Better Angels

深い森の中で

 もはや唯一の手がかりはこの死体のみとなった。ダリルはどんな小さな証拠も見逃すまいと、ライトの明かりを頼りに、隅々までランダルの死体をまさぐった。どこかに消えた女子高生の痕跡が残っているはずだ。

「首が折れてる」

 それ以外には、虚しくなるくらい何もない。本当に何もなかった。それが別の疑念を生む。ウォーカーにやられた傷はどこだ?──ダリルはねじれた首を確認し、次に死体をひっくり返して、後ろ側を調べた。頭皮、首……シャツやズボンの裾もめくった。どこにもない。

「噛まれてない」
「ああ、見えるところはね」

 ダリルはもう一度首を調べた。何度見ても事実は一つだった。

「違う。こいつはこれで死んだって言ってんだ」

 ダリルは折れた首を指差し、グレンに目を向けた。

「……どういうことだ?」

 グレンの問いに答える術をダリルは持ち合わせていなかった。ただ、胸騒ぎがした。これまで当たり前と思っていた知識が、根底から覆される、不吉な予感を抱かざるをえなかった。

***

「岩でやられたと言ったな」
「そうだ」
「……小屋の中で?」

 リックとシェーンは、再び開けた場所に出た。遥か遠くにハーシェルの農場の囲いが見えている。

「Tドッグが向かった時、小屋の扉は閉まってた」
「……そりゃ俺も見たよ」

 背後のシェーンの声を聞きながら、リックはどうか、どうか全てを認めてくれと強く願っていた。今のうちに罪を認め、心を入れ替えてくれ……と。しかし、願いは届かなかった。

「屋根から逃げたんだろう」

 リックは最後の願望をくじかれ、歩みを止めた。屋根の窓はダリルが塞いだ。あの小屋から出るには入口の扉の他になかったはずなのだ。

 淀んだ暗い夜空に、不気味な月が浮かんでいた。シェーンは恐らく自分の嘘を見破られたことに気づいていただろう。お互いの警戒がこもった距離がそれを物語っている。生臭い風が吹き、秋の虫の声だけが聞こえていた。

 リックは拳銃をそっとホルスターにしまった。シェーンが僅かに身じろぎしたのが分かった。

「それで、ここが目的地か」
「……恰好の場所だ」
「何をするか口に出せるか?」

 シェーンが拳銃を抜いた。リックは振り返り、シェーンの目を見て続けた。「──殺人だ」

「俺もランダルもいないのに、お前一人で農場に戻ったら──」
「黙れよ」
「──お前のでっち上げたクソみたいな作り話を皆が信じると本気で思ってるのか?」
「作り話なんかじゃない」

 シェーンは低く唸るような声で言った。

「俺は、人質を助け出そうとしたお前を、捕虜が撃ち殺すのを見た。奴はり以子が邪魔になり、銃で殴り殺して逃げた。俺は追いかけ、奴の首を折った──簡単じゃないだろうが、それでも、ローリとカールはお前を乗り越える。前もそうだった。そうしなきゃならないのさ」

 リックは愕然とした。自分たちはまた亡霊を捜していたのか。また、間に合わなかったのか……。

「何故、彼女まで……」
「彼女は勘が良すぎた。俺を疑ってた──俺がお前を殺すと言ってきた」

 銃口がまっすぐにリックを狙った。リックの胸には、悲しみよりも、悔しさばかりが募っていた。

「何故だ。何故今なんだ?──俺たちの問題は解決したはずだ」
「俺たちは殺し合おうとしたんだぜ」シェーンが笑った。「何考えてんだ?全て忘れると?仲良く夕日を眺めると?」
「お前に俺を殺せるのか?」

 じりじりと動くリックを、シェーンの拳銃は執念深く追いかけた。懸命に押さえ込もうとしていた憎しみが、重石を跳ね除け、喉元を急速にせり上がっていくのを感じた。

「俺の妻を寝取り、俺の子供たちに、俺の子供たちに!『パパ』と呼ばせるのか!それが望みか!」

 シェーンは答えなかった。フーフーと興奮した獣のような息を吐いている。

「価値のない人生だ。俺には分かる。お前には耐えられない」
「お前に何が分かる!」

 シェーンは銃を下ろして声を荒げた。

「俺が何に耐えてるかお前は知らないだろ!分からないだろ!リック、俺に何が出来るか話すよりも、お前には何が出来るんだ?なあ!」

 銃をズボンに差し、挑むように両腕を広げた。リックは微動だにせず、その姿を見ていた。

「やれよ、なあ。銃を構えろ」
「いいや。俺は構えない」
「どうした、リック。お前はもう『いい奴』はやめたと思ったんだがな。お前はそう言わなかったか?今、ここにいる限り、家族のために戦うんじゃないのか?──俺はお前よりいい父親になるぜ、リック!お前よりもローリにふさわしい!俺はお前よりマシだからな、リック。俺はここにいてやれるし、そのためには戦うつもりもある。お前がやって来て全てを壊したんだ!」

