In the Beautiful World

美しき世界

 それから数日間は空腹との戦いだった。毎日違う二人一組が外に出て、探り探り慎重に行動範囲を広げていきながら、少しでも皆の胃にものを入れようと皆が努力を続けた。リックとハーシェル組はあまり成果がなかった。とても苦くて、口に入れると顔つきがひしゃげるとんでもない味の木の実を数個見つけただけだった。翌日、二人よりさらに遠出したTドッグとベスは、見た目には判断に困る怪しげな茸を山盛り持ち帰った。丸々太った鹿を見つけたが、捕まえる手段がなくてみすみす見逃してしまったという。その次の日、Tドッグの情報をもとに足跡を追ったダリルとキャロルで、とうとう鹿一頭を捕獲した。久々に捕まえた大きな肉に、二人は笑みを浮かべてハイタッチした。

「すごい。全員で分けても少し余りが出る」

 ダリルの手で大胆に捌かれていく生肉を見下ろし、ローリが興奮気味に言った。

「明日に回す?──それとも、ここに寄付する?」
「まさか。俺たちの肉だ。連中にくれてやることない」

 ダリルは即答したが、ローリはちょっと悩んでいるようだった。

「これだけ立派な肉を寄付したら、借金が少しは減るわ」
「だから何だ」
「配給が増えるかも」

 ダリルは顔をしかめてリックを仰いだ。夫が説明すればローリも納得するだろうと思っていたが、期待に反して、リックは揺らいでいた。

「そうすべきなのかもしれない」
「……本気か?」

 リックはあまり自信がなさそうに頷いた。ダリルは勘弁して欲しくて、荒っぽい溜め息をついた。

「俺たちだけで食料を確保出来る。ここの連中に頼る必要なんてない」
「弾がない。車も。今のままじゃ、俺たち自身の力だけでやっていくのは無理だ」

 ダリルは脚をつかんでいる鹿の死骸を見下ろした。ここでの我慢が後々どれほどの利益に変わるのか、ダリルには計算が出来なかった。当然不服だったが、皆の表情を見比べると、ダリル以外の全員が夫妻と同じように仄かな期待を寄せているらしかった。

「……分かったよ」

 ダリルは今日一日で何回溜め息をついたか知れなかった。後ろ髪を引かれる思いでダリルが手放した鹿を、ハーシェルとTドッグが引き継いで捌き始めた。

「り以子が目覚めてないのは残念だ。久々の肉なのに」

 Tドッグが後ろめたそうに呟いた。それでベスが思い出した。

「──そうだ。これ」

 ベスは炭酸飲料の空き瓶を差し出した。質素な野花が一輪生けてある。

「り以子のところに持って行ってあげて」

 ベスの目はまっすぐダリルに向いていた。ダリルはものぐさをして拒もうとしかけたが、隣からひしひしと伝わるキャロルの無言の圧力に押し負け、最終的に折れた。

 ダリルたちが食糧難に喘いでいる間も、り以子は一度も目を覚まさなかった。仲間が代わる代わる見舞いに訪れ、ベスやキャロルが全身を拭いてやったり、ハーシェルが包帯を変えたり、色々な人が甲斐甲斐しく世話を焼いたというのに、いつだって全くの無反応だ。

 「今日こそは」という期待半分、「どうせ今日も」という諦め半分の気持ちで病室に向かったその日は、後者の予感が正解だった。『C』の貼り紙が貼られたカーテンの向こうで、り以子は昏々と沈黙を放っている。二日前にベスの手で着替えさせられたので、今はふわふわパジャマの格好だ。ダリルは頭を掻き回しながら、サイドテーブルに花瓶を叩きつけ、乱暴に丸椅子に腰を下ろした。

 花の贈り主の名前を告げるべきか迷ったが、閉鎖的な寝顔を見てやめた。この状態の病人に話しかけても、独り言を呟いているのと何ら変わりなく、滑稽なことのように思い始めていた。

 あまりにも回復の兆しがなく、本当に手術は成功したのか懐疑的になってくる。手術が終わってから、もう数日経っているのに……。寝返りも打たず、夢に魘されもしない。ただゆっくりと息を吸ったり吐いたりしているだけだ。もし意識が回復しなかったら、この子はどうなるんだろう?徐々に不安が肥え始めた。意識が回復して、特に異常がなければ問題ないだろう──それじゃあ、意識が回復しなかったら?問題があるということはどういうことだ……?

 ぼんやりして次々思案を巡らせていたダリルは、次の瞬間、鼓動が一拍すっ飛んだ。ベッドの向こう側に一対の目玉が浮かび、じっと自分を見つめていた。ダリルはもう少しで危うく椅子から転げ落ちるところだった。

 同室の老婆がカーテンの隙間からダリルを覗いていた。野次馬精神に火がつき、目を爛々と輝かせている。

「あんた、近頃よく来るね。娘さんかい?」

 ダリルはベッドに身を乗り出し、無言でカーテンを閉めた。

***

 改札にカードをタッチして通る。そのカードでペットボトルの緑茶を買い、ちょっとずつ口に含みながら満員電車に揺られたら、同じデザインの制服仲間と同じ駅で降りて、なだれ込むように改札を抜けて通学路を登っていく。全てのことが懐かしかった。ずっと日常からかけ離れたところにいたような気がする。でも、今は確かにここにいる。スマホで流行りのバンドの新曲を聴きながら、部活の先輩に挨拶したり、前を歩く子のシュシュを羨んだりしている。

 そして、荘厳な鍛鉄の門の前に辿り着いた。警備員のおじさんが一人一人に挨拶をしている。り以子は会釈を返して通り過ぎ、立派な塀とフェンスに囲まれた敷地の中に入っていった。広大な砂地の運動場で、運動部が朝練をしている。快活な掛け声が青空によく響いた。

