Hematoma

血の塊

 木々のひしめく鬱蒼とした山道を十分かけて走り、救急車を先頭にした車列は、やがて舗装されたアスファルトの車道に滑り出た。そこから数メートルも進まないうちに、尖った丸太を組み合わせて作った簡易的な拒馬のバリケードが行く手を阻んだ。内側にライフルを抱え、頑丈そうな防護服を着た二人組の男が待機していて、救急車を見るなり手を上げて仲間に合図した。バリケードが重たそうに動き、救急車はスピードを落として、開いた道をゆっくりと進んだ。

 バリケードの先では、武装した男たちが何人も警備をしている。ダリルは救急車の後ろにぴったりくっついて、そこに何があるのかを観察した。駐車場らしき広いスペースがクッションドラムで区切られ、一定の間隔にテントが建っている。その先に、カーティスの言った通り、小さな病院があった。轟くようなバイクの深い重低音に呼ばれ、一人、また一人と、人々が様子を窺いにテントから姿を現し始めた。そこに壁と天井があるのに、何故この人たちはテント暮らしをしているんだ?

 救急車が正面玄関で停車し、扉が開いてローリとカールが飛び出して来た。リックとカーティスが共同してり以子を乗せたストレッチャーを降ろし、タッカーが特徴的なリズムをつけて玄関をノックしている。その間にダリルはエンジンを切ってバイクを降りた。

「カーティス!その人たちは誰だ?」
「知り合いだ!一人、意識不明の重体だ──すぐにドクターを起こしてくれ!」

 激しいノックを聞きつけて院内から出てきた人々が、戸惑いながらもストレッチャーを押す列に加わった。ダリルはクロスボウを背負い、刀をベルトに差してから、彼らの後ろを追いかけた。

 院内は少し埃っぽく、真っ暗だった。非常灯の弱々しい明かりで、かろうじて人の見分けがつく程度だ。床のタイルは長年の放置で傷み、壁はところどころ塗装が剥がれかかっている。受付の蛍光灯は外れ、裂けた配線で天井からぶら下がっていた。元は廃病院というのは本当らしい。

「何事だ!」

 奥の診察室から、ひょろ長い赤毛の男が現れた。サイズの合わないよれた衣服を着ている。

「急患だ、ナイジェル!頭を強く打ってる」

 カーティスが言った。ナイジェルと呼ばれた男はすぐにストレッチャーから人をどかし、り以子の頭部を覗き込んだ。ダリルは見知らぬ人間がり以子に触れた瞬間、まるで自分が触れられたかのように嫌悪感が走り、激しい不安に駆られたが、奥歯を噛み締めて堪えた。カーティスとのやりとりからして、恐らくあの男が医師だ。彼に委ねる以外、り以子が助かる可能性はない。

「頭を打ったのはいつ?」
「分からない……」リックが困惑気味に答えた。「多分、何時間かは経ってる。殴られたんだ。銃のグリップで……三十分ほど前までは意識があった」
「頭痛や吐き気は?」
「倒れる直前に」

 リックが「分からない」を繰り返す前に、ダリルが割って入った。リックは豆鉄砲を食らった鳩のような顔でダリルを見つめていたが、ダリルと目が合うと、まともに答えられなかった自分を責めるように視線を逸らした。

「本来なら画像を見るまで診断出来ないが──」

 ナイジェルが難しい顔をして唸った。

「そんなことを言ってられる環境じゃないんでね。すぐに開頭血腫除去手術を行う。患者を奥の手術室に。それから、人手が欲しい」
「俺たちの仲間に医者がいる。獣医だが」

 ダリルの言葉に、ナイジェルは一瞬の躊躇も見せず、頷いた。

「構わない。急いで呼んでくれ──手遅れになる前に」

***

 ハーシェル、ナイジェル、そして数人の知らない男女と共に、手術室とは名ばかりの粗末な小部屋へ消えたり以子を待つ間、きっと誰もが生きた心地がしなかった。何が行われているのか想像もつかず、薄い壁から漏れ聞こえる拷問機械のような音のせいで、余計に不安を煽られる。自分が他人のためにここまで感傷的になれると、ダリルは今まで自覚したことがなかった。

「心配か?」

 待合室のソファに腰かけたまま沈黙しているダリルたちに、カーティスが話しかけた。

「ナイジェルは腕のいい外科医だ。きっとどうにかしてくれるさ」
「ああ。世界が崩壊する前なら、それを聞いてホッとしたよ」

 リックが皮肉っぽく言った。疲労困憊し、その声は掠れていた。

「頭を切って、頭蓋骨に穴を開ける?──こんな……こんな、田舎の廃病院で?」
「イーターだらけの大病院より遥かに恵まれてる」

 カーティスは焦れったそうに言い聞かせたが、リックの頭の堅さは筋金入りだった。

「今は何を言われても安心出来ない」

 リックはソファを立ち上がり、そわそわした足取りで待合室を行ったり来たりし始めた。ダリルは前を通りかかったリックに手元を見られ、自分がずっと爪をかじっていたのに初めて気がつき、溜め息を吐くのと一緒に手を下ろした。

