ランダルが消えた。Tドッグの爆弾のような一言が、農場の空気を一変させた。駆けつけた全員で小屋の内外を探し回ったが、確かにランダルの姿はどこにもなかった。壁には血のついた手錠が空っぽのままぶら下がっている。
「何があったの?」「ランダルが消えた」「消えた?どうやって?」「いつからだ?」「どうなってるの?」「分からない……」
「手錠は引っかかったままだ。すり抜けたらしい」
そう言いながら、リックは半信半疑で空っぽになった小屋を見上げた。ハーシェルが扉をひっくり返し、表裏に異常がないか確かめている。
「扉は外から施錠されてた」
ランダルはどうやって内側から鍵を開け、そして何故わざわざ鍵をかけて逃げたのだろう?──謎は深まる一方で、何が何だかさっぱり分からなかったが、とんでもなく悪いことが起き始めていることだけは感じていた。捕虜を解放するのと、捕虜に逃げられるのとでは、全く状況が変わってくる。ランダルに敵意ばかりを抱かせたまま逃げられたら、報復の可能性は跳ね上がるだろう。
「リック!──リック!」
森の方から、獣の吠えるような怒声が聞こえた。シェーンだ。怒り狂った足取りで荒々しくやって来る。彼は顔面に深手を負っていた。
「何があったの!?」ローリが叫んだ。
「奴は武装してる!俺の銃を奪いやがった!」
「大丈夫?」カールだ。
「俺はな。だがり以子が人質に取られた!」
リックとダリルは、一瞬、シェーンの言っていることが理解出来ずに硬直した。り以子が──何だって?
「……どういうことだ」
ダリルがシェーンに詰め寄るのを、リックは茫然と見送った。全身から血の気が引いていくのを感じる。シェーンは流血する鼻に恐る恐る触れながら、苦々しげに状況を説明した。
「あのクソガキ、背後から俺を襲って顔を殴りやがった。り以子は偶然傍を通りかかったんだ。俺を助けようとして、それで──攫われた」
「最悪だ」
「なんてこと……」
グレンは頭を抱え、ベスは両手で口を覆い、今にも泣き出しそうだった。
「……分かった。ハーシェル!Tドッグ!みんなを家へ。グレンとダリルは俺たちと来い!」
リックが急いで指示を出すと、皆が即座に言われた通りに動き出した。ダリルはクロスボウに矢を装填し、グレンはマギーの手を握り、行ってくると合図をした。シェーンはTドッグに銃を要求している。「──T!お前の銃を寄越せ!」
「逃がせばいいわ」キャロルがすかさず言った。「そういう計画だったじゃない。彼を逃がすって」
「り以子を連れてかれたんだぞ!──それに、計画は奴をここから遠い場所に追放することだった。銃を持って周囲をうろつかせることじゃない!」
「行かないで!何が起きるか分からないわ!」
リックは聞く耳を持たなかった。「全員家の中に戻れ!ドアに鍵をかけて、外に出るな!」
皆が急ぎ足で家に戻って行く。キャロルとマギーは最後まで捜索隊の心配をしていたが、アンドレアやTドッグに背中を押され、渋々引き上げた。そして、リック、ダリル、グレンは、シェーンの先導で森へ入って行った。
「気を失う前、森へ消えるのを見た。どれほどだったか分からないが」
シェーンの話を聞きながら、リックは努めて冷静に分析した。
「そう遠くへは行けないだろう……り以子は抵抗してるはずだ。奴は怪我をしてるし、疲弊してる」
「武装してるぞ」グレンが言った。
「俺たちもだ──奴を追跡できるか?」
「いや。何も見えない」
ダリルはリックが訊ねる前から、鋭い目で周囲の地面を探っていた。髪の毛一本見逃すまいという集中ぶりだった。
「なあ、おい」シェーンが焦れったそうに口を挟んだ。「ここには奴の手がかりは何もない。だろ?向こうへ行ったんだ。二組に分かれよう。広がって追いかけるんだ。それしかない」
「せいぜい125ポンドくらいのガキだぞ。そんな奴にやられたってのか?」
ダリルは周囲に走らせていた視線を、そのままシェーンに持っていった。
「岩を武器にされた。やり返そうにも人質がいて手出しが出来なかったんだ」
「分かった、やめろ」
言い争っている場合ではない。リックは早めに仲裁に入り、ダリルに向かって指示した。
「君とグレンで右側を当たってくれ。俺とシェーンが左だ。忘れるな、敵はランダルだけじゃない。充分に用心しろ」
リックの予想は外れ、ランダルとり以子の痕跡はどこにも見つからなかった。時間は無情に過ぎ去り、日はすっかり暮れて、辺りは真っ暗闇に包まれた。ダリルは深々と溜め息を吐き出し、黙って後ろをついて来るグレンを振り返った。
「ダメだ。お前、明かりあるか?」
しかし、懐中電灯のスイッチを入れても、目に見えるものは変わらなかった。落ち葉を被った平坦な道が続くばかりだ。他には何もない。足跡も、落し物も、り以子の手がかりになるものは何一つ残されていなかった。こっちには来ていないのかもしれない。
「あー」ダリルはイライラして唸った。「……来い」
冷静に、落ち着いてと言い聞かせても、ダリルは焦燥を抑えきることは出来なかった。何故り以子が攫われなければならなかったのか。無事でいるのか、それとも──時が経てば経つほど不安が募る。つい先日、最悪の結末を経験してしまったせいか、すぐそこに転がっている不吉を無視するのは難しかった。
