それからどれくらいの時間が経ったか、三十分か、一時間か、もしかしたら五分も経っていなかったかもしれないが、とにかく体感的に長い緊張の末、ついに小部屋の扉が開け放たれ、リックたちは弾かれるように立ち上がった。玄関ドアを蹴り開けて、ダリルも駆け戻って来た。
ハーシェルが赤く汚れた手を拭いながら現れた。リックは結果を聞こうと近づいたが、喉の奥が引きつって声が出なかった。
「もう大丈夫なのか?」
代わりにグレンが訊ねた。答えを返したのは、ハーシェルではなく、彼の後ろから現れた、返り血を浴びたナイジェルという医師だった。
「数時間か数日のうちに意識が回復して、特に異常がなければ問題ないだろう」
ベスがソファに膝から崩れ落ち、キャロルとローリは抱き合った。リックは自分にも安堵感が押し寄せるだろうと思っていたが、今は疲労感の方が強かった。玄関に目をやると、ダリルがリックを見ていて、何かを促すように小さく顎を動かした。
小部屋からストレッチャーが運び出されて来た。グレンが駆け寄って、り以子の寝顔に何か声をかけている。リックはダリルの無言の圧力に押し出されるようにして、ふらふらとストレッチャーに近寄っていった。
「信じられない。すごいぞ。よく頑張った……」
グレンがり以子の頬を撫でながら囁いている。しかし、リックにはグレンのような感激は芽生えなかった。むしろ焦燥が加速していた。胸が規則的に上下に動いているのを見て、り以子が生きているということはかろうじて理解したが、り以子はここに運び込まれる前に比べて、何かが改善したとは思えなかった。だって、眠りっぱなしだ。グレンに、そして今やベスやマギーにも囲まれているというのに、起き上がって応える様子が一向にないではないか。
「本当に……?」
リックは震える声で呟くように言った。
「本当に……何か処置をしたのか……?治ったというなら、何故目覚めない?」
「リック、落ち着け」
ハーシェルがリックの肩に手を置いて、落ち着き払った表情で言い聞かせた。
「ナイジェル医師が言った通りに、数時間か数日は目を覚まさない。だが、やれることはやった。私がこの目でちゃんと見ていたし、出来る限りこの手を貸した」
リックは焦点の定まらない目を、ぼんやりとハーシェルの顔に向けた。
「不安な気持ちは分かる。今は待つしかない。リック、君に出来ることは、待つことと、彼女の傍にいることだ──分かるな?」
「ああ……」リックは頷きかけて、声が掠れたので言い直した。「ああ」
「君の息子のことは、今夜は私たちに任せておけ。この警備の中なら、少なくとも一晩は安心して過ごせる……り以子の血腫に感謝しないとな」
ハーシェルはリックを笑わせようとしてそう言ったのかもしれなかったが、リックは頭がぼうっとしていて、不謹慎な言葉も、悪戯っぽい微笑みも、ちっとも意識にとどまらなかった。
リックとローリ、そして母に付き添うことになったカール以外の人々は、カーティスのグループから小さな簡易テントを四つ借り、駐車場の空きスペースに広げた。ダリルとTドッグ、グレンとハーシェル、マギーとベスに、キャロルに分かれて寝ることになった。皆が窮屈な思いだったし、寝袋も毛布もないので、テントの床に直接寝転ぶ羽目になったが、文句は一言も出なかった。
配給の缶詰の豆を一口ずつ分けて食べた。しょっぱいばかりで、酷い味だった。その後、ベスがり以子のリュックを開けて、物資を確認した。
懐中電灯とペンライトが一つずつ、乾電池各種、ビニール袋、タオルが何枚かあった。他にも電子辞書、空の水筒と弁当箱、小さなブザー、箱ティッシュに、油の入った瓶、CDCで着ていたバカみたいなパジャマ……圧縮されたビニール袋から制服や下着の替えが出てきた時は、ダリルは見ては悪い気がして顔を背けた。
「タオルが人数分はあるわね。枕代わりに使いましょ」
キャロルが皆に一枚ずつ配りながら言った。
「あー……ティッシュと瓶は戻しておいて」グレンがベスに言った。「剣の手入れに使うらしい」
「分かった」
再びリュックを覗き込んだベスは、底に何かを見つけて少しの間動きを止めた。大きなブルーの瞳が、その何かに心奪われたかのように釘付けにされている。
「ねえ、これ……」
恐る恐る、壊れ物を扱うように取り出したのは、小さな紙で作られた純白の鳥の群れだった。上から乱雑に物を詰め込まれたせいで、ところどころ形が崩れたり、破れかかったりしているが、ほとんどが整然と並べられ、糸でいくつかの行列に繋がり、大きなまとまりを作り上げている。たかが紙とは分かっていても、これだけ揃うと何故か圧倒的な存在感があり、神妙な雰囲気を放っていた。
「千羽鶴だね」
ダリルのすぐ背後で声がして、何人かが反射的に銃に手をかけた。カーティスはダリルにクロスボウを向けられ、困ったように苦笑いした。
「悪い。話を立ち聞きしてたわけじゃないよ。たまたま通りかかって、それが見えたから」
「通じるとでも?」
ダリルが挑むように言った。カーティスは参ったと言うように、両の手の平を広げて見せた。
