Beside the Dying Fire

壊れゆく人格

 答えはこうだ。街は人口の多い場所から陥落し、ウォーカーの巣窟となった。ウォーカーは音を立てて動くものに反応する。人や獣はもちろん、銃声、車、ヘリコプター──ウォーカーたちは、頭上を飛行するヘリコプターの音に呼び醒まされたのだ。それまで貪っていた獲物を放り出し、ヘリコプターを追いかけて大移動を始めた。街を抜け、ハイウェイを越え、緑生い茂る郊外へ……。そして、農場の敷地を囲う柵に、大勢で押し寄せた。柵は大破し、なだれ込んだ群れは森へ迷い込んだ。迷い込んだ群れは、それから、銃声を聞きつけて、行く先を変える──。

 り以子は暗闇の中に横たわり、虫の音色を聞いていた。その間しばらくは、自分がそこに存在していることが、物凄く非現実的なことのように感じた。り以子には、自分が何に触れていて、何を見ているのか、あまりよく分からなかった。

 どれくらいの時間が経っただろう。目に見えている世界が徐々に色づき、形を帯び始めた。たくさんの落ち葉がある。それがり以子の体を包んでいるものだった。り以子は落ち葉の中に倒れていた。

 背中に敷いているばかりでなく、体の前面や顔にまで、落ち葉が被さっている。誰かが意図的に被せていったに違いなかった。とても不愉快で、今すぐにでも払いのけたかったが、体の動かし方を思い出せず、そのままにしておくしかなかった。

 酷い倦怠感だ。手や足は鉛のように重く、首は据わらない。しかし、何故かずっとここにいてはいけないという確信があった。指一本動かない体に対して、脳はしきりに危険信号を発していた。

 やがて、り以子の目の前に音もなく人が現れた。真っ黒い髪をカーテンのように垂らし、真上からり以子の顔を見下ろしている。その顔の造形は不自然に落ちた濃い影でほとんど見えなかった。しかし、り以子にはそれが誰だか分かっていた。

「つーかまーえた」

 それは、久しく聞いていなかった日本の言葉だった。り以子は懐かしいと思ったが、同時になんて奇妙な響きをしているんだろうと不思議でたまらなかった。

「ずーっと傍で見てたんだよ。でも、気づいてくれなかった」

 蓮水の顔からポタポタと何かの雫が滴っているのが気になって、り以子は彼女の言葉の意味を理解することに集中出来なかった。

「あの時、一緒に逝くはずだったのに。どうして先に行っちゃったの?」

 り以子は目を凝らしてよく見ようとしたが、急に視界が白く霞んで、全てが曖昧になった。ギュッと瞼を閉じてもう一度開くと、蓮水の姿が横に少し移動していた。相変わらず顔は見えない。

「ねえ、り以子……私の顔、知らない?探しても見つからないの」

 耳鳴りがして、頭が鋭く痛んだ。それを皮切りに、指先から徐々に正常な感触が蘇っていくのを感じた。

「どうして無視するの?ねえり以子、私の顔返して」

 耳元でキリキリ鳴っている。なんだか不吉な予感がした。これ以上これを聞いてはいけない。

「返してよ。こんなんじゃ家に帰れない。なんで置いて行ったの?助けてって言ったのに」

 刀はどこだろう?腰にあるはずの存在を感じない。あれがなくては駄目なのに。り以子は必死に目玉を動かし、周囲を探った。刀はどこだ──。

「かえして。ねえ、かえして。かえして。かえして。かえして……」

 り以子の上で、蓮水がブツブツと何かを唱えている。ギトギトした髪が顔にかかり、その毛先から冷えた赤黒い液体が滴った。吐き気がした。

「かえ」

 次の瞬間、目に見える世界が変わった。醜い口がぱっくりと開いて、り以子を食らおうとしているところだった。不気味な呪詛は消え、代わりに醜悪な嗄れ声がワーワー鳴っていた。抜けたり、割れたりしている悲惨な歯列の向こうから、酷い悪臭が漂ってくる……。

 ウォーカーだ!

 り以子は悲鳴を上げた。たちまち体の硬直が解け、寝そべったままジタバタと後退りした。その時、り以子は落ち葉の中に硬い金属の感触を見つけた。り以子は咄嗟に握って引き寄せ、牙を剥いて襲いかかるウォーカーに狙いを定めると、チリッと鯉口を切り、一呼吸のうちに抜き打った。

 ウォーカーが崩れ落ちた。けれども、唸り声は止まない。り以子は眼前のウォーカーに向かってもう一度刀を構えたが、それは既にただの屍と化していた。こいつじゃない。り以子は息を殺して耳を欹てた。声は後ろから聞こえる。いや、違う──辺り一帯が唸り声に満ちている。

 気づけば、森はウォーカーの群れに埋め尽くされていた。とんでもない数だ。ハイウェイの群れの比ではない。一同は同じ方向を目指してぞろぞろ進んでいる。り以子は叫び声を放ちたいのを必死に呑み込み、素早い動きで後退した。