「……元の場所だ」
グレンの心配そうな呟きを背中に聞きながら、ダリルは倒木を跨ぎ、目を皿にして地面を探った。
「どうせなら徹底的にやる」
やがて、枯葉の中に二人分の足跡を見つけた。やはりさっきまでは見当違いの場所を巡っていたようだ。ダリルはライトで照らし、慎重に跡を辿った。
「こんなとこに、二人分の形跡がある──シェーンは言ってたより長く追い続けてたらしい」
「り以子のじゃなくて?」
「違う、歩幅がデカすぎる。女子高生のはない。いや……待て。あった。ここだ」
ダリルがライトを向けたにも関わらず、グレンは見当違いのところを見て首を捻っている。ダリルは辺りにライトを走らせ、足跡がどこから続いているのかを探った。
「……あっちから大きく蛇行して来た……二人を迂回してる」
ダリルは思わずグレンと目を見合わせていた。
「──こっそり後を尾けてた」
そうとしか考えられない。じゃあ、シェーンは何故嘘をついた?り以子は今どこに?ダリルは途方に暮れて、辺りを見回した。すると、木の幹に、テラテラと光る不気味な染みを見つけた。
「この木、まだ新しい血がついてる」
「……り以子の?」
グレンがゾッとした声を上げた。ダリルは冷静に首を振った。
「そんなわけない。この高さじゃ届かない」
そのままライトを下ろす。ここから、足跡の調子が急に変わった。
「まだ続いてる。二人並んで歩いたようだ」
その時、鳥の鳴き声に気を取られたグレンが歩調を合わせ損ね、肩にぶつかってきた。手を上げて謝るグレンに一瞥をくれて、ダリルは再び地面に意識を集中させた。
「……ああ、乱れた跡だ」
「つまり?」
「何かが倒れたってことだ」
答えは近い。グレンは夜の森にすっかり怯んでいる様子だったが、ダリルは特に構わず、ペースを上げてズンズン進んだ。
「──何かが起きた」
荒れた木の葉の跡に、黒くて細長い布のようなものが落ちていた。グレンがおっかなびっくりつまんでぶら提げたそれに、ライトを当てていると、背後でミシッと小枝を踏む音がした。二人はハッと息を呑み、隣り合って聳え立つ木の裏に、それぞれ急いで身を潜めた。
靄の向こうに、フラリと揺れる人影があった。味方ではなさそうだ。ダリルはヒュイッと口笛を吹いてグレンの顔を自分の方に向かせ、邪魔な懐中電灯をぽんと投げ渡した。クロスボウを両手でしっかり握り、木の陰から僅かに顔を覘かせて人影の様子を窺う。足を引きずっている。体の動かし方もぎこちない。おそらくウォーカーだろう。
ダリルは背中を幹につけて、チャンスを待った。ウォーカーが確実に近づいてきている。グレンが鉈を握り、意を決して陰から飛び出した──。
ところが、懐中電灯の明かりに浮かび上がった顔を目撃した途端、グレンは衝撃を受けて動けなくなってしまった。ウォーカーは激しく唸り声を上げ、両手でグレンに掴みかかった。ダリルはすかさずクロスボウを構え、突き飛ばされたグレンが地面に転がされたところで、ウォーカーの頭めがけて矢を放った。だが──外した。矢は後ろの木に突き刺さった。
ダリルに気づいたウォーカーが、グレンから矛先を変えて襲いかかってきた。ダリルはクロスボウを盾に防御したが、強引に押し倒されて尻餅をついた。ウォーカーがダリルに食らいつこうとのし掛かってくる。ダリルは自由の利かない体勢で、必死に抵抗した。すぐにグレンがウォーカーの背後から飛びかかった。グレンに羽交い締めにされ暴れる屍を、ダリルは満身の力で殴り飛ばした。
グレンは吹っ飛んだウォーカーの下敷きになり、しばらく歯を食いしばってもがいていたが、そのうちなんとかマウントポジションを取ることに成功した。鉈を大きく振りかぶり、思いっ切りウォーカーの頭に叩き込んだ。ウォーカーはたちまち動かなくなり、森は静寂を取り戻した。
ダリルはウォーカーの顔を照らし、死亡を確認すると、肩で息をしながら立ち上がったグレンの腹をポンと叩いた。
「ナイス」
グレンは青ざめた顔で、死体から鉈を引き抜いた。もう一度死体の顔にライトを当てたダリルは、そこでようやくグレンの動揺のわけを知った。死体はランダルだった。首が不自然にねじれている。何故この男がウォーカーなんかに……?じゃあ、り以子は一体どこへ……?
リックには、自分の前を行くシェーンが、確信を持って進んでいるようにはとても思えなかった。攫われた仲間を捜し歩いている様子でもない。ダリルたちから故意に引き離されているような気がして、そしてそれがあながち間違ってはいないという思いがあった。
「本当にこっちか?」
リックが疑念をぶつけると、シェーンはゆっくりと立ち止まってリックを振り向いた。
「間違いない」
「銃を取られたって?」
「気に入ってたのに……俺を殺さなかったことを後悔させてやる」
何も言うことが出来なかった。遣る瀬ない気持ちでいっぱいだった。リックにはシェーンの言葉の偽りが見えていた。何の根拠もなく、ただ直感的に、親友が自分に嘘をついていることに気がついてしまった。