翌朝、ダリルたちの朝食はしょっぱい豆の缶詰に逆戻りした。鹿肉の寄付のお陰か、さっそく缶詰の数が十人で一つから十人で二つにランクアップしたが、取り分が一口ほど増えたところで空腹度合いはほとんど変わらなかった。昨晩の鹿肉なんて、とっくに消化してしまっていた。
あっという間の食事を終えて、それぞれが自分の仕事を始めている。駐車場を出てほんの数十メートル歩いた先に沢があり、女性陣はそこで洗濯をする予定になっていた。Tドッグはカールと一緒にキャンプの見張りだ。グレンとマギーはカーティスたちから駐車場の警備を頼まれていた。残るリックとハーシェルは調達の準備に取り掛かった。今日は少し足を伸ばし、食料の他に、武器や車を探す目的もあった。
ダリルは二人の傍で武器を揃えていた。クロスボウと手製の矢を数本、革製のシースに入った刃渡りの長いナイフ、そしてり以子の脇差と打刀だ。尤も、二本の刀は、ダリルにとっては宝の持ち腐れになりかねなかった。長い刀身は、鞘からまともに抜ききることさえ難しい。木々のひしめく森の中では少々不便そうに思えた。
「ダリル」
リックが声をかけてきた。ダリルは二十五インチもある刀の切っ先を、鞘の入り口に突き立てるのに四苦八苦しているところだった。
「……何してる?」
「別に」ダリルはさらりと答えた。「俺も行く」
リックの顔がたちまち渋くなったのを見て、ダリルは続けて言った。
「俺が狩りに出るのが一番効率がいい」
「ダメだ、ここに残れ」
ダリルが抗議しかけたのを、リックは遮った。
「ここで何かあった時、戦えるのがTドッグとグレンだけじゃ、とても対処しきれない」
「なら、あんたが残ったらどうだ」
「俺が残ってもいいが、君は待機させる。連日は外に出さない──誰もだ。体力を温存しないと」
リックはダリルが思っていたより冷静だった。ダリルは全然気乗りしなかったが、リックの決定を覆せるだけの材料もなく、すごすごと引き下がるしかなかった。
「残って、待機だ。いいな?」
念を押されて頷いて見せると、リックは納得した顔で離れていった。その去り際、リックはダリルをもっとげんなりさせることを言いつけた。
「──それと、り以子を見ててくれ」
「勘弁しろ」
ダリルが呻いたが、リックは聞いてもいなかった。「頼んだぞ!」
どんよりした気分で見上げた煉瓦造りの廃病院は、心霊スポットのようにおどろおどろしく、真昼だというのにダリルの目には薄暗く映った。
駐車場裏の沢には数人の女性たちが集まり、それぞれが連れの衣服を洗濯していた。キャロルとベスを伴ったローリも、ビニール袋いっぱいに詰め込んだ洗濯物の塊を一枚ずつ剥がしながら、冷水に浸して素手でこすり洗いをした。
ここに来るまでは衣料用洗剤や洗濯板があったが、それも全部農場に置いて来てしまった。洗濯板があった時は、洗濯機のない不便さに不満を漏らしていたのに、今はまた洗濯板が恋しくなるなんておかしな話だと思った。おまけに水は冷たくて、繊維の一本一本まで染み込んだ汚れを落とすには無理があったが、なんとか着られる程度まで回復させようと、みんな努力していた。
ローリの向かいには、若い女性が足を水中に浸してしゃがみ、背中の赤ん坊を揺さぶってあやしながら、男物のシャツを洗っていた。彼女も素手で水洗いだった。赤ん坊はふわふわした金髪をきらめかせ、はっとするほど深いブルーの瞳を嬉しげに細めている。顔の造作が母親にそっくりだった。小さな柔らかい腕を中空に突き出して、ローリには見えない何かを捕まえたり放したりしている。ローリはその母子に一方的に親近感を抱いていた。
「かわいいわね」
つい距離感を見失い、ローリは女性に向かって話しかけていた。女性はビクッとして瞬時に身構えたが、ローリと目が合うと、気が抜けたように微笑んだ。
「ありがとう」
「旦那さんは調達に?」
ローリは、女性の手の中でしわくちゃになっている、大きなトランクスを見て訊いた。もし彼女が女物ばかり洗っていたら、こんな質問はしなかっただろう。ローリは地雷を踏んでしまった。
「……夫は一ヶ月前、『
