In the Beautiful World

美しき世界

 学年主任の話は長い。下手したら、多分、朝礼の校長先生より長いかもしれない。いいことを言っている風の得意顔だが、長いばかりで要領を得ないので、どうしても聞く気になれない。先生の声を聞くと、時計の針を連想する。スピーチ中、いつも「早く終われ」と時計に向かって念じながら過ごすからにちがいなかった。

 楽しい思い出とちょっぴり切ないホームシックを抱えて、り以子たちは今、先生の話を聞き流していた。ピンクゴールドの腕時計が針をゆっくり進めるのを眺めながらだ。蓮水は前髪の枝毛を裂いている。さっきあーちゃんが隠し持っていたスマホで動画を見ていたら、担任に没収されたのをり以子は見た。無駄な抵抗はするべきじゃない。こういう時は、流れに身を任せてフワフワしていればいい。フワフワと、淡々と。どうせちょっと我慢すれば、そのうち解放されるのだから。

 腕時計からふっと目を上げたり以子は、前髪をいじり飽きた蓮水が、ボリボリと頬を掻いているのを見て、ちょっと眉根を寄せた。あんまり強い力で掻くせいで、白い頬にミミズ腫れが走っている。やめさせた方がいいと思ったが、り以子が口を出す前に、世界がワッと動き始めた。先生の長話が終わり、床にしゃがんでいた同級生が一斉に立ち上がったのだ。

「足痺れたー……」
「てか気づいたら寝てたんですけど」
「真由音、涎垂らしてた」
「えっ、見てたの?」
「うわあ、きったねー」
「汚くないから!セーフだから!どっか垂らす前に拭いたし!」

 最後に買った土産物の袋を腕にぶら下げ、空港のロビーを集団で歩いた。搭乗口までの限られた道のりを、友達と騒ぎ、笑い、はしゃぎながら、心の中でカウントダウンする。

 残り100ヤード、95ヤード……80……。

「あーちゃんスマホ取り上げられてたね」
「日本着くまで没収とか言われたんですけどー!なくなーい?」
「えーっ。音楽とか聴けないじゃん」
「哀れー」

 50ヤード……20ヤード……。

 あれ?──り以子はチケットを用意したところで、はたと立ち止まった──20ヤードって、何メートルだっけ?

 蓮水が肩をぶつけてり以子を追い越して行った。通り過ぎたところの床に、赤黒いドロッとした何かが点々と滴っている。これ、何だっけ?首を傾げているり以子に、先に行ったあーちゃんが大声を出して呼びかけた。

「り以子ー、早く。置いてくよー」
「あっ、うん」

 り以子は慌てて駆け出した。その時、何かがグイッとり以子の左手を掴んだ。硬くて、骨ばった指の感触が、り以子の肌に突き刺さるほどに食い込んだ。痛くてとても嫌な感じがした。り以子は咄嗟にそれを振り払い、逃げるように搭乗口に飛び込んだ。

「どうしたの?」

 蓮水がり以子を振り返って訊いた。無表情だった。頬のミミズ腫れは消えている。

「何でもない」

 平静を取り繕って笑ってみせると、り以子はさりげなく左手を確認した。泥と煤がべったりこびりつき、爪の間に汚れが挟まっている。り以子は顔をしかめ、スカートでゴシゴシ手を拭った。そうすれば、元通り。石鹸で洗ったかのように清潔になった手を見て、ホッと息をついた。

「そんなの、持ち帰れないもんね」

 蓮水がり以子の隣に並び出た。り以子は小さく笑った。

「うん。皆ドン引きしちゃうよ」
「だけど、それも持って帰れないよ」
「え?」

 り以子はきょとんとした。蓮水は一人でどんどん先へ行ってしまう。何のことだろうと思って自分の体を見下ろすと、いつの間にか腰に刀が二振差してあった。

「ほんとだ」り以子は首を傾げた。「さっきまでなかったのに」

 り以子は刀を外し、どこかいい置き場所はないかときょろきょろした。すぐそこに都合良くゴミバケツが置かれている。そこでいいかと、り以子は溜め息まじりに頷いて、刀をバケツに投げ捨てた。ゴトンと重たい音がした。

***

 結局、ダリルは一睡もしなかった。どうしても駐車場の武装集団がきな臭く感じられ、寝首を掻かれたら堪ったもんじゃないと思うと、おちおち夢なんて見ていられなかった。クロスボウを背負い、仲間のテントの周辺を巡回しながら、長い夜が明けるのを待った。

