痛い。
頭がずっと痛い。
もう何体何を斬ったのか自覚がなかった。あり得ないことだが、もし襲いかかるウォーカーの中に人間が紛れ込んでいても、気づかず斬り捨てていただろう。それくらい我武者羅に刀を振るい、目に見えるもの全てを無差別に斬りつけた。
暗い夜空の一部がオレンジ色に染まっている。その正体は、ようやっと森を抜け出したところで明らかにされた。納屋が炎上しているのだ。誰かが火をつけたのかもしれない。すぐそこで大火事が起きているというのに、ウォーカーたちは慌てるでも怯えるでもなく、無感情にふらふらと辺りをうろついているだけだ。しかし、ひとたびり以子を見つけると、嬉々として腕を伸ばし、歯を剥いて飛びついてきた。
間違いなく、今日が人生で一番たくさんウォーカーを斬った日だ。手は痺れ、柄を握る感覚はおかしくなってしまっていたけれど、決して刀を放すまいという気合いでどうにか乗り切った。
柵を越えて敷地に入っても、生者の気配はどこにも感じられなかった。それに──車もない。納屋の傍にウォーカーに囲まれたキャンピングカーが放り出されているのみだ。家の明かりは消え、扉や窓に蝿のようにたかるウォーカーの姿があった。
皆、無事に逃げたのだろうか?車がないということはそういうことかもしれない。早くに気付いて避難したのだと信じたい。でも……リックは?シェーンは?二人はどうなっただろう?
──ダリルは?
り以子は途端に恐ろしくなった。頭がガンガンした。邪魔なウォーカーを斬り捨て、ドアを蹴り開けて家の中に飛び込むと、幸い、まだ中は侵入されてはいない様子だった。
「誰か、いますか?」
呼びかけに答える声はない。完全な無人状態だった。
り以子はベスの部屋へ急ぎ、自分のリュックを回収して裏口に回った。皆の荷物はほとんど残されたままだった。着の身着のまま逃げたのだろう。ならば、自分も早く逃げなくては──り以子は刀を血振りし、裏口の戸に背をつけてドアノブに左手をかけた。
ウォーカーの唸り声がする。きっとどこからどう出たって同じだろうと思った。この農場はウォーカーのものになってしまったのだ。
意を決し、そっとドアを開けた。ちょっとの隙間から素早く抜け出し、音を立てないようにドアを閉めた後、こちらに背を向けてボケッと突っ立っていたウォーカーの首を刎ねた。その音に気付き、横からウォーカーが寄って来た。り以子は首なし死体を飛び越えて、全速力で草原に飛び出した。
次々とウォーカーが振り向き、り以子に向かって来る。地獄だった。戻って来なきゃよかったと猛烈な後悔に襲われた。今日は後悔してばっかりだ。柵のひしゃげて倒れたところから敷地を抜け、森に向かって全力疾走した。ウォーカーがずっと追いかけてくる。足が辛い。頭が痛い……。
「あっ!」
こんな時に、何もないところで足がもつれた。転びそうになって、何とかたたらを踏み、堪えた。しかしその拍子にリュックを掴まれた。り以子は咄嗟に腕を引き抜き、振り返りざまに刀を振るって、眼窩を真一文字に斬りつけた。崩れ落ちたウォーカーからリュックを奪い返し、再び走り出そうとしたり以子は、振り向いた先に濁った目があって叫んだ。ウォーカーたちに回り込まれてしまった。引き返そうにも、そちらはもっと大きな群れがある。
最悪だ。囲まれてしまった。り以子は、刀を滅茶苦茶に振るいながら、その場でぐるぐる回ることしか出来なかった。そんなことをしているうちに、ウォーカーはどんどん集まってくる。何かが髪の毛に触れた。もう駄目だ──死ぬ──。
その時、甲高い馬のいななきが響き渡り、目の前のウォーカーが勢いよく吹っ飛んだ。り以子は突然開けた視界の中に、艶のあるしなやかな肢体を見た。ネリーが暴れ狂い、ウォーカーを蹴散らしながら、森へ逃げていくところだった。り以子はもう一度刀を強く握りしめ、ブンブン振り回しながら馬の後を追いかけた。
「ネリー!待って!」
ついに亡者の人垣を抜けた。そこは森のほとりだった。ネリーはり以子の声に反応して足を緩め、り以子はその隙に一気に距離を詰めて、自分が付けっぱなしにしていた鞍に這い上がって跨った。
「ありがとう!行こう!行こう!」
