Better Angels

深い森の中で

 どうしてシェーンがランダルを連れ出しているのか、り以子には全くの見当がつかなかった。彼はランダルを殺したがっていたはずだ。皆の目を盗んで勝手なところへ逃がそうとするとは考えにくい。り以子は時々警戒的に後方を確認するシェーンの目をかい潜り、木から木へと、素早く慎重に渡り歩いて後を追いかけた。

「そっちだ」

 上手く歩くことが出来ないランダルを、シェーンが苛立たしげに突き飛ばすと、ランダルはとうとう分厚い落ち葉の絨毯に足を取られて転倒した。シェーンは来た道を用心深く凝視しながら、ランダルの服の背中を掴んで引き起こした。

「しーっ、しーっ……」

 粘着テープで塞がった口から弱々しい唸り声が漏れ出している。シェーンは繰り返しランダルを宥めながら、彼の目隠しを押し上げた。

「分かってる、俺の顔など一番見たくなかったろう、え?」

 ランダルの露わになった目を覗き込んで、挑発的に言った。

「聞け。お前をここから逃がしてやる。いいな?呼吸しやすいようにこれを外してやるから、大声を出すなよ。分かったな?」

 ランダルは小刻みに何度も頷いた。すると、シェーンは本当に口の粘着テープを剥がした。ランダルが新鮮な酸素を求め、金魚のように大口を開けると、シェーンはすかさずその顎を掴んで「静かに!」と言いつけた。

 周囲を警戒する目が再び木々の合間をまさぐり出した。り以子は木の幹に体を押し付け、スカートの裾が一ミリもはみ出さないよう細心の注意を払った。

「で、お前の仲間は。どこにいるか知ってるんだろ?」
「いいや、知らないよ。本当に──」

 言い終わらないうちに、シェーンの強烈な平手がランダルの横面に叩きつけられた。

「起きろ──俺はお前が生きてこの森を抜け出す唯一の切り札だ。分かるか?さあ、言うんだガキ。どこにいる」
「……俺たちは、ハイウェイの側にキャンプを……ここから五マイルくらい先だけど、あいつらがまだそこにいるとは限らないよ」
「分かった」シェーンは歌うように言った。「じゃあ、俺をそいつらのところへ連れてってくれ」

 ランダルの空気が凍りついたのが分かった。「……何故だ」

「だってよ、俺は──俺は今のグループにうんざりなんだ。奴らは破滅する。俺は巻き添えを食いたくない。それだけのことさ」

 嘘だ。り以子はそう叫びたかった。シェーンがローリとカールを捨てて、ランダルの仲間に成り下がるはずがないことは、り以子には分かりきったことだった。だが、ランダルはそんなことを知る由もない。

「じゃあ……俺を殺したりしない?」
「馬鹿だな、お前は。俺がそのつもりなら、お前はとっくに死んでる──来い」

 シェーンがランダルの手を引いて立ち上がった。移動する──り以子は慌てて次の木に移動した。

 シェーンの偽りの目論見を信じ込んだランダルは、急に気が強くなったようだった。傷ついた脚を引きずって歩き、尊大な態度でシェーンの乱暴な振る舞いを注意し出した。り以子は付かず離れずの距離感を保ち、忍者のように二人を追いかけた。

「俺たちのこと、きっと気に入るよ」

 ランダルが得意げに言った。

「時々イカれてることもあるけど、強い男たちだ。あんたならすぐ馴染む」
「口じゃなくて足を動かせよ」

 シェーンは後ろ向きで移動しながら、イライラと命じた。

「緊張すると黙ってられない。癖なんだよ」

 り以子はなるべくランダルの軽口に紛れて進んだが、ローファーが小枝を踏んだ音をシェーンに聞きつけられたような気がしてヒヤッとした。

「色々あってさ──分かるだろ?」
「……みんなそうだ」
「それは分かってるけどさ、ただ──」

 り以子が一本の木の裏に釘付けになっている間に、二人の姿が大木の陰に消えて、見えなくなった。り以子は心臓が激しく打ち鳴らす危険信号で、その場を動くことが出来なかった。木の幹に背中を張りつけたまま、遠ざかるランダルのおしゃべりを聞いていた。するとそれは、不自然なところで唐突に途切れた。そして、「ギャッ」という短い悲鳴が上がったかと思うと、ゴキッと何かがへし折れる音がして、誰かが地面に崩れ落ちたのが分かった。

 り以子は叫ぶまいと口を必死に手で押さえていた。一人分になった足音が、フラフラと怪しい足取りでり以子の潜んでいる場所へ近づいてくるのが分かった。そして、蛇が落ち葉の上を這うような、掠れた声がした。

「そこにいるのは誰だ」

 り以子は今になって、シェーンの後を追うと決めた自分を激しく後悔した。

「出て来いよ、なあ。こっちは終わったぞ」

 シェーンの挑発的な言葉にも、り以子は無言で返すしか術がなかった。手足の感覚は全て失われ、自分がどこに立ち、体のどこに力を込めているのかさえ分からなくなっていた。

「……お前が誰か当ててやろうか」

 シェーンがせせら笑った。「俺の言ってる言葉が分かるか?──り以子」

 り以子はゆっくりと木の陰から現れ、シェーンと対峙した。シェーンは「やっぱりな」という顔つきで、鬱陶しそうにり以子を一睨みした。

「お節介もここまでくると呪いだな」

 そうぼやくシェーンの向こう側に、両手足を投げ出してうつ伏せに倒れているランダルが見えた。明らかに──死んでいる。り以子の背筋をゾワゾワしたものが駆け上がっていった。

