In the Beautiful World

美しき世界

 目が覚めると、お茶目な笑顔を浮かべたテディベアがり以子の顔を覗き込んでいた。目覚まし時計が鳴っている。り以子は重たい体を起こし、ベッドから身を乗り出して時計を手に取った。六時五十分と表示されている。いつもの時間だ。スイッチを切って時計を戻すと、り以子はきょろきょろと部屋を見回した。白いお洒落なフレームのベッド、好きな色のシーツ、勉強机の天板には、クマのキャラクターイラストが楽しげに踊っている。百均で買ったウォールステッカーが、ストライプのカーテンの隙間から差し込む陽光でキラキラ輝いて見える。

 り以子は掛け布団を剥ぎ、マットレスの上をお尻で移動して、両足を床につけた。そこで、部屋の真ん中に巨大なスーツケースが置きっ放しになっていることに気がついた。蓋が開き、中途半端に中身が飛び出している。寝る前に、携帯電話の充電器と、洗濯物の入った袋を取り出したせいだ。

 そうだ。帰って来たんだ。

 とっても長い修学旅行だった気がする。胸の奥が切なくなるくらい、自分の部屋が懐かしかった。壁に貼った男性アイドルグループのポスターも、自分でデコった時間割表も、本棚いっぱいに集めた少女漫画、付き合いで飾っている、親戚にもらったどこかのお土産……。

 り以子は急いでベッドを下り、窓に駆け寄ってカーテンを開け放った。狭い道路を挟んですぐお向かいさんの家が見える。LED灯と一緒になっている不恰好な電柱、青空の景観を台無しにするごちゃごちゃした電線、右ハンドルの軽自動車が通り過ぎ、吠え癖の抜けない豆柴が朝から飼い主を連れて運動会をしている。

「り以子ー!もうそろそろ起きなさーい」

 部屋の外から聞こえた声に、り以子は背筋を伸ばして振り返った。

「り以子ー?今日も学校でしょう。遅刻するわよー」
「……もう起きてる!」

 いつものようにそう返しながら、り以子は感激していた。お母さんだ。海の向こうから切望していた存在だ。やかましい声も、聞き飽きたお節介も、何もかもが胸を熱くした。

 ドアを開けば、廊下に漂う出汁のいい香りと出くわした。お味噌汁の匂いもする。胃袋が急激にしぼみ、急かすようにぎゅうっと音を鳴らした。白く輝く壁紙を指で辿りながら階段を下りて、そっとキッチンを覗くと、鍋をかき混ぜていた母親がこっちを見て、おかしそうに笑った。

「あんた、なんて顔してるの?」
「お母……お母さんだ……」
「そりゃそうよ。そうじゃなかったことある?」

 だけど、百年ぶりに会ったような気がしたのだ。もう二度と会えないと錯覚するほど、旅先は心細かった。いつもはうざったいとさえ感じる母親のことが、もっとお洒落だったらいいのにと思っていた我が家が、食べ飽きたちょっと不格好な手料理が……全部が恋しくてたまらなかった。

「はい。出来上がり」

 カウンターに黄金の卵焼きが乗せられた。その隣に、もうほとんど出来上がっている弁当が、口を開けて、温めたばかりの冷凍食品を冷ましている。

「早く着替えて顔洗って来なさい」
「はーい……」り以子は気のない返事をした。「んー、おいしそう。和食最高……」

 ほくほくの朝食にかじりついていると、母親がり以子の寝癖をつまんで呆れた顔をした。

「あっちに行ってる間に随分伸びたわね」
「今週美容院行く」
「あっ。そうだ、あんた。制服のブラウス、あんたどうしちゃったの、あれ。なんか擦り切れてボロボロだし、血みたいな染みがついてて、漂白しても取れないじゃない」
「うーん、色々あったから……」
「色々って?」

 り以子はお皿から顔を上げ、眉根を寄せて首をひねった。

「なんだっけ?」
「なんだっけじゃないわよ、もー。今日お金あげるから、購買で新しいの買って帰んなさい」
「はーい」
「身支度!」

 り以子はもう一度「はーい」を繰り返して、そろそろとキッチンを抜け出した。洗面所に向かう途中で、何かを思い出した母親が「あっ」と声を上げたのが聞こえた。

「り以子!さっき蓮水ちゃんのお母さんが電話してきてさ、あんたあの子のこと見殺──」

***

 マギーは仏頂面でタッカーの背中を追った。時折行く手を妨げるように突き出している小枝を払いのけ、落ち葉と湿った土でぶかぶかする地面を、大股でズカズカ突き進んだ。すぐ真後ろにはグレンがついているが、更にその後ろにはイーサンとかいうカーティスの仲間が、ライフルを持ち、囚人を監視するかのように二人を睨みつけて歩いている。周辺をほんの少し歩いて見て回りたいだけなのに、連中はまるで二人が悪の秘密結社とでも繋がっていて、密告しに行くんじゃないかという警戒ぶりだった。二人には銃も持たせてもらえないのだ。

