In the Beautiful World

美しき世界

 朝日が昇れば、り以子は目覚め、全てが元通りになるような気がしていた。だが、それはダリルの都合のいい幻想にすぎなかった。朝が来ても、り以子は目を開かない。仲間は疲れ切った顔で、手元には相変わらず食料も武器もなかった。

 リックは一晩中、一睡もせずにり以子に付き添っていたらしく、ウォーカー並の酷い顔色で、目の下には隈が出来ていた。フラフラと足元も覚束ない。見かねたダリルは「待合室で昼寝でもしてろ」と進言した。進言というのは、ダリルの場合、悪態と一緒に病室から追い出すことだ。階下へ消えるリックを見送って病室に戻ると、知らない老婆と目が合った。たった今気づいたことだが、り以子の病室は個室じゃなかった。他にも何台かベッドが置かれ、煤けたカーテンや、どこかから持ち込まれた衝立で細かく仕切ってある。仕切りごとに『A』『B』『C』のいずれかが書かれた紙が貼られていて、り以子のベッドは『C』だった。

 ダリルは自分を物珍しそうに凝視している老婆の視線を振り切って、り以子の眠るカーテンの奥へ向かった。り以子は寝心地の悪そうな枕に頭を乗せ、天井に穏やかな寝息を吐いている。

 錆びついた丸椅子の脚に靴をかけて近くに引きずり寄せ、ダリルはそこに腰を下ろした。り以子から預かっている刀の長い方が邪魔で、彼女がしょっちゅう刀を着けたり外したりしていたわけを体感した。ダリルはベルトから鞘ごと引っこ抜いて、クロスボウと一緒に壁に立てかけた。物音がガチャガチャ鳴ってやかましかったが、それでもり以子が来訪者に気づくことはない。

 自分の手の届く範囲にいれば、助けてやれると思っていたのに。結局自分には何も出来なかった。カーティスたちと偶然出会わなかったら、本当に頭を撃ち抜く羽目になるところだった。考えただけでもゾッとする。命からがらウォーカーの大群から逃げ果せても、次の瞬間には生きた人間に命を脅かされるなんて。弱い者から死んでいく──デールが恐れていた醜悪な世界が、ぽっかりと大口を開いて自分たちを待ち構えている。どこも安全じゃない。こんなところで、のんびり眠ってる場合じゃないというのに。

「なあ」

 届かないと分かっていても、ダリルはなぜか無性にそうしたくて、り以子に話しかけていた。

「さっさと目を覚ませ」

 痩せ細った手を取って握り、ダリルは自分の口元に運んで、唇を押し当てた。泥と血の臭いがする。改めてよく見てみると、惨劇の名残が色濃くこびりついたままになっている。ダリルは喉の奥がモヤモヤして、いてもたってもいられなくなった。武器を取って椅子から立ち上がると、大股で病室を突っ切り、再び寄って来た老婆を押しのけて廊下に出た。

***

 配給の朝食は、昨晩と同じ缶詰の豆料理だけだった。小さな缶を全員に行き渡るように分け、ちっとも満たされない腹をさすりながら、皆で名残惜しそうに空き缶の底を見つめた。

「食料と燃料の調達は自分たちでしなくちゃ」

 マギーが溜め息まじりにぼやいた。しかし、ローリは浮かない顔をした。

「リックは『別行動を許さない』と──り以子が意識を取り戻すまでここに留まるはずよ」
「だからって彼の言う通りにしてたら飢え死にする」
「カーティスとタッカーが物資調達に出るって。彼らについて行かないか?」

 グレンが声を落として言った。リックは弾切れのショットガンを持ち、病院の周辺をうろうろしていて、こちらの会話には大して興味がなさそうだった。

「車も山道に置いて来ちまったから、どこかで新しいのを見つけないと。俺たちの手持ちは車一台の他に、バイクと馬一頭だ」
「ここで何かあったら立ち往生ね」

 マギーの言葉で、ローリは板挟みの状況に追い込まれ、鬱々とした表情になった。

「あなたたちの姿が見えなくなれば、夫は気づくわ。黙ってこそこそ抜け出すのは不可能よ」
「あまり遠くへ行かずに、周辺の捜索だけにしろ」ハーシェルがアドバイスした。「朝のうちに出発し、昼頃には帰って来い。リックにもそう言って出かけるんだ。全く誰も別行動しないなんて無理だと、彼も承知してるだろう」

 マギーはまだ納得しない顔でいたが、渋々「分かった」と頷いて引き下がった。

 仲間のものとは違う足音が近づいて来て、皆は少し身構えた。カーティスがライフルのショルダーベルトを肩にかけて、物々しい雰囲気を放ちながら、グレンたちの野営地へやって来た。昨日よりも機嫌が悪そうに見えた。