「……どうしてあの人を殺しましたか?」
「まったく、そう来ると思ったよ。一言一句予想通りだ」
「私たちはこの人を解放すると決めました」
「違う。そうじゃない。リックが勝手に決めた。お前も俺と奴の会話を聞いてたなら、こうするしかないと思ったはずだ。やはり奴は危険だった」

 シェーンがり以子に向かって一歩踏み出した。り以子は同時に一歩下がり、刀の柄に手をやった。

「……落ち着け」

 シェーンはり以子の刀を凝視して、小さく両手を広げた。

「そんなものを抜いたところで、何にもならない」
「あなたは私を撃てません」り以子は素早く言った。「ここであなたが撃つと、皆にその音が聞こえます。あなたは仲間殺しになります」

 すると、シェーンは少し考え込む素振りを見せた。

「こういうのはどうだ?──ランダルが手錠をすり抜け、俺から銃を奪い、お前を人質に取って逃げた。俺は勇敢にも後を追いかけたが、お前は哀れにもランダルに撃たれて死に、俺が奴の首を折って殺した」

 り以子は何秒かの間、衝撃で何も言えなかった。

「……リ、リックさんはそんな話を信じません」
「あいつは俺の親友だ」

 その言葉は、り以子に忘れていたことを思い起こさせた。そうだ、二人は相棒同士だった。なのに、どうしてここまでこじれてしまったんだろう。

「あの日、ウォーカーの襲撃があった日の朝……採石場のキャンプで……」

 り以子はフワフワとした口調で囁くように話し出した。

「……あなたは私を『偽善者』と呼びました」

 シェーンは瞬間的に一切の動きを忘れた。ややあって、面倒臭そうに溜め息をついた。

「意味分かってて黙ってたのか」
「いいえ……だけど、さっき辞書を引いた時に、私は思い出して調べました。あなたはあの時、私を『偽善者』と呼びました。何故ですか?──あなたが私を犠牲にしてローリさんを助けたことを私が許したからですか?それとも──」

 り以子は恐怖以外の何かに体を打ち震わせていた。

「──それとも、私がリックさんを助けて連れて来たからですか?」

 シェーンは答えようともせず、顎を上げて、冷たい視線でり以子を見下ろしている。り以子はこれ以上シェーンを挑発してはいけないと直感的に理解していたが、どうしても止められなかった。

「そうです、あなたとリックさんは親友です。私たちは、同じグループの仲間です。なのに何故あなたはその態度ですか?何故あなたは──あなたは──」

 いらない涙が溢れかけ、り以子は血が出るほど強く唇を噛んだ。

「あなたは、リックさんを殺すつもりだ!」

 り以子が強い口調で事実を叩きつけても、シェーンは「予想通りだ」と言うように顔色一つ変えなかった。そればかりか、しゃあしゃあとり以子に近寄って来るではないか。

「来ないで!」

 り以子は叫び、ついに鯉口を切った。シェーンは足を止めた。

「わ、私の間合いです」り以子は強がった。「あ、あなたが私に触れる前に、私はあなたを斬ることが出来ます!」

 あろうことか、シェーンは笑った。り以子の決死の牽制など、まるで毛を逆立てて威嚇する猫くらいにしか思えなかったのかもしれない。

「俺がお前を嫌いな理由を教えてやろう」

 シェーンがどんどん距離を詰めてくる。り以子はいよいよ刀を鞘から引き抜く覚悟をした。ところが、六十センチを超える刀身が姿を現しきらないうちに、シェーンの手がり以子の手の上から柄を押さえ込み、刃は鞘の中へ逆戻りしてしまった。り以子はハッと息を呑んで、間近に迫ったシェーンを見上げた。シェーンの顔は表情がなく、氷のように冷たい目をしていた。

「ただの偽善者じゃない。無知で無力な子供だ。それなのに、一丁前に口ばかり出す。何か起きれば、『全部私が悪いです』って顔をする。『必要なら私が腹を切りましょうか』とな。けど、それは本心じゃない。お前は自分が守られている子供だと自覚してるからそんな態度を取れるんだ。自分の身の安全が保障されてることを知ってる。お前がすまなそうにすりゃ、皆がお前を心配し、お前のせいじゃないと言葉をかけるからな」

 吐き捨てるようにたたみかけられる言葉を、り以子はほとんど聞き取ることもできず、ただ怯えてのけ反るばかりだった。

「どうした?反論してみろよ。図星か?──ああ、それとも、俺の言ってることが分からないか?」
「わ……私は……」
「お前はいくつか勘違いしてる」

 シェーンはり以子に分かりやすいよう、はっきりとした、嫌味っぽい口調で言った。

「お前はリックの客人かもしれないが、俺たちの仲間じゃない」

 その言葉は、り以子の胸に深く突き刺さり、抵抗する気力を奪っていった。

「お前は俺を切れるつもりでいるらしいが、はっきり言って、あんたのことなんて簡単にひねり潰せる。それから──」

 シェーンはズボンに差していた拳銃を引き抜いて、安全装置を外さないまま、り以子の目の前に掲げて見せた。

「銃の使い方は撃つだけじゃない」

 り以子はシェーンが大きく腕を引き、拳銃のグリップが物凄い勢いでり以子に向かってくるのを見た。次の瞬間、脳みそにガツンと巨大な衝撃が走り、目に映る全てが急速に遠のいた。り以子は落ち葉の絨毯にうつ伏せになり、そして、何も感じなくなった。