「り以子、おはよう」

 後ろから肩を叩かれ、振り返ると、あーちゃんがげっそりした顔で手を上げていた。蓮水と一緒だ。電車で会ったに違いないとり以子は思った。

「おはよう。顔色ヤバいね」
「スマホ。返してもらうために家で反省文書いてきた。ねえ、二時間しか寝てないんだけど!」
「ウケるね」
「ウケないよ!」

 二人でケラケラ笑っても、珍しく蓮水が乗ってこないので、り以子は怪訝に思って様子を窺った。蓮水は鼻の頭を掻きむしっていた。酷い傷跡が額に刻み込まれている。髪の毛は最後にいつ洗ったのか心配になるほど脂ぎっていて、毛先が傷んで絡まっているのが分かった。

「……どうしたの?」

 恐る恐る訊ねると、蓮水は無表情でり以子を見つめ返した。荒れ放題の髪の毛の合間から、ポトリと何かが落ちた。蛭だった。ウニみたいなオレンジ色で、グネグネ動いている。

「何が?」

 あーちゃんが不思議そうに傾げた。り以子は説明に困って不明瞭な言葉を漏らしながら蓮水を指差したが、あーちゃんは何がおかしいのか分からないようだった。

「何?どうかした?」

 り以子は答えるタイミングを失った。眉をひそめるあーちゃんの肩越しに、もっとおぞましいものを見つけてしまったのだ。フェンスの向こう側に一体の化け物が張りついている。人の腐った死体みたいなものだった。頬が深く抉れ、奥歯が覘いている。網目に指を突っ込んだり、歯でかじりついたりして、校内の生徒たちを物欲しそうに見ていた。

 あーちゃんはり以子の視線を辿って振り向いた。確実にフェンスの化け物を見たはずだ。しかし、それにしては妙に落ち着いていた。反応らしい反応といえば、靴の裏にめり込んだ犬の糞を見るような目で、鬱陶しそうに鼻を鳴らしただけだった。

「きもっ……行こう。感染るよ」
「え、でも──」
「あー、先職員室寄っていい?反省文出してスマホ奪還してくる」

 スタスタ歩き去るあーちゃんと、嗄れ声を上げながらフェンスを捻じ曲げている化け物を、り以子は困惑して見比べた。蓮水もあーちゃんについて行ってしまった。

 り以子はもう一度化け物に目を戻した。酷い有様だったが、何故か目を背けられなかった。頭皮が半分以上剥けて、頭蓋骨が露出している。かろうじて残った髪の毛は、それが何だか分かりたくもない液体にまみれ、ギトギトだった。鼻は切れ味の悪い何かで削ぎ落とされてしまったようで、顔の真ん中に不可解な三角の穴が二つあった。白っぽく濁った目玉がギョロギョロ動きながら、り以子の姿を捉えようとしているが、機能の低下した視神経では、それはかなり難しい仕事のようだった。

 その時り以子は、どうしてそう思ったのか分からないが、化け物の頭を貫いてやらないといけないという使命感に駆られた。そうしないと命が脅かされるという気がしたのだ。り以子は唾を飲み、意を決してフェンスに向かって一歩踏み出した。

 フェンスの傍に鉄パイプが落ちている。網目からあれを差し込めば、噛まれたり引っかかれたりせずに倒せそうだ。あの化け物の爪と歯にやられてはいけないと、り以子は直感的に理解していた。ところが、鉄パイプを拾おうと屈み込んだところで、り以子は金切り声を発して飛び上がった。後ろから誰かに腕を掴まれたせいだ。

 バッと勢いよく振り返ると、蓮水が暗い目でり以子をじっと見つめていた。顔の傷は消えている。絹のような黒髪がサラサラと風に揺れていた。

「何してるの?」
「えーと……」

 り以子は口ごもった。自分がしようとしていたことを打ち明けるのが何故かとても恥ずかしいことのように感じた。

「行こう」

 蓮水の手がぐいっとり以子の腕を引いて歩き出した。あーちゃんが少し先でこっちを向いて待ってくれていた。り以子はフェンスを顧みた。化け物が網目に片腕を突っ込んで、引っかかった皮膚がベロンと剥けるグロテスクな瞬間を目撃してしまった。

「ね、ねえ、待って……」
「ダメ」

 蓮水はピシャリと言った。ずんずん大股で進む親友の横顔が、知らない人のように見えて少し恐ろしかった。

「どうしてそんな急ぐの?時間まだあるよ」

 背後でフェンスがガシャガシャ鳴った。り以子は気になって何度も後ろを振り返り、その度に蓮水はたしなめるように強く手を引いた。

「あっち行っちゃダメだよ」
「なんで?」
「痛くて苦しいことしかないから」

 り以子は蓮水の言いたいことがよく分からなかった。

「そんなの普通じゃん。そういうものだよ」
「違うよ」蓮水が初めてむきになった。「普通ってこういうことだよ」

 り以子は首を傾げた。蓮水が指差す先には、ありふれた日常の風景が広がっている。遅めの通勤で生徒にからかわれる非常勤、スカート丈を注意されている派手な生徒、朝練の片付けをする運動部、偶然通りかかった担任に反省文を渡して深々頭を下げているあーちゃん……。

 一方で、フェンスの向こうは闇に包まれている。さっきの化け物は、結局、ガタイのいい外国人の男性が鋭いナイフで刺し殺した。

「ほら。あんなとこ行っちゃダメ」

 蓮水が言った。それは魅惑的なまじないの呪文のように響き、り以子をクラクラさせた。

「行こう。うちら皆で一緒にいよう……」