女性の沈んだ表情で、ローリは思わず手が止まった。急いで「ごめんなさい」と口にし、自分の軽率な発言を心底悔やんだ。
「いいの。気にしないで。こんなもの洗ってるから、そう思っても無理ないわ」
女性はトランクスを片手で雑に絞り、水辺に置いてあったプラスチックの籠の上に放った。
「実を言うと、カーティスたちのなの」
「……何て?」ローリは耳を疑った。
「ポイント稼ぎよ。私は狩りにも行けないし、銃を持って警備したり、『徘徊者』を倒したりも出来ないから。彼らは男所帯でしょ?身の回りの世話をしてあげる人がいないから……代わりに私が請け負って、長女のおかずと、次女の粉ミルクに変えてる」
女性は遠くでキャッキャッとかわいらしくはしゃぐ五、六歳の女の子を顎で示した。娘は元気そうに水遊びをしているが、女性自身は一目見て健康的じゃないと分かるほどに瘦せ細っている。
「──あなたも『C』?」
ローリは見るのもうんざりの安っぽい缶のラベルを思い浮かべて訊いた。女性は苦笑まじりに首を振った。
「まさか!普通よ、『B』。あなたたち、そうなの?」
ローリは頷いた。
「本当?かなりの借金したのね」
「ええ。首が回らないわ」
冗談めかしてローリが言うと、女性がうっかり吹き出した。
「ごめんなさい……笑うなんて。だけど、言い回しがツボに入っちゃって」
「気にしないわ」
ローリは、さっき自分が女性に対して抱いた好印象を、彼女も抱いたに違いないと感じた。二人の手はどちらからともなく洗濯物から離れ、互いに引き合うように握手を交わした。
「私、ローリ」
「クロエよ」
クロエは手を引く瞬間、手首を強張らせて顔をちょっとしかめた。ローリは見逃さなかった。
「……怪我を?」
クロエは何のことか分からないという風を装ったが、袖に隠れた包帯代わりのハンカチをローリの視線が目敏く捉えると、観念して肩をすくめた。
「大分前にね。でも、ほとんど治りかけよ。多分……」
「治療してもらってないの?」
ローリは信じられない気持ちで、思わず語調を強めていた。
「目と鼻の先に医者がいるのに?利き手の怪我を放置するなんて──命取りだわ」
「借金を増やしたくないのよ!」クロエが必死に言った。「些細な怪我だし……ただでさえ父が持病で入院してるの。こんなことで借りを作ったら、娘たちに食べさせてやれなくなる」
ローリは腑に落ちないという顔で、苛立ちの溜め息をついた。
「ここのグループは変よ。医療物資は豊富なのに怪我人を見て見ぬ振りするなんて……」
「そうじゃない。仕方ないことなの」クロエが言い聞かせた。「医療物資だって無限にあるわけじゃない。いつか底を尽くわ。薬や、包帯、器具もね。輸入も生産も流通もストップしてるのよ。どこかの在庫だけでしのぐしかない。それも何年保つか……」
ローリは黙りこくった。
「皆苦しい状況なのよ。お互い助け合いったり、施しをしたりしたいけど、何も持ってない。どうもしてもらえないし、どうもしてあげられない。ギリギリの状況で奇跡的に死んでないってだけ。何かを守りたいなら、何かを我慢しなきゃ──たとえ耐えられなくてもね」
病室は何もすることがない。ダリルは本当に暇で死にそうだった。手作りの矢を弄びながら、り以子の覚醒をひたすら待っていた。しかし、それは限りなく望みが薄いことだった。もう何日も期待を裏切られ続け、今となってはり以子が目を覚ますところを想像出来なくなっていた。
ほとんど何も考えず、ぼうっと鏃の形を指でなぞっていると、不躾にカーテンがシャッと開いた。
「やあ」
カーティスが朗らかに挨拶をしながら入ってきた。ダリルは何も言わず、り以子に目を戻した。「出てけ」という意味を暗に込めた無視だったが、カーティスは汲んでくれなかった。
「まだ意識は戻らない?」
「戻ったらとっくにここを出てる」
ダリルは掠れた声で冷たく言った。カーティスは困ったように苦笑いしながら、ベッドの足元に浅く腰掛けた。
「実は彼女とはこの先のゴーストタウンで出会ったんだ」
カーティスの思い出話なんかはどうでもよかったが、他にすることもなかったので、黙って聞いてやった。