「彼女とは長いのか?」カーティスが切り出した。

 リックは沈黙を貫くことで、おしゃべりを楽しめる精神状態じゃないという意思表示をした。カーティスは諦めたように「分かったよ」とぼやいた。

「なあ、別に君たちを尋問して情報を引き出そうってんじゃない。ただ、かつての仲間が心配だっただけさ。死人の大群に襲われて、散り散りになって……正直、死んじまったと思ってたよ。再会できたのは奇跡だ。なのに、挨拶も出来ず、生死の狭間を彷徨ってるなんて……」

 カーティスは寒気を振り飛ばすようにブルッと身震いした。

 その時、玄関ドアが遠慮がちに開かれ、後続車にいた皆が院内に続々と入って来た。ベスとマギーは父親を連れて行かれたせいか、不安げにしている。全員が待合室に入ると、後ろ手にドアを閉めながら、グレンがカーティスに詰め寄った。

「彼女はどうなってる」
「手術中だ」リックが先に答えた。「奥の部屋に」

 通路の奥の部屋から、何か硬いものを削るような甲高い機械音が微かに響いている。何で何をしている音なのかは何となく想像がついたが、口に出すのは憚られた。グレンは青白い顔で「そう……」と呟き、崩れ落ちるようにソファに座り込んだ。

「外のテントは一体何だ?」

 Tドッグはドアのガラス越しに駐車場を見つめていた。

「年寄りや女子供ばっかりだった。テントじゃ寒さを凌げない」
「病院の上のフロアは怪我人で満員なんだ。廊下まで一杯だよ」カーティスが答えた。「男はもっと酷い。徹夜か車中泊だぞ。ショットガンを抱いたままね……冬に備えて防寒具を揃えてる最中だ」
「一階は空いてる」マギーが眉をひそめた。
「ああ。だが全員は入らない。誰かを特別扱いすれば、自分も自分もと人が押し寄せる」

 何人かは納得のいかない表情をしていたが、しぶとく食い下がる者はいなかった。カーティスの言うことには一理あったし、そもそも彼らの事情は自分たちには関係のないことだ。

「悪いけど、君たちにも外に出てもらうよ」

 カーティスが静かに告げた。

「妊婦がいるんだ」Tドッグがすかさず言った。「彼女だけでも屋根の下に」
「そういうことなら仕方ないが……」
「僕もだ。ママの傍にいるよ」

 カールが言うと、ローリは息子を抱き寄せて、髪の毛の中にキスを落とした。カーティスは気が滅入ったように溜め息を漏らしたが、母と子を引き離すほどの人でなしではなかったようだ。

「分かった……考慮しよう。けど、他は外で耐えてくれ。テントは空きがあるし、食料も僅かだが支給できる。り以子は二階の病室に運ぶが……心配なら、誰かが付き添ってもいい。ただし、一人だ。他にも怪我人がいるから、そうたくさん上げるわけにいかない。悪いが、分かってくれ」

 ダリルは考えるより先にリックに目をやっていた。しかし、リックはダリルの視線を重荷のように感じ、弱々しく俯いた。

「……ダリル。君が付き添ってやってくれ」
「あんたは?」
「目が覚めた時に、俺より君が傍にいる方がいいだろう」

 この期に及んで、またそれか──ダリルはほとほと呆れ、嘲笑のような溜め息のような荒い息を吐き捨てた。

「勘弁しろよ。あの子が目を覚ました時、顔を見てガッカリされるのはうんざりだ」
「どういう意味だ?」
「前に言った」ダリルは低く掠れた声で言った。「あんたの連れだろ。俺に子守りを押し付けるな」

 間抜けに突っ立ったままのリックを置いて、ダリルは「外にいる」と言い残し、大股で病院を出て行った。

 夜風に冷え切った外壁を背にして、張り詰めていた息を解放する。喉の奥がみっともなく震え、いびつな溜め息が、ぼんやりとした白い幽霊のように暗闇を漂った。

 こんなに怖かったことは記憶の中になかった。とてつもなく臆病になっていた。助けたいと願う人物が自分の腕の中にいるのに、何をしたらいいか分からず、何もしてやれないのだ。命が消えていく感触があった。それを感じていながら、嘆いて体を揺さぶることしか出来なかった。今だってそうだ。ハーシェルと知らない誰かが彼女の命を救っている間、ダリルがしているのは、彼女の得物をベルトに差して、震える息を夜風に溶かすことだけだ。成す術がないことが、こんなにも恐ろしいこととは知らなかった。焦るしか能のない、不甲斐ない自分に怒りが湧く。しかし、やり場のない怒りだ。どうしたらいいのか分からない。

 鼻の奥がつんと痛み、瞼の裏が熱くなったが、ダリルはそれを夜の冷気と一緒くたに呑み込んだ。り以子が死んだら、医者を撃ち殺してやる。