り以子はネリーと共に、深い藍色に染まった森へ飛び込んだ。ひしめく木々が急速に後方へ通り過ぎていく。大地震みたいな激しい縦揺れに襲われ、向かってくるウォーカーに狙いを定めて刀を振るうのは不可能に思えた。だが、り以子が刀を振らなくても、ネリーはラグビー選手のような見事な走りで、木々の合間に点在するウォーカーを巧みにかわしていった。脱出できる──り以子は期待に胸を高鳴らせた。行き先は決まっていた。皆が目指すのは、きっとあそこしかない。り以子は明確に思い浮かべた目的地に向かって、勇ましくネリーを走らせた。
じきに夜が明けようという頃になって、リックたちはハイウェイに辿り着いた。廃車のボンネットの上に、ソフィアのために物資を置いて来たと、以前ダリルに聞いていたからだ。リックはエンジンを切り、車を降りた。食べ物も飲み物も全部手付かずで残っていた。フロントガラスに書かれたソフィアのメッセージは、雨露に曝されて消えかかっている。
誰も来ていなかった。初めて来た時と変わらない、路上の墓場だ。
「ママはどこ?ここにいるって言ったじゃないか」
カールはリックがローリを見捨てて逃げたことについて怒り心頭だった。リックはなんとか宥めようとしたが、甲高い声を響かせて激しく父親を非難した。
「どうして逃げたの?何をしてるんだよ。マ──ママなんだよ!助けに行かなきゃ。危ないよ」
「しーっ!声を落とせ、いいな?」
リックはカールの肩に手を置き、「頼む」と重ねて囁いた。カールは無人のハイウェイを見渡し、リックに対して同じ言葉を繰り返した。
「お願い。僕のママだ」
気持ちは痛いほどに分かっている。彼女はリックにとっても大事な妻だ。それでも、ローリを助けに行くために、息子を危機に曝すことは出来ない。リックはそう説得しようとしたが、カールは聞きたくないというように、リックの手を振りほどいて離れて行った。
「──リック」
息子の後を追いかけようとしたリックを、ハーシェルが静かに呼び止めた。
「君の息子の安全が優先だ。私がここで娘や他の皆を待つ──いくつか場所を知ってる。あとでその場所で落ち合おう」
「どこだ?どこなら安全なんだ?」
ハーシェルは答えられなかった。
「俺たちは分かれない」
「頼む。息子を守るんだ。私はどれかの車に隠れる。ウォーカーに見つかっても構わん。私は農場を失った。妻を失った──多分、娘たちも」
「まだ分からない。きっと来る」
「分からないだろ」
悲観して、自暴自棄になっているハーシェルの姿が、今のリックには腹立たしく思えた。
「神に仕える身だろ。信じろ!」
「……神の計画を理解してるわけではないが、キリストは死からの復活を約束された。あんな姿でとは想像してなかった」
ハーシェルの目は弱々しく垂れ下がり、口元はわなわなと震えていた。リックはもう一度「離れないぞ」と釘を刺して、息子のもとへ向かった。
ハイウェイは安全ではなかった。ウォーカーが何体か通り過ぎ、その度にリックは二人を誘導して車の陰に身を潜めた。銃を撃てば、銃声に誘われてどれほどの大群がやって来るか分からない。気が休まるどころではなかった。
「どれくらいここにとどまれるか分からんな」
ハーシェルが声を潜めて言った。
「ぼ、僕はママなしでここを離れないよ」
「ここから逃げ出すと言うのか?」
リックはカールに続いてハーシェルを責めた。
「俺の妻やあんたの娘たちが生きてるか分からないまま?それでどうやって生きていくんだ!」
「あんたが今考えるべきことは一つだ。たった一つ……息子を守ること。自然が我々に変化球を投げつけてきても、その摂理は変わらない」
胸が引き裂かれる思いだった。自分の中の願望と使命がバラバラに訴えかけている。しかし、何を選択すべきかは分かっていた。正解は一つしかなかった。リックは断腸の念を押さえ込み、しゃがんでカールの顔を覗き込んだ。
「……カール。ここは危険だ」
カールは悔しさに唇を噛んだ。気持ちは分かる。同じ思いだからこそ、余計に胸が辛かった。
「残念だが……俺たちは──」
リックは言葉を切った。地鳴りのような低い轟音が聞こえたからだ。三人とも、胃袋の底を震わせるその音には覚えがあった。もしかしてという期待に胸を躍らせて立ち上がったリックは、廃車の列の向こうに、二人乗りのダリルとキャロルの姿を見た。そればかりではない。血まみれになったシルバーグリーンの乗用車が、青いピックアップトラックが、同じ道を通って続々と集まって来る。心臓が嬉しさに一鼓動し、知らずのうちに微笑みを浮かべてハーシェルと顔を見合わせていた。