「同級生と二人でいた。大きなリュック背負って彷徨ってたんだ。俺はたまたま物資調達で野営地の外に出てた。ショットガンをこんな風に持って、男四人で練り歩いてたんだよ」カーティスは物々しくショットガンを構える手真似をした。「そしたら、二人が寄って来た。それで、口々に言うんだ──『すみません、助けて下さい。食べ物を下さい』って」
カーティスは信じられないというように身震いをした。
「俺たちだからよかったものの……あまりにも無防備すぎる。もし最初に出会ったのが俺たちじゃなく荒れくれ者だったら、命はなかったよ。彼女たちは何も分かってなかった。この世には歩く死人と生きた善人しかいないと思ってたんだ」
それは今も大して変わらないとダリルは思った。デールと結託してランダルの命を救おうとしていたところを見れば明らかだ。
「もう一人は蓮水っていう女の子だった。背が高くて、しっかりしてて、英語も達者だった。一方でり以子はおっとりしたおとなしい子で、言葉もほとんど通じないし、正直言うと、ああこりゃ生き残れないと思ったよ。蓮水がいてやったから今まで生き延びてこれたんだ、とね。だけど……実際生き延びたのは彼女の方だった。分からないもんだな」
カーティスは参ったというように首を振った。
「り以子はよく物資調達に同行したんだ。蓮水はしっかりしてたが、どうも運動神経がいい方じゃなかった。り以子が果物ナイフを持って出かける間、蓮水が女性陣と一緒に茸や魚を採って調理するんだ……腹ペコになって帰ると、蓮水が迎えて、ハグし合うのさ……まるで夫婦みたいだって俺たちは笑ってた。り以子はなんで笑われてるのか理解してなくて、傑作なんだが、それなのに皆に合わせて笑うんだよ。それで蓮水に『ちゃんと意味分かってるの?』なんて聞かれて、あっけらかんとした顔で白状するんだ──『分からない』。皆笑って、り以子もまたつられて笑って、夜になってようやく皆が笑ってた理由を知って、また笑うんだ。今度は一人でね」
カーティスが度々口にする名前の少女を、ダリルは知らない。り以子は採石場の野営地に来た時から独りぼっちのかわいそうな少女だった。しかし、最初はそうではなかった。彼女の言葉を理解し、彼女が誰かを知っている人と共にいた。そして、その時のり以子をカーティスは知っている。ダリルは次第にむしゃくしゃしてきた。
「そういえば、こんなこともあった。彼女──」
「興味ない」
ダリルは半笑いのカーティスを遮って立ち上がった。
「……どこへ?」
突然のことに面喰らったカーティスが、戸惑って両腕を広げている。ダリルは目もくれずにクロスボウを背負い、刀をベルトに差した。
「テントに戻る。あんたはここで死んだお友達の思い出話にでも浸ってろ」
「口に気をつけろ!」
カーティスの目がサッとり以子に走った。
「じゃないと、何だ?」ダリルは冷ややかにせせら笑った。「女子高生が傷つくか?泣き喚きながら俺に抗議する?」
「なあ、落ち着けよ……」
「どうせ何も聞こえてない」
ダリルはカーテンを乱暴に開け放ち、嚙みつくように言った。
「うんざりだ!臭い豆一口で我慢させられるのも!くだらねえ回想に付き合わされるのも!何もねえ病室に押し込まれて、死人みたいな少女を一日中眺めさせられるのも……ボケた婆さんの相手をするのもな!」
「そのうち目覚めるさ!」
カーティスは一歩踏み出して宥めかけたが、ダリルはうざったそうに振り払った。
「気休めだ!」
「ダリル」
それは聞き分けの悪い子供をたしなめるのと同じ口調だった。ダリルは余計に腹が立った。
「あんた何様のつもりだ?どこに立って俺たちを見てる?仲間ぶるんじゃねえ、あんたは他人だ!」
「そうだとしても、俺が彼女の友人であることは変わらない」
カーティスが冷静に言った。ダリルはそれをハッと笑い飛ばしてやった。
「なら友達の面倒はお前が見てやれ」
り以子をカーティスと一緒に残してカーテンの外に出ると、いつもの老婆が興味津々の目つきでダリルをじっと見つめていた。何もかもが間抜けに思えて、ダリルは病室を離れる時、わざと入り口の壁を蹴飛ばして出て行った。