Better Angels

深い森の中で

 気の滅入るような朝だった。黄金の朝日を見ても何の感慨もない。り以子たちは、仲間を失った悲しみに暮れている暇もなく、あちこち飛び回り、身を粉にして働き続けていた。敷地の囲いを確認し、危ういところは修復した。ダリルはシェーン、アンドレア、Tドッグを先導して周辺を捜索しに出かけ、ウォーカーを何体か退治した。

 り以子はネリーに乗って農場中の囲いを見て回り、その間、デールの葬式でリックが語った言葉を思い出していた。

「デールには手こずらされた。厄介だった。思ったこと、感じたことを、恐れず率直に口に出すからだ。その素直さはまれで……勇敢だ。決断を下す時はいつだってデールを思い出そう。きっと彼はあのまなざしで見つめ返してくれる。これまでと同じように。俺には彼のことが読めなかったが、彼には俺たちの心が読めた。どんな人間か見透かしていた。俺たちのことを知っていたんだ。真の……俺たちの姿を。彼は最後に人間性を失うことについて訴えた。『グループ崩壊』とも──彼に敬意を示す一番の方法は、崩壊しないことだ。違いを超え、一つになろう。悲観するのをやめ、命を、安全を、未来を守るんだ。俺たちは崩壊してない。彼にそれを証明するんだ。これからは彼の遺志に従う──それがデールへの敬意の示し方だ」

 気付けば随分と空気が冷え込むようになり、人々の服装も分厚くなりつつあった。長袖を何枚も着込む皆に対して、り以子だけが、薄地の半袖にジャケットを一枚羽織るだけの格好でしのいでいた。り以子だって、風の子というわけではない。アメリカで世界の終わりを迎えると知っていたら、冬服もちゃんと持って来ていたのに。

 急激な気候の変化に加え、デールの死によって改めて突きつけられた野営の危険性も顧みて、ハーシェルはり以子たち全員にグリーン家へ住処を移すことを提案した。総勢十五人での共同生活は狭苦しくなるだろうと、リックは遠慮を見せたが、ハーシェルはへっちゃらという様子だった。

「そんな心配はするな。沼地が固まって、小川も干上がってしまった」
「うちの牛五十頭が奴らのディナーのベルを鳴らすことになるかも」

 マギーが不安をにじませて言った。

「その通りだ」ハーシェルが深刻に頷いた。「もっと早くに家に入れるべきだった」

 リックは一考ののち、「分かった」とハーシェルの誘いを受け入れた。

「道路に面したそれぞれの扉の近くに車を移動させよう。風車の上と、もう一つ納屋のロフトに監視台を作ろう。そこなら敷地の両側を見渡せる」

 リックの指示で、皆が次々に動き出した。

「Tドッグ、家の周辺を頼む。人の出入りの確認だ」
「見張りは?」
「君とダリルで掛け持ちしてくれ」
「了解」

「地下室に食料と水を貯めておく。緊急時、そこで二、三日は保つだろう」

 ハーシェルが腕いっぱいに箱を抱えて言った。

「パトロールは?」アンドレアが訊いた。
「まずはこの区域の封鎖だ」リックが答えた。「その後シェーンがシフトを割り当て、その間に俺とダリルでランダルを外に解放する」

 シェーンはしばらく呆気に取られたような顔をしていた。

「……逆戻りか」
「当初の計画が正しかった。処刑なんて」

 迷いから解き放たれ、自信を持った表情のリックを見て、シェーンは面白くなさそうに口をへの字にひん曲げた。

「ぬるい考えだ」
「反対しても決定事項だ。受け入れろ。取り掛かれ」
「デールの死と捕虜は──この二つは無関係のことだ」

 シェーンは呆れ返ったように首を振った。

「ダリルを相棒にすんのかよ。勝手にしろ」
「どうも」

 皆の荷物を車に積み込んでいたり以子は、プラスチックの衣装ケースを運ぼうとして手をかけたが、それは予想外に重たくて、地面から数センチも持ち上がらなかった。り以子はもう一度、今度は腰を入れてやっとこ持ち上げた。ここから車までの距離に気の遠い思いをしていると、真後ろから荒っぽい溜め息が聞こえ、誰かがり以子の腕から強引に衣装ケースを奪い取った。

「……ダリルさん」
「どこだ」

 り以子が青いピックアップトラックの荷台を指差すと、ダリルは黙ってそっちに向かった。り以子は自分のリュックを拾い、ネリーの手綱を引いて追いかけた。

「ありがとうございます、ダリルさん」

 ダリルが荷台に衣装ケースを積み込んで、り以子はぺこりと頭を下げた。ダリルは拳で鼻の辺りをぐいっと拭い、小さく顎を動かした。

「……あんたに任せたら三度は日が暮れる」

 何を言われたか聞き取れなくても、これだけ一緒にいれば、嫌味を言う時の調子だと分かるようになっていた。り以子がリスのように頬を膨らませると、ダリルは鼻で笑って、バイクを取りに離れて行った。

