Neverland

ネバーランド

 翌日、学校へ行くのに、り以子は『亡者』を十一体も見かけた。停車中の電車の線路や、空き地のフェンスの中、そして相変わらず学校の周りにもうろついていた。どれも直接関わらずに済む場所だったので、り以子は特に気にしないようにして、周囲の皆に溶け込むことを心がけた。それが最も重要なことだと、誰に教わるでもなく理解していたのだ。

 校門をくぐったところで、り以子は蓮水と会った。今日の蓮水はちゃんとしていた。髪に血はついてないし、蛭や蛆虫もない。二人で昨日見たバラエティ番組の芸人の話をしながら、わいわいと教室に向かった。

「あーちゃんだ」

 教室には先にあーちゃんが到着していた。いつもの席に座って、不自然なくらい正しい姿勢で黒板を向いている。り以子は足元に何かが落ちているのに気づいた。あーちゃんのスマホだ。てっぺんに大きなうさぎの耳が生えたかわいいケースに入っている。昨日、『血と汗の結晶』と本人が称した反省文と引き換えに奪還した彼女の命だ。しかし、今日のあーちゃんはスマホにちっとも関心がなさそうだった。それよりも、何も書かれていないまっさらの黒板に見入っているみたいに取れた。

「あーちゃん、おはよう」
「おはよう」

 二人が声をかけたが、あーちゃんは何も返してこない。不審に思い、二人は顔を見合わせた。

「あーちゃん?」

 もう一度呼びかけて、ようやくあーちゃんはこちらを向いた。

「……どうしたの?」
「り以子……」

 あーちゃんはたった今突然り以子の正体に気づいたような顔をした。り以子は少し不安になりながら、床の落とし物を指差した。

「スマホ落ちてるよ」
「あー、うん……」あーちゃんは気のない返事をした。「もういいんだ。使えないし」

 ますますおかしい。り以子は眉根を寄せた。

「何かあったの?めっちゃボーッとしてるけど」
「ううん……少し、考えてて……」

 あーちゃんの様子はどう見ても『少し』ではなかった。何か人生を大きく左右するような重大な問題に悩まされている顔だ。

「進路とか?」
「進路っていうか……うーん……」

 何だか言い出しにくそうだ。り以子はあーちゃんの前の席の椅子を引いて、後ろ向きに座り、続く言葉を待った。

「……私、やっぱり戻ることにしたんだ」

 その言葉の意味を上手く消化できず、り以子はさらに表情を歪めた。

「どういう意味?」
「あっちに戻ろうと思う。ていうか、そうしなくちゃいけなくなっちゃった」

 一体、あーちゃんは何を言っているんだろう?戻るって、どこへ?そうしなくちゃいけないって、どういうこと?──り以子の頭の中で一斉に無数のクエスチョンマークが立ち上がった。

「あっちに戻るの?」蓮水が訊いた。「本気?」
「うん。ごめん、もう決めた」

 蓮水はあーちゃんの発表の意味を理解しているようだった。複雑そうな表情をしている。

「本当に行くの?もう会えなくていいの?うちら、いつも三人でお昼食べてたじゃん」
「ごめん……」
「ねえ、何の話?」

 り以子が口を挟んだ。蓮水はむすっとむくれて口をつぐみ、あーちゃんはばつが悪そうにり以子に向き直った。

「外に……私を待ってる人がいる。私、あの人たちを置き去りに出来ない。り以子にもいるでしょう?そういう人が」
「外?え、外って──」

 り以子は窓からフェンスの向こう側に目をやった。今や金網に張りつく『亡者』は、気が遠くなるほど夥しい数まで増え、耳障りなザワザワという嗄れ声を上げて蠢いている。

「──無理だよ、あーちゃん。あいつらに食われちゃうよ」
「行かなきゃ。ごめん」
「え、ホント、なんで?どういうこと?」
「ごめんね」

 り以子がどんなに引き止めようとしても、あーちゃんは機械のように同じ言葉を繰り返すばかりで、会話が成立しない。奇妙なもどかしさが不気味だった。

「本当にごめん」

 言葉が止まったり以子たちの間に、周囲の喧騒がうるさいほどよく聞こえた。廊下で騒ぐ同級生の甲高い声、ソフト部の朝練の音が響き渡り、コーラス部が何かを歌っている。り以子は何故かあーちゃんの言葉に集中できなくなり、場違いにも、微かに届く歌の名前を考えていた。これは何て歌だっけ?確か……。