 その上、歩き始めて三、四十分が経っても、景色はちっとも代わり映えせず、生き物の気配もまるでなかった。ウォーカーすら現れない。それだけ安全が保障されているのかもしれないが、問題は、鹿やリスさえいないことだ。食料になりそうなものは全て取り尽くしてしまったのか、どうにも食べられそうにない毒々しい色をした茸が点在しているだけだ。

「どうりで豆缶ばっかり突っついてるわけね」

 鮮やかなオレンジ色をした茸が群がる幹を蹴りつけて、マギーはぼやいた。

「ちょっと前まではこの近所だけで足りてたんだ。だがおかしなことに、徐々に人が増えてね。昨日なんか一気に十人以上だ」

 タッカーのネチネチした嫌味に、マギーはフンと不満げに鼻を鳴らした。

「ねえ、この辺りじゃ何も狩れない。野営地が近すぎて、音や炎で動物が遠ざかってる。もっと遠くまで行かないと」
「マギー」グレンが口を挟んだ。「今日はダメだ。周辺を偵察してすぐに帰るって約束した」
「周辺」マギーが繰り返した。「どこまでが『周辺』かは、外にいる私たちが決める」
「マギー……」

 グレンは勘弁してくれと言わんばかりの青白い顔をしていた。

「まあ、ここに長く留まるつもりなら……遅かれ早かれ、遠出はすべきだな」

 タッカーがライフルの先で藪をかき分けながら言った。

「お前たちは『C』だ。頭を打った女子高生のせいで」
「『C』?」

 マギーは目を細めて訊き返した。

「最底辺ってことさ。一番借金が多い。グループに最も迷惑をかけ、最も貢献してない。飯は十人で豆缶一つ。テントはあるが布団はなし。何かあっても保障もなし──普通は『B』から始まるんだけどな。医療費分差し引いたから」
「……借金まみれのまま出て行くと言ったら?」
「仲間の命を救ってやって、貴重な缶詰も恵んでやったのに、礼もせずにずらかるってことか?」
「償いをさせる?」
「まさか。咎めはしないさ。その辺りは、モラルの問題だな」

 タッカーはおどけたように肩をすくめた。マギーは振り向いてグレンと顔を見合わせた。お互いがそっくりの気難しい表情をしていた。

「その前に、あんたらが飢え死にするだろうけど」

 否定は出来なかった。既に空腹は誤魔化しが効かないところまで深刻化し、実を言うと、二人して歩くのもやっとという状態だった。車も探さなくてはいけないが、とてもそれどころではない。もし今ウォーカーに出くわしても、脳天にナイフを突き立てる体力があるかどうか自信はなかった。前後にライフルを持つタッカーとイーサンがいなければ、ウォーカーの格好の餌食だっただろう。

「……何か見つけて帰らなきゃ」

 マギーは怠い体に鞭打って、大きく前に踏み出した。自分たちの肩に皆の命が懸かっている。その重みは二人ともがしっかり理解していた。

 しかしながら、結局、収穫はほとんどゼロに等しかった。食べられるのかよく分からない木の実が手の平に乗る程度と、痩せ細った小さなリスが一匹。そして、配給の豆の缶詰が一つ。これを十人で分けて食べなければならなかった。ひもじくて誰もが泣きたい思いだったが、そんなエネルギーすら勿体無く感じて、全員黙りこくって自分の取り分を突っついた。

「昨日よりはましよ」

 ローリは一口大のリスの肉を口に放り込んで言った。あまり皆の慰めにはなっていなかった。

「明日は俺も狩りに出る」

 ダリルはイライラと全身を前後に揺さぶっていた。

「暇で死ぬ」
「いや、ダリルは引き続きり以子の傍にいてくれ。ここはあまり信用できない」

 リックが諌めた。リックはこの数ヶ月で、ダリルの手綱を引き締めるのがかなり上達した。ダリルはいささか不服そうだったが、不承不承頷いた。

「あまり調達に人員を割きたくない。いずれにせよ、り以子が目覚めるまで動けない。一日一つずつ揃えていくんだ」
「目下の目標は食料ね」

 キャロルは空っぽになった缶を手に取り、切ない目つきで栄養表を眺めていた。

「一週間この生活が続いたら動けなくなるわ」
「先に車だ」Tドッグが物申した。「車さえあればり以子を連れて出て行ける」
「ダメ。車を捜しに行く体力がない」

 グレンは弱り切った表情で小さく首を振った。

「カーティスが言ってたのは賢い。連日は動けない。交代で出かけよう。必ず二人一組でだ」
「分かった──じゃあ、明日は俺とハーシェルで出る」

 リックはダリルが再び立候補するために口を開こうとしたのに気づいていたが、有無を言わせずに自ら名乗り出た。ハーシェルも異論なく了承したので、ダリルの出る幕は一旦取り上げられた。

「暇で死ぬ」

 ダリルが再び言った。キャロルはダリルの膝をぽんと叩いてそのまま手を置き、微笑みを浮かべて顔を覗き込んだ。

「心配ないわよ。そのうち暇じゃなくなるもの」