ダリルとリックはテラスのテーブルに測量図を広げ、午後の旅についての打ち合わせをした。おおよその道筋はリックが考え、ダリルは黙ってそれを聞いているだけでよかった。
「セノイアまで片道約一時間、多少前後するかもしれないが。日は暮れるだろうが、途中までは戻って来れるだろう」
日は徐々に短くなっていた。昨日まで明るかった時間帯が、今日になって突然薄暗いということが増えた。夜を外で過ごすことはあまり好ましくないが、それももうこれっきりだ。
「クソみたいな厄介事も、これで記憶の彼方か」ダリルはせせら笑った。「清々する」
「キャロルが奴のためにいくつか物資を準備してる。数日は保つだろう」
敷地の向こうからシェーンの車がやって来る。ダリルが欄干に腰掛け、何となくそれを眺めていると、不意にリックが切り出した。
「昨日のことだが──」
ダリルは何となく、リックがその話題を振ってくるだろうという予想がついていた。
「……全部あんたが背負うことない」
ダリルは偽りなく自分の考えを口にした。グリーン家の正面に、シルバーグリーンの車が停車したのが見えた。リックはそれを意味もなくぼんやり眺めて、何度か小さく頷いた。
「それじゃ、全く異議はないのか?」
ダリルは少し考えてから答えた。「俺はあんたと路上で殴り合ったりしないよ。意味がない」
リックは何も言わなかった。答え方を分かっていないようだった。沈黙のうちに、シェーンが車を降りてこちらへ向かってくる。ダリルは似たような痣だらけの二人の顔を交互に見比べると、測量図をぽんと放り投げて立ち上がった。
「小便してくる」
適当な理由をつけてずらかった先で、り以子が壁に板を打ち付ける手伝いをしていた。小さな手に持つ武骨な金槌が恐ろしいほど様にならない。振り上げた拍子に手から金槌がすっぽ抜けるんじゃないかと見守っていると、振り上げる前からすっぽ抜けて、危うく爪先を潰しかけていた。
「何してんだ」
呆れて声をかけると、り以子は面白いくらい驚いて飛び上がった。自分の失態をダリルに見られていたと分かり、カーッと赤面した。
「その金槌は踊るのか?」
「え、えーっと……分かりません……」
分からないということはないだろう。
トマトみたいな顔で俯く姿がだんだん哀れに思えてきた。ダリルはり以子に近づき、落ちた金槌を拾い上げ、顎を軽く動かしてり以子をどかした。釘相手に気兼ねでもしたのか、どれも中途半端な出来だ。ダリルが振り向くと、り以子は何が駄目なんだか分からないという顔をしていた。
ダリルは飛び出している釘を手早く打ち直した。他に不安定なところを手探りで見つけ、り以子に向かって手を突き出すと、ダリルが「釘を」と言う前に、り以子は無言で釘を乗せた。ダリルは思わずまじまじと釘を見てしまった。
り以子はじっとダリルの手元を見つめている。ダリルは板に釘を立て、金槌を軽く振った。り以子はまだ見ている。穴が空きそうだ。
「……初めてか」
聞いてから、十五の少女に大工の経験なんてあるはずがないと思い直した。案の定、り以子はすまなそうに小さく頷いた。
「分からないなら人に聞けよ。危ねえな」
「はい……」
そんなに強く言ったつもりはないのに、り以子はしゅんと項垂れた。ダリルは小さな罪悪感でむずむずした。
「……ほら、来い」
呼びつけると、り以子は子犬のように素直に寄って来た。ダリルはり以子を自分の前に立たせたら、日焼け知らずの小さな手に金槌を握らせ、その上に自分の手を重ねて、一緒に釘を打って見せた。なかなか通じない言葉で説明するより、この方が手っ取り早いと思った。しかし、そのうちに自分は何をやっているんだと妙な気分になってきた。握り込んだ手の中に、ふにゃふにゃした柔らかい温もりがあるのを考えないようにすることは出来なかった。にも関わらず、当のり以子は弾む金槌だけに夢中だ。その様子がダリルの癇に障った。やはり、所詮子供だ。
ダリルはそそくさと離れ、改めてり以子を見守った。さっきに比べればまだ見ていられるようにはなったが、いつ自分の指を打つかハラハラするのは変わらなかった。
「出来ました」
り以子が金槌を抱きしめて、パッとダリルを振り返った。目が「褒めて」と訴えている。ちぎれんばかりに振れる尻尾が今に見えてくるようだった。
「……下手くそ」
り以子が衝撃を受けて固まった。ダリルは笑いを堪えてその場を後にした。
ダリルはまだり以子の感触が残っている気がして、自分の煤けた手の平をそっと見つめた。細い腕だった。記憶にあるよりも痩せた気がした。やつれたのは彼女に限ったことではないし、色々続いたから仕方のないことかもしれないが、なんだかこのままでは消えてなくなってしまうのではと言い知れぬ不安を感じた。
小屋の中には、血と汗の臭いが混じった、不愉快な空気が充満していた。視界を覆われ、口を塞がれた捕虜が、身をよじって手錠から抜け出そうともがいている。皮膚が裂けて血がにじみ、手元はぬるぬる滑ったが、ランダルはそれを潤滑油代わりにして、必死に手を動かした。
しかし、入口の外で鍵を外す音がすると、ランダルは慌てて背筋を正し、傷ついた手を隠すため、背中を壁に押し付けた。
おんぼろの扉を開けて、その人物は小屋の中へ入って来た。ムッとした嫌な臭いのする薄暗がりを、大きな靴がゆっくり歩き回っている。ランダルは懸命に耳を欹て、全神経を集中させて、足音を追っていた。
シェーンはランダルの前で立ち止まった。物置の隅に積んであった粗末な椅子を一脚取り上げて、わざと大きな音を立てて床に置いた。ビクッとして脅えた声を漏らす捕虜の姿をじっと観察しながら、どっかりと椅子に座り込んだ。
膠着状態が続いた。ランダルはシェーンの息づかいをどこかに感じ、一体これから我が身に何が起こるのかと、恐怖に縮み上がっている。そのうち、シェーンは頭に湧いた何かを押し込めるように、自分の頭を二度、三度引っぱたいて立ち上がった。ズボンに差していた拳銃を抜いて、ランダルの頭に突きつける。撃鉄を起こすカチリという金属音が鳴った。
ランダルは恐怖にすくみ上がっていた。だが、シェーンの拳銃が炸裂することはなかった。彼の目はランダルが体で隠していた後ろ手に釘付けになっていた。強引な手つきでランダルの体を倒し、露わになった傷だらけの両手を見れば、彼が手錠を外そうと企んでいたことは一目瞭然だった。シェーンはすすり泣く顔と手首を見比べると、冷笑を漏らし、ランダルを乱暴に突き飛ばした。この時すでに、シェーンの頭には一つの物語が浮かんでいた。
再び小屋の扉が開け放たれ、荒々しい足取りのシェーンが外へ飛び出した。今度は一人ではない。目隠しをつけたままのランダルも一緒だった。獣のように鋭く研ぎ澄まされたシェーンの目は、まっすぐに森の奥の暗闇を向いていた。
二つの後ろ姿が遠ざかると、り以子は小屋の物陰から静かに姿を現した。衝撃と緊張で心臓が激しく鼓動するのを感じながら、左手はしっかりと刀の鞘を掴んでいた。