***

 リックの目の前に一枚の紙皿が差し出された。ベタベタした豆料理がいくらかと、粗末なリス肉のジャーキー、それからおもちゃと見紛う嘘っぽい派手な色をした茸が乗っている。リックはローリの手から無言で皿を受け取ると、手づかみでそれらを口に運んだ。相変わらずの酷い味だったが、文句は言わなかった。美味しい料理は贅沢品だと、この一年で認識が改まっていた。

 全員が何とも言えない表情で食事をしていた。ベスは向かいでズズッと下品な音を立てて豆料理を啜るダリルのせいで、不快そうに眉根を寄せている。しかしダリルは人の視線なんて何のその、クチャクチャ言いながら口の中で混ざり合った朝食を咀嚼した。

「今日、私とグレンで外へ行く」

 気まずい空気を払拭するように、マギーが今日の予定について喋り出した。

「ゴーストタウンに寄ってみようと思うの。リックが昨日見たって」
「いや、二人じゃ危険だ。ウォーカーが大勢うろついてた」

 リックは間髪入れずに却下したが、今日のマギーもなかなかの食い下がりっぷりを見せた。

「二人じゃないわ、もちろん。タッカーたちが今日そこへ偵察に行くって聞いたのよ。あの人たちは見たところ強そうだし、銃弾もかなり持ってる。行くなら今日しかないと思う」
「……それならダリルとTドッグが行く。マギー、君はここに残るんだ」
「ダリルにはり以子の見張りが」

 ダリルの口がピタリと止まり、何かとても不名誉なことを言われたような、物凄く不機嫌な顔つきになった。

「俺の方がいい」グレンが口を出した。「町中を奴らに気づかれず動き回るなら、俺が適任だ」
「──グレンと連携するなら私が適任」

 マギーは当然のように言い放った。リックは少しの間、イエスとノーのどちらかで葛藤したが、頑なに反対する理由も特に見つからず、仕方なさそうに首を振る方向を縦に決めた。

「無理はしないでくれ。いいか?危険を感じたら、タッカーが『行く』と言っても、君たちだけでも帰るんだ。分かったな?」
「ええ。心得てる」

 マギーはようやくホッとしたように微笑みを浮かべた。その手が刹那のうちにグレンの手を握って放す瞬間が、リックの目に偶然映り込んだ。

「町へは歩いて?」リックが訊いた。
「いいえ。車のはずよ。大規模な調達みたい──私たちが出会った時と同じ」

 それを聞いて、リックはジャーキーを噛みちぎる手が止まった。リックの脳裏に、一つのアイディアが浮かび上がったためだ。

「救急車……」

 隣に座っていたダリルが、「何だ?」と目元をしかめて聞き返した。リックは急いで周辺に目を配ると、仲間の輪の中にぐっと肩を入れ、ヒソヒソ声で言った。

「救急車だ。あれに乗れば、り以子を連れてここを出て行ける」
「それって、盗むってこと?」グレンが不安げに訊いた。
「待って──」キャロルが驚いたように目を見張った。「出て行く?ここを?なぜ?明日の配給のために食事も我慢してたのに」
「それは移動する足がないと思ってたからだ」
「だけど、ここには医療設備があるのよ、リック。ローリとお腹の赤ちゃんのことを思えば、最適な環境よ」

 キャロルが懇願するように言った。リックはグッと堪えて目を瞑った。

「……カーティスが言ってた。この先に『前の野営地』がある」ダリルが低く掠れた声で言った。「女子高生が最初にいた野営地だ。分かるか?ウォーカーの群れに襲われた。数マイル先にはクソったれで溢れたゴーストタウンもある」

 項垂れるキャロルに対して、ダリルは容赦なく畳みかけた。

「囲まれてる。あれだけ銃をぶっ放してりゃ、ここを嗅ぎつけられるのも時間の問題だ。今まで無事だったのが奇跡だ」

 誰も反論しなかった。いくら武器に恵まれていても、大群で押し寄せられたら成す術もないことを、全員が思い知ってしまった。

 リックは妻の横顔をひっそり盗み見た。ローリは遠くの一点を名残惜しそうに見つめていた。クロエが赤ん坊をあやしながら、長女に軍用ミートソース・ラザニアを食べさせてやっている。リックには、なぜローリがあの親子を眺めているのか分からなかった。どうしたのかと声をかける勇気さえ浮かんでこない。妻の物憂げな横顔が、他人のもののように遠い存在に感じられた。