 シェーンの怒声の後で、夜の静寂が一層際立った。

「女は傷つき、息子はひ弱だ。お前は修復の仕方も知らない。銃を構えろ」

 シェーンの銃口が再びリックを狙った。それでも、リックは決闘の申し出を頑なに拒んだ。

「丸腰の男を殺してみろ」

 リックは慎重に、ゆっくりと両手を上げ、その掌に、シェーンの注意を絡め取った。

「俺の手を見ろ。落ち着け……」

 赤ん坊を寝かしつけるような穏やかさで語りかけながら、利き手ではない方の手をゆっくりとホルスターへ向かわせた。その指先が拳銃のグリップに近づくと、二人の間の緊張感が一気に膨れ上がった。シェーンが得物を握り直した。「早まるな……」リックは祈るように呼びかけると、銃身を掴んで拳銃を取り出し、逆さまのままシェーンに向かって差し出した。

「よく聞くんだ、シェーン。今ならまだ戻れる」

 リックは差し出した拳銃をシェーンに渡そうと、ゆっくりと距離を詰め始めた。

「ここでは何も起きなかった。お互い銃を下ろして、農場へ戻ろう。一緒に──ローリやカールのところへ。全てなかったことにしよう」

 シェーンは明らかに狼狽えていた。距離はほとんどなくなっていた。シェーンは右手でリックに銃口を向けたまま、左手でリックの手から拳銃を抜き取った──。

 次の瞬間、全てが急展開した。シェーンが拳銃に気を取られている隙に、リックは腰のナイフを抜き、保安官時代に培った素早い動きで、シェーンの胸を刺した。心臓を一突きだった。暴発した拳銃が何もない夜空に一発の銃弾を放った時には、リックの胸に、苦しみ喘ぐ親友の体が倒れ込んでいた。リックはその場にシェーンを押し倒し、全体重をかけてナイフを奥へ奥へと突き刺した。シェーンは口から大量の血を溢れさせ、呵責の目で自分を見上げている。

「お前が俺にこうさせたんだ、シェーン!お前のせいだ、俺じゃない!お前が俺の友人を殺したからこうなったんだ!仲間を殺しておいて、戻れるわけないだろうが!お前が悪い!」

 シェーンは激痛に悶えながら、朦朧とした表情でリックに向かって手を伸ばした。リックはもっと深くナイフを押し込み、呪いのように同じ言葉を叫び続けた。

「お前のせいだ!俺じゃない!俺じゃない!」

 ナイフを引き抜くと、夥しい量の血がドクドクと脈打ちながら溢れ出した。シェーンはそれを手ですくい、狂乱するリックの顔と見比べていた。

「──俺じゃない!」

 シェーンの手が、まだリックの首元に絡みついている。リックは恐ろしくなった。シェーンが死んでいく。この世界で唯一無二の相棒が、自分の手にかかって死んでいく……。

 シェーンの目はうつろで、口から血の混じった咳を弱々しく吐き出していた。リックは血で真っ赤に濡れた手で、シェーンの手を握り、顔に触れた。苦しんでいる。悶えている。そして、沸き立つ血の臭いの中で、シェーンは二度と動かなくなった。

 リックは吼えた。慟哭を上げた。誰もいない草原で、夜空だけが二人を見ていた。

 しばらくそこに留まり、ようやく気持ちが落ち着いてきても、リックは親友を刺し殺した感触から逃れられないでいた。シェーンは目をかっと見開いたまま、牧草の上に手足を投げ出し、物言わず横たわっている。リックは瞳孔の開き切ったその目を直視出来ず、シェーンに背を向けてしゃがんだ。もう少ししたら、農場に戻らなくてはいけない。ああ、そうだ。り以子のことを皆に話さなくては。また墓を掘るのか。彼女のために葬式をしてやらなくては。だけど、遺体はどこだろう──。

「パパ?」

 その声に、リックは凍りついた。
 振り返ると、拳銃を手にしたカールが信じられないという目つきで自分を見つめていた。

 リックは絶望の底に落ちていくのを感じた。途端に呼吸が震え、手足を上手く動かせない。呆然と息子の名を呼びながら、なんとか立ち上がった。しかし、カールは激しい息づかいで、自分に近寄るリックを強く睨みつけていた。

「違う……」リックは咄嗟に言った。「ママのところへ戻れ」

 カールが拳銃を構えた。自分にだ。リックは心臓がよじれるような衝撃を味わった。撃たれる──全身の力が抜け落ちていった。

「よすんだ」

 リックは手を伸ばして静かに言った。「いいか、銃を、銃を下ろすんだ……」

 悲しみが堰を切って瞳から溢れ出した。撃たれる。息子に撃たれる。撃たれる。親友を殺したから──。

「勘違いなんだ……頼む……」

 銃声が鳴り響き、リックの真後ろで何かが崩れ落ちた。リックは放心状態のまま振り返り、たった今脳を撃ち抜かれて死んだシェーンのウォーカーを目の当たりにした。カールが銃を下ろし、息を切らして駆けて来る。

 リックは平静を取り戻していた。何が起きたのか、俄かには信じられなかった。カールをその場に抑えとどめ、恐る恐るシェーンの遺体に近寄っていった。
 ──その向こうから、ウォーカーの大群が押し寄せてくることにも気づかずに。