Neverland

ネバーランド

 その日の夜はパッとしない曇り空だった。月は分厚い雲の裏にその姿を隠しながら、朧な光をにじませていた。曖昧な月明かりが割れた窓から差し込み、リノリウムの床に鈍く反射している。コツコツとブーツの音を立てながら、クロエは、患者の溢れた不衛生な廊下を縫うように進んだ。腕に抱えた立派な軍用食のパックは、献身的な労働の賜物だ。

 クロエが目指したのは、り以子が眠っている隣の病室だった。他と同じように所狭しとベッドが並び、カーテンとあり合わせの衝立で仕切ってある。『B』の貼り紙がついた衝立の向こう側に、彼女の父親は静かに横たわっていた。

「パパ」

 父親はその呼びかけに反応し、枕の上で僅かに首を転がして娘を見上げた。

「夕食をもらって来たから、持って来たの。胃に優しいものじゃないのが残念だけど……」

 クロエは父親に軍用食を掲げて見せると、脚の長さがちぐはぐな丸椅子を引き寄せて座った。そして、プラスチックの袋を裏返し、食べ方を確認してちょっと顔をしかめた。

「やだ、『水を入れる』ですって。ごめん、うっかりしてた。水をもらいに行かなきゃ」
「クロエ」

 座ったばかりだというのにまた立ち上がりかけた忙しない娘を、父親は微かな声で引き止めた。

「ここにいてくれ」

 父親が続けて言った。それは霞のような弱々しい声だった。クロエは中途半端に浮いていた腰を再び下ろし、軍用食を枕元に置いて、代わりに父親の手を取って握りしめた。返ってくる力は、とても微弱なものだった。クロエは暗い目をして、父親の虚ろな顔を見つめた。クロエのもう一方の手は、ベルトのナイフの柄を掴んでいる。いつでも抜けるように、いつでもこめかみを貫けるように、来たるべき時に備えていた。

 その後ろを、キャロルがすたすたと通り過ぎていく。片腕に洗いたての制服を抱え、クロエら親子の事情には目もくれず、一つ隣の病室へ入っていった。そしてキャロルは、『C』の貼り紙のカーテンに手をかけた──。

***

 り以子が煮物の皿をランチョンマットに置くと、ちょうど同じタイミングで、玄関からガチャッと鍵の音が響いた。キッチンで白米をよそっていた母親が、そこからでは玄関なんて到底見えないのに、振り返って首を伸ばした。

「あ、お父さん帰って来た」
「ただいまー」
「おかえりなさーい」

 り以子はカウンターに乗った茶碗を配りながら返した。

 のしのしと足音がして、ダイニングにひょっこり冴えない顔が覘いた。くたびれた背広は何故か全体が煤けていて、ところどころ手形のような痕がついていた。

「どうしたの?」り以子は眉をひそめて訊ねた。
「別に」父親が言った。「ちょっと捕まりそうになってた」

 突然、窓にバン!という衝撃が走り、り以子はビクッと飛び上がって驚き、盛大に悲鳴を上げた。庭に面した大きな窓に、死体の化け物が貼りついている。最初は一体だけだったが、それから一体、また一体と徐々に数が増えていき、まるで光に誘われてやって来た羽虫みたいだった。

「今日は多いぞ」

 父親は片手でネクタイを緩めながら、じっとりとした溜め息を妻子に聞かせた。両親とも、どうやらこの化け物とは付き合いが長く、辟易してるらしかった。

「あれ、何?今日学校にもいた」
「『亡者』だよ。り以子があっちに行ってる間、急激に増えた。放っといても平気さ。生きてる人たちにしか手を出さない」

 り以子は首を傾げた。「どういうこと?」

 どうしてか、父親は無言でり以子を見つめたまま、何も答えようとしなかった。母親は『亡者』の貼りついた窓のカーテンを閉めながら、ブツブツと文句を垂れている。

「まったく。今日はしつこいのね……うちに何か紛れ込んでるのかしら……」

 その時、インターホンがピンポンと鳴った。り以子はてっきり母親が応対することだろうと思い、無視していたが、母親はカーテンを閉め終わっても、インターホンには向かわずにキッチンへ戻って行ってしまった。り以子は画面に映し出されたカメラの映像を見た。外国人の女性が、り以子の制服を腕に抱えて立っていた。短いグレーの髪をしている。

