Neverland

ネバーランド

 ゴーストタウンへは、廃病院からそれほどかからなかった。歩いてもいいくらいの距離だったが、物資をたくさん運ぶためには車は不可欠だ。救急車は町から少し離れた場所に停め、イーサンが残って守ることになった。いざという時、ウォーカーに囲まれた場合に足を失わないためだ。グレンとマギーは、カーティス、タッカー、そして名前の知らない男女二人と共に町へ向かった。今日に限っては全員が銃を所持していた。とはいえ、なるべく使わずに済ませたいと、死人でひしめき合う大通りを見て二人は思った。一発でも銃声が鳴れば、待ちに待ったディナーのベルになることだろう。

 町は忍び返しのついた白い柵で囲まれていた。グレンとマギーはタッカーたちと一旦分かれ、カーティスに続いて町の反対側に回り込んだ。煉瓦造りの建物のすぐ裏だ。柵の真下に大きな木箱が積み重なり、即席の階段が出来上がっている。どうやら正式な入り口からではなく、木箱の階段を上がって、建物の陰に隠れて侵入するらしい。

「実は、既に何度か来てるんだ」

 木箱の陰に身を潜めたカーティスが、声を落として言った。

「イーターの数が増えてきたな──まあいい。侵入経路の近辺に役所があってね。そこの地下に非常食がかなりの数ストックしてある。例の豆缶も」
「あれ、いらない」マギーが顔をしかめた。
「そう言うなよ。賞味期限が長くて助かってるんだ」

 カーティスは木箱の上からちょっとだけ顔を覘かせ、柵越しに町の中の様子を窺った。グレンとマギーは黙って合図を待った。

 カーティスはポケットから試験管を取り出し、そっと栓を抜いて中身を手の平にあけた。それが何なのか、グレンは訊かずとも、湧き立つ鉄の臭いですぐに分かった。血だ。カーティスは手の平に出した血糊を柵にベットリ塗りたくると、ベルトに下げた革のシースからナイフを抜き、逆手に握って構えた。

 すぐに臭いを嗅ぎつけたウォーカーが寄って来て、柵に張りつき、夢中で血を舐め始めた。グレンは思わず顔をしかめていた。元が人間だったことを考えたくなくなるほどに猥雑で残念な光景だ。そんなグレンを尻目に、カーティスはナイフをしっかり握り込むと、何のためらいもなく脳天にズブッと突き立てた。

「よし──行くぞ」

 言うが早いか、カーティスは木箱の階段を駆け上がって柵を飛び越えた。二人は急いで立ち上がり、カーティスの後を追いかけた。

***

「あーちゃん?」

 り以子はいつの間にか無人の廊下を彷徨っていた。長く、殺風景な景色が延々と続いている。窓の外は真っ黒で、それなのに廊下は病的に真っ白く光り輝いていた。

「あーちゃん、どこ?」

 呼びかけても、返って来る声はない。り以子自身の声が孤独に反響し、虚しさと心細さを煽った。

「ねえ、あーちゃん……ほんとに行っちゃったの?外ってどこのことなの?」

 だんだんと、これはとても無意味なことなのではという予感がしてきた。体の左側には教室が連なっていて、開けっ放しのドア越しに楽しげな同級生の笑顔が見える。り以子は教室に戻ろうかと思い立った。とてもきりがないし、終わりのない廊下の先は不気味で恐ろしい。

 踵を返したり以子は、しかし、皆のいる教室に入る前に、足元に落ちていた白いものに気を取られて止まった。屈んで拾い上げてみると、折り鶴だった。真っ白い、小さな安っぽい紙で折られたものだ。どこかで見た覚えがあったが、それがなんだかよく思い出せなかった。顔を上げれば、どうして今まで気づかなかったんだろうと不思議になるくらい堂々と、同じような折り鶴がぽつぽつと点在し、廊下の先へ続いていた。まるで「こっちへおいで」といざなっているかのようだ。

「り以子」

 二つ目の折り鶴を拾ったところで、教室の中から蓮水に呼び止められた。

「行かなくていいよ」
「でも──」
「それを渡したかった相手は、こっちにいるじゃん」

 り以子は片方の眉だけをぴんと吊り上げた。

「それって、どういう──?」

 その時、けたたましい音を響かせて、真横の窓ガラスが破裂した。り以子は悲鳴を上げ、咄嗟にかざした腕で顔を庇いながら、廊下の壁に張りついた。

***

 ポーンと小気味よく弾んだゴムボールが、サイドテーブルに立っていた花瓶を倒して跳ねていった。ガラスの割れるけたたましい音が響き、病室の視線が一斉に『C』のベッドに集まると、ローリはきまり悪そうに肩を縮めた。ボールはてんてんとリノリウムの床を叩き、窓際へ転がっている。

「バイ!」

 廊下から厳しい怒鳴り声を上げて駆けつけたのは、赤ん坊を背負ったクロエだった。腰にナイフをぶら下げている。

「ここでそれを投げちゃダメって、いつも言ってるのに!」

 クロエは彼女がバイと呼んだ女の子を回収すると、娘が起こした粗相を確認するために病室に入ってきた。ローリは暢気に転がるゴムボールを拾い上げ、クロエに向かって小さく手を振った。