***

 昼近くになると、敷地の両端から金槌の音が聞こえ始めた。シェーンが風車に監視台を作り、ダリルが小屋の穴を塞いでいる音だ。数日前に比べ、最高気温が大分下がってきたとはいえ、真昼の日差しは働き者に手厳しい。り以子は水筒に冷えた水をたっぷり注ぎ、ダリルの方へ足を運んだ。ダリルは袖捲りをしてひさしの上に立ち、口に釘をくわえて、壁に木板を打ち付けていた。

 り以子は細い木製の梯子が立てかけてあるのを見つけ、横木に手をかけながら、上に向かって呼びかけた。

「ダリルさ──」

 その時、り以子は視界の端を何かの黒い影がよぎったような気がして、ドキッとした。反射的にその方向に目を走らせるが、特に誰かがいたような形跡はなかった。気のせいだろうか……。

「何だよ」

 り以子が首を傾げていると、頭上から不機嫌そうな声が降ってきた。口に釘をくわえているせいか、ちょっと滑舌が悪い。

「あっ、」り以子は慌てて梯子を離れ、ダリルの顔が見える位置まで移動した。「私はあなたにお水を持って来ました」
「……ちょっと待ってろ」

 ダリルは最後に念を押すように金槌を叩きつけた後、ぷっと釘を吐き捨てて、手の甲で口元を拭い、梯子を下りてきた。

 もしかして、作業の邪魔をしてしまっただろうか。り以子の不安が顔に出ていたのか、ダリルは地面に下りるなり、ぶっきらぼうに「ちょうど終わったとこだ」と告げた。り以子は急いで「お疲れ様です」と言って、蓋と栓を外した水筒を差し出した。ダリルが怪訝そうに眉根を寄せたので気づいたが、うっかり日本語が出ていた。そういえば、「お疲れ様」は英語でどう言うんだろう。後で辞書を引いてみよう──。

 ダリルが水筒を傾けて水を飲んでいる。り以子は無意識に小屋の扉を見つめていた。小さな呻き声と、カチャカチャ揺れる金属の音が聞こえる。

「ガキが手錠を外したがってんだろ。金槌の音でビビったのさ」

 ダリルが何て事はないというように肩をすくめた。よく分からなかったが、ダリルが放置するなら大丈夫なんだろうとさして気にしないことにした。

 飲み干されて返ってきた水筒を受け取って、栓を嵌めている間、り以子の目はある一点に吸い寄せられた。昨晩デールが襲われた場所だ。ダリルは地面にしゃがんで工具箱を片付けていたが、り以子の視線に気がついて、忙しなく動かしていた手を止めた。探るような視線を横顔に感じる。

「……大丈夫か」

 り以子がパッと振り返ると、ダリルは面映そうにしていた。人に気遣いの言葉をかけるのには、まだ慣れていないみたいだ。

「はい」

 答えながら、あんまり説得力がないなと思った。けれどそれ以外に答えようがなかったのだから仕方がない。り以子はダリルこそ大丈夫だろうかと不安を抱いたけれど、本人に訊ねるのは配慮に欠ける気がして、何も言うことが出来なかった。

 グリーン家に戻ると、皆が忙しなく行き交って、荷物を運び込んでいるところだった。ローリが運び込もうとしていた重たい衣装ケースを、Tドッグが慌てて駆け寄って取り上げ、代わりにハーシェルの部屋へ運んで行った。ちょっと外している間に、誰がどこで眠るのか決まってしまったらしかった。り以子は所在なげに人々の合間を縫ってさまよい、ちょうど誰も寄り付きたがらなかった窓際に、背負っていたリュックを下ろした。

「そんなところじゃ風邪引くぞ」

 また別の荷物を抱えて戻って来たTドッグが、呆れた顔で忠告した。

「私は座って眠ります。私はそれに慣れています」
「服はどうした?」

 り以子は突然英語が聞き取れなくなったふりをした。Tドッグはますます呆れた。

「それ以外持ってないのか?」
「……だって、私は夏のうちに日本へ帰る予定でした」
「誰かに借りとけ。寝床もだぞ」

 誰かって、誰に?再び車へ荷物を取りに行ってしまったTドッグの背中を、途方に暮れて眺めていると、ちょんちょんと肩を叩かれた。

「あの……り以子?」

 その声を聞いて、り以子は心臓が口から飛び出すんじゃないかというほどに驚いた。振り向くと、ベスが緊張気味の表情で、肩を強張らせて立っていた。

「その、もし、あなたがよかったら……私の部屋に来ないかと思って」

 り以子は英語を聞き取れていたにもかかわらず、すぐに答えを返すことが出来なかった。綺麗なブルーの瞳が、まっすぐこちらに向き、歪みなくり以子の姿を映していることが、信じられないほど嬉しかった。

「い、いいの?だって、えっと、その──」
「どうしてダメなことがあるの?」

 ベスは悲しげに微笑んだ。

「だって、あなたは私の友達で、命の恩人でしょ」