 起きていたのはダリルだけではなかった。キャロルもまた、テントの入り口を開け放ち、ちょこんと三角に座って白い千羽鶴を眺めていた。ダリルは初め、あまり気にせずにキャロルの前を行ったり来たりしていたが、さすがに何十分かしても微動だにしない彼女が徐々に気にかかり、一時間目を超えたところで、とうとう「おい」と呼びかけた。

「見て楽しいか?」

 キャロルはたった今初めて手元の千羽鶴に気づいたというような顔をした。

「……いいえ、違うの。少し……考えてて」

 キャロルは千羽鶴をテントの中の適当なところに置き、しゃがんだままテントから出て来た。

「寝ろよ。疲れてんだろ」
「あなたがそうするならね」
「……誰かが見張ってないと」

 ダリルが声を潜めて言うと、キャロルは周囲を見渡して、不思議そうに眉をしかめた。

「あなたがやらなくても、警備の人は大勢いるわ」
「信用できねえ」

 ダリルは即答した。キャロルは困ったように笑った。

「明日からは夜番のシフトを組まないとね」

 てっきり呆れ顔を向けられると思っていたダリルは、少し拍子抜けして、しばらく黙りこくってしまった。キャロルはまだテントの入り口に座っている。ダリルは大きな犬が唸ったような溜め息をつき、その辺にクロスボウを置いて、キャロルと並ぶようにしてテントの近くに座り込んだ。

「見張りは?」
 キャロルが訊いた。ダリルは適当に言った。「大勢いる」

 キャロルが微かに笑った。

 昨日よりも冷たくなった空気が二人の肌を刺した。しかし、何となくテントに戻ろうという気にはならなかった。気まずいような、気楽なような、妙な居心地の静寂だった。

「り以子が回復したら、すぐにここを発つのかしら」

 キャロルが呟くように言った。その横顔は不安げに見えた。

「ここには物資も弾もある。食料はちょっと心許ないけど、医療設備だってある。ローリのことを考えると、これ以上ない環境だわ。安全だし、カーティスはいい人よ。どうにかここにいられない?」
「さあな。リックがどう考えてるか」

 さっきまでの憔悴ぶりからして、冷静に状況を分析し、今後の計画を立てるということは果てしなく難しいことのような気がした。少なくとも、リックはこの場所を気に入らないだろうなとダリルは確信していた。ランダルたちのグループのことがあったし、仲間内から裏切り者も出た直後だ。他人に、それもこんなに多くの人々に、心を開くなんて無理だ。

 そもそも、カーティスは本当に信頼できるのか?り以子と同じグループにいたというのが事実だったとして、何故ここまで気にかける?話が上手すぎる。どこかに罠が隠されているんじゃないのか?

「ねえ、見て」

 キャロルが何かに気づき、ある一点を指差した。ダリルたちがここに来た時に通った道路に、人工的な白い小さな明かりがいくつか浮かび、小刻みに揺れながら近づいてくるのが見えた。二人は立ち上がり、目を凝らして光の正体を見破ろうとした。

「誰か来るぞ!」

 門番の男が叫び、拒馬のバリケードの内側に待機していた男たちが一斉にショットガンやライフルを構えた。ダリルも急いでクロスボウを手に取った。

「何?何事だ?」

 グレンが転がるようにテントを飛び出して来た。他の人々も続々と顔を出している。

「知るかよ」ダリルは面倒臭そうにあしらった。「楽しそうだ」

「──マックスだ!門を開けろ!」

 男たちがいそいそと動き出し、バリケードが開いて僅かな隙間が作り出された。人が一人やっとこ通れる程度の幅だ。丸々と太った巨大なリュックを背負った男たちが、息急き切って、病院の敷地になだれ込んだ。その遥か後ろを、黒い影の塊がぞろぞろ列を成して辿って来ているのが見える。

「イーターだ!」
「あのクソったれども、追いかけて来やがった」

 急いで閉まったバリケードの内側にズラリと銃兵が並び、迫り来るウォーカーの集団に容赦なく銃弾を浴びせた。マズルフラッシュがそこら中に閃き、瞬間的に暗闇が照らされて、けたたましい銃声の群れが鳴り響いた。

 しばらくして、がなり立てるような銃声がようやく鳴り止むと、立ち上る硝煙の向こうに、折り重なって山になっている大量の死体が見えた。

 ダリルとTドッグは無言のうちに目を見交わした。ここには羨むほど銃弾がある。医療設備も整い、車も、人手も、キャロルの言う通り充分だ。しかし、ダリルには彼らにあやかりたいという気持ちが湧いてくるどころか、脅威に思えて仕方なかった。あの何十という銃口が、何かの拍子に自分たちに向けられたとしたら……ダリルたちには自衛するための弾すらないのだ。

 長居は無用だ。ダリルの勘がしきりに警告していた。