「ローリ。ああ……ごめんなさい。何か壊したわよね」
「いいのよ、気にしないで」
「だけど、何か割れる音が──」

 クロエはボールを受け取ろうとローリに近づき、サイドテーブルの脇に叩きつけられたガラス瓶を見つけた。ハッとした目がサッと素早くり以子を捉え、たちまちすまなそうな表情になった。

「いいの!」再び謝罪を口にしかけたクロエを先回りして、ローリが強く言った。「どのみち、そろそろ替えないとって思ってたところだったから」

 ローリのフォローは気遣いが丸見えで、余計にクロエの罪悪感を煽ってしまった。

「……あなたの友達?」
「ええ」

 クロエはそっとり以子のベッドに近寄り、首を傾けて寝顔を覗いた。

「まだ子供なのに……早くよくなるといいわね」
「ありがとう」

 しずしずと言葉を交わす大人たちを尻目に、バイがり以子のベッドによじ上り、何かを引っ張っていた。一瞬遅れてそれに気づいたクロエが、再び大きな声を放った。

「バイ、ダメ!」

 しかし、バイはクロエの『ダメ』を無視して、枕元に置かれていた千羽鶴を床に落とした。

「ダメったら!──ああ、もう」

 クロエはバイの両脇に手を差し込んでベッドから引き剥がした。ローリは千羽鶴を拾い、ベッドに戻した。

「人のものに勝手に触っちゃダメよ。泥棒になりたいの?」
「──それ、鳥?」

 バイは母親の説教より異国の作品に夢中だった。

「そうよ。彼女が作ったの」

 そう言いながら、ローリは落ちた衝撃ではぐれてしまった一羽の折り鶴を手に取り、バイの手の上にちょこんと載せた。

「私にも作れる?」
「もちろん」ローリはバイの髪を撫でてやりながら頷いた。「彼女が起きたら、作り方を教えてくれるわ。だからそれまでもうちょっと休ませてあげて」
「分かったわ!」
「バイ、『ありがとう』は?ほら……」

 クロエが横からせっついたが、バイはつんとそっぽを向いた。困り果てたバイがローリを顧みて、ローリは苦笑まじりに肩をすくめながらゴムボールを母親に返した。

「じゃあ、これを返すから、その代わりお礼を言うのよ。分かった?」

 ところが、かわいらしい花瓶殺しの犯人は、反省の意を全く見せず、むしろもっと何かにぶつけたいというやんちゃな遊び心に従ってパタパタと病室を飛び出していった。クロエはすかさず呼び止めたけれど、バイはちっとも聞く耳を持たなかった。廊下ですれ違った男性が「気をつけろ!」と吠えたのが聞こえた。

「まったく……何も言うことを聞かないんだから」クロエがうんざりと呟いた。「大人を困らせてばっかり」
「それが仕事だものね」

 ローリが言うと、クロエは少し気分が軽くなったようだった。

「お父さんのお見舞い?」

 確かクロエの父親が入院していると聞いたことを思い出し、ローリが訊いた。

「ええ。ここのところ、あんまり容体がよくなくて……」
「……よくなるといいわね」

 クロエはローリの言葉に、面食らったような表情を見せた。思いもよらない反応に、ローリは何かおかしなことを言ったかしらと不安になったが、クロエはすぐに取り繕ったように笑い、「そうね。ありがとう」と返した。

***

 ダンボール箱をひっくり返すと、大量の缶詰がザーッと流れ出た。これだけあれば、駐車場に住んでいる人々に一つずつ配っても、一ヶ月は保ちそうな量だ。それらをカーティスが手際よくリュックに詰めていく。グレンはマギーと顔を見合わせた。

「……MRE軍用食は?」
「何?」カーティスが聞き返した。
「MRE──レーションだ。クロエたちが持ってた」

 グレンが繰り返した。カーティスは「ああ」と思い出したように声を上げて、二つ目のリュックに缶詰をしまい始めた。

「あれはここじゃないんだ。タッカーたちが向かった方にある──ミリタリーショップなんだ」
「弾もある?」

 マギーが思わず急き込んだが、淡い期待に反して、カーティスは苦々しい表情で首を横に振った。

「……俺たちがこの町を見つけた頃は既に、武器類はほとんどなかった。恐らくここに住んでた人たちが最初のうちに持って行っちまったんだ」

 二人は──特にマギーは──酷く落ち込み、がっくりと項垂れた。

「それじゃ、手に入ったのはクソまずい豆缶だけってこと?」
「だから、そう言うなって。そのうち君たちもこの味を気に入る──」

 半笑いのカーティスは、その瞬間、不自然に硬直した。一体どうしたのかなんて、訊くまでもなく二人は理解した。タッカーたちが向かった方角から、鋭い悲鳴と、そして、複数の銃声が聞こえ出したのだ。

「ウォーカー?」

 グレンは青ざめた。カーティスは壁際に積み上がっていた木箱を駆け上がり、天井際の高窓に飛びついて、かろうじて覘いている地上を見渡した。

「おい、ウソだろ……」カーティスが震える声で言った。「イーターが移動してる」
「町の中の奴か?」
「それだけじゃない──大群だ。柵の外から来やがった」

 カーティスが振り返り、グレンとマギーを見下ろした。その表情は恐怖と緊張に強張り、血の気が引いていた。

「……病院の方に向かってる」