「お母さん、出なくていいの?」
「宅配の人?」
「うーん……」り以子は首をひねった。「多分違う。でもどっかで見た気もする」
「ならいいよ、放っといて」

 あっさりとした態度の母親に対し、り以子は渋った。

「えー、でも……」
「いいの。そういうものよ──ほら、これジムの席に置いて」

 カウンターに堪らない香りの立った味噌汁が出された。り以子はまだインターホンの画面に後ろ髪を引かれていたが、とりあえず母親のお願いを優先させて、味噌汁をり以子の向かいの席に置いた。ジムはいつの間にか席についていて、り以子と目が合うと、朗らかに「ありがとう」と言った。

「英語でいいのに」
「せっかく教えてもらったから」ジムは英語で言ったが、なぜかり以子にははっきりと聞き取れた。「君は日本語でいいよ。せっかく家に帰って来たんだし」
「熱はどう?」
「かなりいいよ。今はすごく体が軽いんだ」

 ジムはにこっと笑った。り以子は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

「あっちではどうでした?娘が何か迷惑かけませんでしたか?」

 母親がり以子の隣に座りながら、心配そうに訊いた。り以子はお節介丸出しの母の姿に恥ずかしくなり、「ちょっと、お母さん!」と諌めた。ジムはそんな母娘のやり取りを見て笑っている。

「いやいや。むしろ迷惑をかけたのは俺の方でしたよ。彼女はとっても優しく聡明な子でしたから」
「あらら、そんな風に言っていただけるなんて……きっと大っきな猫を被ってたのね。うちでは生意気ばっかりだったもんだから」
「お母さん!何それ!マジやめて」

 り以子がすかさず母親の膝を叩くと、母親は「ほらね」と言わんばかりの表情で腕を広げた。

「本当の家族の前では、誰だってそんなものですよ」

 ジムが困ったように笑った。

 両親とジム、そしてり以子の四人で、ほかほかの手料理をたらふく食べた。何でもありだった。青椒肉絲チンジャオロース、麻婆豆腐、餃子に、唐揚げ、肉じゃが、シチューにハンバーグ、オムライス……り以子の好きなものが全部揃っていた。こんな豪華な夕食は久々だったので、り以子は獣のようにがっついた。白飯はおかわりを三回もした。母親は「食べ過ぎよ」と注意したが、父親は寛容だった。

「いいじゃないか。どうせもうどんだけ食べたって太らないんだしさ」
「何それ。マジで?夢のようだね」

 り以子は白飯に明太子を乗せて口に運びながらモゴモゴ言った。父親は悲しげに笑った。

「夢だからな」

***

 ベッドサイドテーブルに制服を置き、キャロルはり以子に目をやった。来客にも気づかず表情一つ変えない寝顔に、思わず溜め息が漏れた。

「キャロル」

 ローリがカーテンを引いて現れた。キャロルは少しだけ体を動かして、肩越しにローリを認めると、再びベッドに目を落とした。

「リックとハーシェルが狩りから戻ったから……食事の準備を」
「ええ」
「……り以子は相変わらず?」

 キャロルは溜め息をつくことで暗に答えた。

「もう、このまま目覚めないかもしれない」

 ローリはキャロルの言葉をたしなめるように、穏やかに「キャロル」と呼んだが、キャロルは構わずに喋り続けた。

「すごく後悔してる。り以子との関わりをなおざりにしてたこと。彼女の顔を見ると、ソフィアと重なって……だけど、時間が解決すると思ってた。その前に彼女が亡くなるかもなんて、考えてもいなかったのよ。あり得ないことでもないのに──いいえ、こうなってたのは私だったかも」

 キャロルはローリに視線を合わせ、静かに続けた。

「誰もが簡単に命を落とす世界だもの」

 ローリは項垂れるように頷き、そのまましばらく顔を上げなかった。彼女の明るいブラウンの瞳が、シーツのしわを無意味に数えていた。

「──きっと目を覚ますわ」

 ややあって、ローリが恐る恐る呟いた。しかし、根拠のないその場しのぎの慰めには、キャロルはもううんざりだった。ローリもそれを分かっていて、取り繕うように首を振った。

「違う、私が言いたいのは、つまり……私はそう信じてたいってこと。り以子は目を覚ますし、私たちはもっと食べられるようになって、アンドレアはどこかで生き延びてる。辛い結末なんて想像したくない。もうこれ以上はね」

 二人の視線が再び交わった。キャロルは努めて微笑んだ。

「……そうね」