、あなたよ。あなたは自分勝手だわ。皆を利用してる」

 アンドレアの言葉はローリの地雷を勢い良く踏み抜いた。

「私の夫は何百回も命を危険に晒してる。息子も撃たれたのよ!それをぬけぬけと『利用してる』なんて言わないでちょうだい!」
「わかってないわね。あなたの夫は生きて帰ってきた。息子もね。もうすぐ赤ん坊も生まれる。でも他の皆は多くのものを失った──私も、キャロルもベスも。だけどあなたにはずーっと家族がいる」

 り以子は顔を上げていた。「……え?」

「私だって……」

 ローリが反論しようと口を開きかけたが、アンドレアはそれを許さず、一方的にまくし立てた。

「おままごとして、女王蜂みたいに振る舞って、皆に規則を強要する。違う?さあ、どうぞ!あの子のところに行って何もかもうまくいくって言ってやりなさい。あなたのように!夫も息子も赤ん坊も持てる──恋人も」

 ローリの顔から表情が消えた。

「未来は明るいわね」

 り以子の中で、同じ二つの言葉がグルグル回り続けていた。赤ちゃん、恋人……。もしかして──絶対に考えてはいけない最低の憶測が頭をかすめて、り以子は自分という人間に嫌気が差した。

***

 その日の夕方、農場は俄かに慌ただしくなった。ベスが洗面所の鏡の破片で手首を切ったのだ。

 幸い傷は浅く済み、ハーシェルが縫って事態は治まったというが、元はといえばマギーが監視を任せたアンドレアがベスを放ったらかしにしたせいで、グリーン家の人々はカンカンに怒った。

 アンドレアはわざとベスを一人にさせて、試したのだろう。どちらの道も選べるチャンスを与え、乗り越えさせようとしたに違いない。結果、ベスは一線を越えようというところで、生きたいという気持ちに気づき、思いとどまった。荒療治ではあったものの、アンドレアは正しかった。しかし、それでもベスを大切に想っている人々には、彼女を手放しに称賛することは出来なかった。どういう意図があったにせよ、ベスは大きな怪我を負ったのだから。アンドレアはとうとうグリーン家の出入り禁止を食らい、とぼとぼと野営地へ追い返されてしまった。

 日が暮れる頃になって、リックとシェーンの車が戻って来た。二人は何故か痣だらけのボロボロの姿で、しかも、出発時より薄汚れたランダルをトランクに積んだままだった。Tドッグたちは当惑した様子だったが、シェーンがランダルを乱暴に引きずり下ろすと、小屋に連れ込んで壁に拘束するのを手伝った。

「マギーの同級生だった」
「何ですって?」

 ローリは寝耳に水という顔だった。マギーはランダルのことについて何も言っていなかった。

「奴は謂わゆる……マギーとは違う種類の生徒だった。恐らく彼女は本当に知らなかったんだろう」
「じゃあ、どうするの?」
「解放の線はなしだ。面倒なことに、ハーシェルのことも農場のことも知られてた」

 目隠しや耳を塞いだのも、全部無駄足だったということだ。皆が天を仰いで溜め息をついた。

「……あなた方に何があったんですか?」

 り以子は痣だらけのリックの顔を覗き込んで訊ねたが、リックの視線は中空を漂い、り以子の目を見ようとはしなかった。

「ウォーカーだらけだった」
「ウォーカーが殴ったり蹴ったり?」

 その時、り以子は小屋から出て来たシェーンの顔を見て口をつぐんだ。同じように傷だらけで、ばつが悪そうな表情をしていた。ローリはチラッとシェーンの姿を認めると、「食事の支度を」と言い残して、逃げるように離れて行った。

 り以子は閉ざされた小屋を振り返り、小さな音を鳴らして固唾を飲んだ。また農場に爆弾が運び込まれた。穏やかとは程遠い明日になることは、容易に想像がついた。