「信用しがたいのは分かる。俺もそうだ。君たちのことは信用してない。昔の仲間一人助けるために、自分のグループを危険に曝してる自覚だってある。君たちも似たようなもんだろ?──お互い傷つきたくないなら、お互い大人しくしてようじゃないか。それが賢明だって、分かるだろ?」
ダリルは鋭い眼光のまま、横目にハーシェルの指示を仰いだ。ハーシェルはダリルにだけ分かるように、小さく一つだけ頷いた。ダリルはようやくクロスボウを下ろし、しかし腹の虫の収め方が分からず、フンと荒っぽく鼻を鳴らした。
「……千羽鶴って?」
警戒が解けたのを見計らって、ベスが訊き返した。
「前のキャンプで、蓮水──り以子の友達が作ってた。イーターに噛まれて発熱した子供のためにね。平和とか……長寿のシンボルだって。誰かのお見舞いに作ったんじゃないのか?」
「これ、私が初めて会った日にあげたメモ用紙かも」
ベスは折り鶴を手にとってしげしげと観察していたが、突然何かに思い至ってキャロルを見た。
「──ソフィアのためだった」
キャロルは時が止まったようだった。
「俺たちが捜索に行かせなかったから、その間にやってたのかもな」Tドッグが言った。
「暇な奴だ」
ダリルは呆れたが、キャロルはベスから千羽鶴を受け取り、思い悩むように顔を曇らせた。励ます相手を失い、手持ち無沙汰に列を作ってぶら下がっている折り鶴が、なんだか虚しく見えた。
リックは耳鳴りのするような沈黙の中に座り込んでいた。硬い丸椅子の感触が妙に現実的だった。世界は厚手のカーテンに仕切られ、ベッドと切れた蛍光灯、それに粗末なサイドテーブルしかない。存在しているのは、自分と、まだ眠ったままのり以子の二人きりだ。
「り以子」
試しに名前を呼んでみたが、り以子は昏々と眠り続けた。頭に包帯が巻かれている以外は何の変わりもなく、穏やかな寝顔だ。今にも瞼を上げ、濃褐色の瞳にリックを映すんじゃないかと思われた。彼女と二人だけと思うと、次から次へと感情が溢れ、リックはどうしたらいいか混乱した。無造作に置かれた痩せた手を取りたいが、彼女に触れる権利が自分にはないように思えたし、何か言葉をかけてやりたくても、何と言えば正解なのか分からなかった。
頭の中で出血するなんて、一体どれほどの力で殴られたんだろう。シェーンのあの太い腕で、それも鉄の塊なんかを叩きつけられて、さぞ痛かっただろう。だから、危険なことはするなとあれほど言い聞かせていたのに。
「どうして一人で追ったんだ。どうして誰か大人を呼ぶとか……」
リックはそこまで言いかけて、これは違うと思った。
「そうじゃない……俺は……」
リックは深く項垂れた。壁掛け時計の針の音がどこからか響いている。この世界にまだ時計があったのかと、どうでもいい考えがぼんやりとリックの頭の中を通り過ぎた。
「君に合わせる顔がない」
その言葉がすとんと腑に落ちた。
「俺は……俺は『約束』を破った。いや、違う。最初から果たせぬ約束だった。その場しのぎに、都合のいい無責任なことを言った……それなのに、問題から目を逸らしたくて、君から逃げた。俺は臆病で、身勝手で……今も、君がこれを聞いてるんじゃないかと期待してる。君に全部打ち明けて楽になりたいと、君に許してほしいと……」
り以子は微動だにしなかった。惨めで、虚しくて、リックは呼吸がわなわなと震えていた。
「君に謝りたい」リックは祈るように囁いた。「ちゃんと、君に分かるように。俺にチャンスを与えてほしい。俺のわがままばかりだが、どうか──」
いつの間にかこれまでの躊躇いが全部どうでもよくなって、リックはすがりつくように、り以子の小さな手を取って握りしめた。
「──どうか、目を覚ましてくれ」
リックは鼻を啜ったことで、自分が涙ぐんでいたことに初めて気がついた。
「償いをさせてくれ……」
リックはり以子の手を自分の額に運び、願いを込めて握った。ほんの微かでもいいから、その指先がリックの手を握り返してくれることを期待していた。しかし、夜が更け、そこからさらに日の出を迎え、山際から溢れ出した黄金の朝日が世界を明るく照らしても、り以子から何かが返ってくることはついぞなかった。
男たちが走っている。何人もの青年だ。一人は銃弾をばら撒き、一人はナイフを振りかざし、一人は深手を負い、流血する脚を引きずって、また一人が彼に肩を貸している。彼らは、彼らが『イーター』と呼ぶ死者の軍団に追われ、そして今、ついに捕らわれようとしていた。
先頭の男が立ち止まり、自分たちを取り囲む分厚い人垣をグルッと見回した。彼の後ろには食料を詰め込んだリュックがある。そして彼らには、それらをキャンプへ持ち帰らなければならないという使命があった。男は覚悟に目を瞑り、ショットガンから拳銃に持ち替えた。再び目を開くと、彼は、仲間たちに左手を掲げて見せ、何かの合図を送った。誰かが泣き叫んだ。酷く傷ついた脚を掻きむしりながら、喉を嗄らして絶叫した。しかし、男たちは冷え切った目を怪我人に向けると、彼の身柄を両側から掴み、まるで粗大ゴミを投げ捨てるように、死者の群れの中に放り込んだ。
死者が一斉に詰めかけた。叫び、手を伸ばし、もがく怪我人を目指して、赤黒い涎を滴らせながら殺到した。男たちはそのうちに逃げ出した。誰かが祈るように呟いている。
「これがルールだ」