「やあ」グレンがとりあえず挨拶をした。
「どうも」

 カーティスは短く答え、地面に転がっている配給の空き缶を一瞥した。

「それ一つじゃ足りなかったろう。子供もいるのに」
「恵んでもらっている身で文句は言えん」

 ハーシェルが落ち着いて言った。

「見て分かる通り、俺たちも食糧難でね。君たちが嫌いで辛く当たってるわけじゃない。ここで暮らすなら、それなりに貢献してもらわないといけない」
「外に出られるなら、私たちの分は私たちでどうにかするわ」

 強気なマギーの態度に、カーティスはいたく感心したようだった。

「そりゃありがたい──と言いたいところだけど、外で俺たちの認知しない人間と接触されると不安だ。俺かタッカーかイーサン、どれか暇なやつを捕まえて一緒に行動してくれ」

 マギーは露骨に「嫌よ」という顔をしたが、グレンが仕方なさそうに頷くと、条件を飲み込まざるを得なくなった。

「ちなみに、もしも今日出るなら、タッカーかイーサンに頼んでくれ。俺は三日連続で調達だったんだ。今日は休む」

 カーティスはおどけたように肩をすくめ、目が合ったベスが微かに愛想笑いをした。

***

 病室に戻ったダリルの腕には、ぬるま湯で満たされた洗面器が抱えられていた。昨晩、枕代わりに使ったタオルが浸っている。ダリルは丸椅子に洗面器を置くと、ベッドの端に腰掛けた。

 ぬるま湯をたっぷり吸い込んだタオルを丸めて握って絞り、適当な大きさに折り畳んでから、そっとり以子の頬に当てがった。強くこすらないように気を遣いながら、優しく滑らせるようにして肌の汚れを拭い取っていく。タオルが通ったところから透き通るような肌が覘き、ダリルは久々にり以子の肌の白さを思い出した。

 アンドレアの誤射で気絶した日、ダリルはり以子にこうしてもらった時のことをよく覚えていた。この世の悲惨さを忘れるくらい気分が安らいだ。あれほど何かを心地いいと感じたことはなかっただろう。り以子はどうだろう。ダリルと同じように感じているだろうか?──しかし、り以子はダリルが病室を訪れた時と何ら変わりない表情で横たわっている。虚しくなって手が止まり、そこでタオルが汚れて冷めきっていることに気がついた。畳み変えて清潔な面を表にし、洗面器に浸して温め直した。伸びた黒髪をそっと指で払いのけ、首元にタオルを這わせる。そうしながらまた様子が気になって寝顔を窺うと、汚れが落ちて綺麗になったり以子の表情が──ダリルがそう思いたかっただけかもしれないが──、さっきより安らかになったように見えた。

 更にタオルを畳み変えて、湯を含ませ、手や腕を拭いてやっていると、ベッドを挟んで正面のカーテンが無遠慮にシャッと開いた。ダリルはベッドに乗り上げた片脚の上にり以子の腕を乗せていたが、ぎょっとして目を丸くするベスの顔を見て、たちまち羞恥の波に見舞われた。

「ごめんなさい」ベスが強張った表情でとりあえず謝った。「ここにいるとは思わなくて……その、あなたが」
「別に。暇だったし、他にすることがなかっただけだ」

 ダリルは洗面器にタオルを投げ入れて立ち上がり、飛び散った水をそのままに、洗面器を抱えて去ろうとした。

「あっ、待って!いいのよ!」

 ベスが慌てて何かを持った両手を突き出し、ダリルを引き止めた。

「これを持って来ただけなの」
「……何だ」

 ベスはピンク色の馬鹿みたいなパジャマを広げて見せた。ダリルは力一杯鼻で笑ってやった。

「学校の制服よりは楽だろうと思って……でも、意識が戻ってないなら意味ないね」
「そのうち戻る」

 ダリルの言葉には何の根拠も信憑性もなかったはずだが、ベスはやけにホッとしたようだった。

「そうね。あなたがそう信じてるなら、きっと」

 どうしてベスがそんな風に言うのか、彼女の訳知り顔にどんな意味があるのか、ダリルにはちっとも理解が及ばず、黙ってそこに突っ立っていた。そのせいで、ちょっと気まずい空気になり、今度はベスが病室を立ち去りたがった。

「あー……私、手伝いがあるからすぐ戻らなくちゃ。あなたはまだいてあげて」

 ベスは洗面器に向かって腕を伸ばし、催促するようにヒラヒラと指を動かした。「片付けるわ」

 ダリルは訝るようにしかめた顔でベスを見た後、その目を洗面器の中に落とした。とっくに冷めてしまった水の中を、タオルから滲み出た赤茶色の煙が渦巻くように蠢いている。ダリルが洗面器を突き出すと、ベスは両手でそれを受け取り、ぎこちなく微笑んだ。

「それじゃ」

 ダリルが小さく顎を動かして返すと、ベスは金色のポニーテールをゆらゆらさせながらカーテンの外へ消えた。

 り以子はまだ天井を向いたまま目を閉じている。

「……友達が見舞いに来てたぞ」

 ダリルはベッドの端に座り直し、寂しく言葉をかけた。ベスが置いていったフワフワのパジャマをつまんでぶら下げ、深刻そうなり以子の寝顔と見比べて、やっぱり笑った。