ダリルがバイクを停めると、キャロルが降りた。他の車からも、続々と人々が姿を現した。リックとダリルは互いの健闘を讃えて、手を叩き合った。
グレンもTドッグもいる。マギーとベスは別々の車にいたが、二人とも無事だった。リックは青いトラックから歓声を上げて飛び出して来たローリに釘付けだった。抱き合う母と息子をその腕に閉じ込め、満足いくまでキスの雨を降らせた。
「よく見つけたな?」
リックは心底感心し、ダリルを振り返った。ダリルはどこか誇らしげだった。
「まあな、テールライトがジグザグ進んでたから。アジア男だと思って」
「言うね」グレンが笑った。
「……他は?」
ダリルは集まった面々に素早く目を走らせた。彼が誰を探しているのか、リックは何となく分かった気がした。たちまち後ろめたさが胸に溢れた。
「逃げられたのは俺たちだけだ」
ダリルの表情が凍りついた。
「シェーンは?」
そう訊ねたローリの声は掠れていた。リックは静かに首を振った。
再会の喜びを分かち合っていた一同は、徐々にこの場に欠けている大切な人たちのことに気づき始めた。
「──アンドレアは?」と、グレン。
「私を助けてくれて、その時見失った」
キャロルが深く沈んだ声で答えた。
「倒れるのを見た」
Tドッグはトラックのドアに寄りかかり、暗い目をしていた。
「パトリシアは?」ハーシェルだ。
「……捕まったわ」ベスが沈痛の面持ちで言った。「私の目の前で……手を繋いでたのよ、パパ……それなのに……」
ハーシェルは無言でベスを抱き寄せた。ベスは父親の胸にすり寄って涙を流しながら、「ジミーは?」と訊ねた。
「ジミーを見た?」
「……彼はキャンピングカーにいた。奴らで溢れ返ってた」
残酷だと分かっていて、リックは正直に告げた。恋人を失った悲しみに、ベスは泣き崩れた。
「確かにアンドレアを見たの?」キャロルが確かめるように聞いた。
「そこら中にウォーカーがいたから……」
「彼女を見たの?」
重ねられた質問に、ローリもTドッグも答える術がなかった。沈黙が降りた。
恐らく次に訊ねられるだろう人物のことを思い、リックは怯えていた。どう説明すればいいのか、まだ考えの整理がついていなかった。後頭部に刺すような鋭い視線を感じていて、振り向くことが出来ない。
「……女子高生は?」
ダリルが聞いた。リックは瞼を下ろし、小さく嘆息した。それがある意味で答えだった。
「俺は戻る」
ダリルはバイクにUターンした。グレンが「おい」と呼びかけたけれど、耳にも入っていない様子だ。リックはこれほど冷静な判断力を失ったダリルを近頃見たことがなかった。バイクに跨がろうとするのを、すかさず止めた。
「よせ」
「二人を置いていけない」
ダリルが不信の目つきでリックを睨んだ。ローリが慌てた様子で彼を宥めている。
「二人があそこにいるかは分からないわ」
「いないはずだ。アンドレアはいない」リックが言い直した。「どこか別のところにいるか、死んでしまったかだ。見つけようがない」
「……『アンドレアは』?どういう意味?」
グレンがリックの言い回しに引っかかった。皆の疑いの目が続々と自分に向けられるのが分かった。リックは覚悟を決め、ゆっくりとダリルに目を合わせた。ダリルはどうしてリックが自分を見ているのか分からないという様子で、怯えるように目元をしかめていた。リックは、自分だって胸が張り裂けるほど辛いはずなのに、何故かダリルに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「彼女は──」
しかし、その先は続かなかった。誰もが茫然としていた。道路脇の森から馬が現れたせいに違いなかった。
農場にいたネリーだった。背中に誰か小さな人物を乗せている。その人物はネリーの頸に低く身を伏せ、褐色のたてがみに上半身を埋めていたが、やがてのろのろと動き出した。焦らすような緩慢な動きで、リックは翻弄されていた。心臓が踊り上がり、早く、一刻も早くその顔を見せてくれと強く念じた。そして……濡れ羽色の髪の合間に、ダークブラウンの瞳をはっきりと見た。リックはへなへなと脱力し、ダリルが言葉にならない声を漏らして駆け出すのを、ほとんど思考せず見送っていた。