「あっ……」

 何かに足が引っ掛かり、無様に尻餅をついた。何かとは脇差だった。り以子は急いで打刀を鞘に収め、二振りの刀をベルトに差し込んだ。逃げなくちゃ──心臓が激しく警鐘を鳴らしている。でも、その前に……皆に伝えなくちゃ。

 り以子はごくりと喉を鳴らし、大急ぎでその場を離れた。その音にウォーカーが何体か釣れても、脇目を振らずに全力で走った。

***

 森のどこかから確かに銃声を聞いた。これ以上目の利かない森の中をうろつくのは得策じゃない。ダリルとグレンは後ろ髪を引かれる思いで森を抜け、グリーン家に引き上げた。リビングには人々が暗い面持ちで顔を突き合わせて、ダリルたちの帰りを待っていた。

「リックとシェーンはまだか?女子高生は?」
「まだよ」ローリが短く答えた。
「銃声が聞こえたぞ」
「あの人たちがランダルを見つけたのかも」
「奴なら見つけた」

 アンドレアが不可解そうに眉根を寄せた。

「小屋に戻ってたの?」
「ウォーカーだ」

 一瞬にして、リビングの空気が沈み込んだのが分かった。ハーシェルはポケットに両手を突っ込み、難しい顔をして訊いた。

「……彼を噛んだウォーカーは見たか?」
「それが、妙なことに噛まれてなかったんだ」グレンが答えた。
「首が折れてた」とダリルは付け足した。
「抵抗したってこと?」

 状況を読み込めていないパトリシアに、ダリルは少しもどかしさを感じた。

「そうじゃない──シェーンとランダルの足跡は二つともぴったり重なってて、女子高生のは離れたところにあった。シェーンは奴を追跡してたんじゃない、後を尾けてたんじゃなかった。二人一緒にいたんだ。後を尾けたのは女子高生の方だ」
「彼女は人質に取られてなんかない?そういうこと?」

 ベスが確かめるように訊いた。ダリルは頷いた。

「誰かあいつが叫ぶのを聞いたか?」

 アンドレアやキャロルが考え込む仕草をした。

「いいえ……」
「そういうこった。あの絶叫クイーンが黙って攫われるはずない──だが、その後何かあったのは間違いない。じゃなきゃとっくに戻って来てる」
「お願い。戻って彼女とリックとシェーンを捜して、一体何が起きたのか見て来てくれない?」

 ローリがつかつかと近寄り、口早に言った。ダリルは即答した。「分かった」

 ところが、グレンとアンドレアを引き連れて外へ繰り出したダリルは、ポーチすら抜けないうちに、別のものを見つけてしまった。森から迫りつつある人影の大群、微かに聞こえる嗄れ声……。

 最悪だ。ウォーカーの大群が農場めがけて押し寄せている。

 大至急皆を呼びつけた。どの影もまだ納屋の向こうにあったが、柵を越えて敷地に入って来るのも時間の問題だった。顔色を変えて駆け付けたハーシェルは、軍団を見るなり、パトリシアに「明かりを消せ」と言いつけた。アンドレアは家の中に銃を取りに行った。

「もしかしたら、あいつら通り過ぎるかも。ハイウェイにいた群れみたいに。家の中に戻らない?」

 グレンの提案にダリルは首を振った。

「秘密の地下トンネルでもなきゃヤバい。あの数の群れじゃ家を倒される」

 それより、り以子はどうした?大量のウォーカーを吐き出し続ける森を、ダリルは目を凝らして見つめた。あれだけの大群に出くわしてしまったら、恐らく、跡形も残らない。ただでさえ心配事が尽きないのに、息急き切って飛び出してきたローリの一言に、ダリルは耳を疑った。

「──カールがいない!」
「何だと?」
「に、二階にいたのよ。なのに見つからない」

 ローリは動揺し、胸を押さえていた。

「二階にいるはずなのよ。息子を置いていけないわ!」
「もちろんよ」キャロルが急いで言った。「もう一度捜しましょう。あの子を見つけるのよ」

 キャロルに連れられ、家の中に駆けて行くローリと入れ違いに、アンドレアが銃のバッグを肩に提げて戻って来た。それぞれがショットガンと弾薬を手にした。グレンは、父親と同じようにショットガンを取ったマギーに衝撃を受けていた。

「マギー……」
「田舎で育てば、多少のことは身につくわ」
「相手が多過ぎる。無駄だ」

 ダリルは冷静に告げた。

「逃げたければそうしろ」

 ハーシェルがショットガンに弾薬を詰めている。ダリルは正気を疑った。

「……あれ全部相手にする気か?」
「こちらには銃も車もある」

 ハーシェルはハンドグリップをガチャッと往復させながら、自信満々に言ってのけた。

「出来るだけ殺しましょう」アンドレアだ。「残りは車を使って農場から遠ざける」
「本気か?」

 今やウォーカーは納屋の周辺まで上がって来ていた。ハーシェルはダリルに対し、固い決意の表情を見せた。

「私の農場だ。私はここで死ぬ」
「分かったよ。最高の夜だ」

 呆れ半分、感服半分の思いで、ダリルはクロスボウ片手に欄干を飛び越えた。