Neverland

ネバーランド

 フェンス越しの薄暗い林に向かって、その白さを見せびらかすように、折り鶴が薄っぺらい羽をひらひらはためかせている。小さな折り鶴は、バイのお気に入りの人形となったのだ。ピンク色のゴムボールはとっくのとうに飽きられ、さっきからずっと建物の陰に無造作に転がされていた。

 バイは頭よりずっと高いところに折り鶴を掲げて走り、まるで純白の小鳥が独りでに空を飛んでいるような光景を楽しんだ。

 廃病院の裏手に回り込むと、ちょうど人気ひとけが失せ、小鳥が舞うのに最適な風情があった。陽気な昼の日差しが建物で遮られ、少し薄暗くなっている。バイは嬉しそうに薄暗がりに飛び込み、夢中で折り鶴をひらめかせた。大きさの合わない靴を危なげにパタパタ鳴らしながら駆け回っていると、不意にバイの肩が何か堅くて大きなものにぶつかった。それはバイの華奢な体を跳ね返し、その反動で自分も反対側にグラッと傾いた。

 その時、どこからともなく現れた逞しい腕が、バイとアメリカンバイク──倒れかかっていた二つを同時に引き止めた。

 ダリルはホッと息をついた。チラッとバイクの無事を確認してから、責め立てるような目をバイに投げつけた。バイは今の今まで驚いて放心状態だったが、高いところから威圧するダリルの鋭い目に脅え、たちまち肩を縮めた。

「ご、ごめんなさい」
「……気をつけろ」

 ダリルはぶっきらぼうに吐き捨て、掴んでいたバイの腕を手放した。バイはそろーりそろーりと後退りをしてダリルから一定の距離を取ると、脱兎のごとく全速力で走って逃げ出した。

 一人になって、改めてバイクを見下ろしたダリルは、サイドバッグから小物がこぼれ落ちているのに気づいて屈んだ。そして、瞬間的に止まった。黒い合皮の表紙がついた、小さな手帳……。

 すっかり存在を忘れていた。ダリルは静かに手帳を拾い、表紙の煤を払った。

 ダリルの胸の中で、り以子は二度と目覚めないんじゃないかという諦念が、無視できないほどに育ちつつあった。この手帳を返す機会だって、もうないのかもしれない。分かっていたはずだ──簡単に壊れてしまうような、脆くてか弱い存在だということを、ダリルはずっと前から知っていたのに。

 いつの日か、自分のような人間にも守れるものがあると妄信していい気になっていた。でも、それは一方通行で、り以子はダリルのことを特段信頼していたわけではなかったのだ。シェーンの不審な動きを見つけた時、彼女は自分一人で奴を追いかけた。ダリルに報告したり、頼ったりしなかった。当然かもしれない。ダリルは拗ねて、皆から離れたところにテントを移し、り以子やデールの意見に聞く耳も持たず、見下すような態度を取っていたから。それで、結局このざまだ。全部棚に上げて、「信頼してくれなかった」なんて言う権利はない。

 何も出来ない自分が嫌になった。り以子を放ったらかしにしてまで農場を捨てて逃げ、粗末な食べ物をかき集めて、腹を満たした気になって……こんな生活に何の価値があるというのだろう。これを生きてるなんて言えない。まだ死んでいないだけだ。

***

 り以子は教室の中へ素早く後退し、息を殺して、ドアの裏に身を潜めた。窓が割れたせいで、廊下まで黒に侵食されてしまった。『亡者』が数体、ちぎれかけた体をズルズルと引きずりながら、すぐそこをうろついている。

「ああ、もうここまで来ちゃった」

 蓮水は依然戸口に突っ立ったままだった。り以子はヒヤッとした──蓮水には、『亡者』たちから逃れようとか、身を隠そうとか、そういった防衛的な意思がちっとも見られなかった。

「平気だよ。受け入れちゃえばいいんだから」

 蓮水はのんびりとした口調で言った。彼女の鼻先に『亡者』が現れたが、一瞬においを嗅いだだけで、すぐに通り過ぎていった。

「無駄な抵抗することないよ」蓮水は続けた。「フワフワと、淡々と。流れに身を任せるの。どうせちょっと我慢すれば、そのうち解放されるんだから」
「り以子だって、今、そうしてる」

 ソフィアが言った。ソフィアはさっきからずっとそこにいたかのように、当然の存在感を放って、り以子の真横に立っていた。

「本当はとっくに治ってるのに。でも、目を覚ましたらまた殺されるから」
「わざわざ殺されにいくことないよね。そうやって目を閉じたままでいれば、もうすぐだもん」

 り以子は廊下を塗り潰した一面の黒に目を向けた。この色の正体には、だんだんと見当がつき始めていた。

「もうすぐ全部が一緒になる。区別も境界もなくなる」
「痛くないよ」と、ソフィア。「楽しくもないけど。その代わり苦しくない。悲しくない。寂しくないし、怖いものから全部解放される。それに、皆いるのよ」
「皆……?」

 り以子は再び蓮水を見上げた。

「蓮水もそこにいる?お父さんとお母さんも?──ジムも?」
「もちろん。全てが一つに」

 蓮水がゆっくりと頷いた。

 なあんだ。それならいいかもしれない。だって、全てがここにあるんだから──そう思った途端、り以子は胸がすっと空くような感覚になった。廊下の黒が、零れた墨が広がるように、教室の床に広がり始めた。

 その時、り以子の手から折り鶴が落ちた。誰かがり以子の手首を力強く掴んでいた。

「全てじゃない」

 デールが言った。デールは片腕でばっくり割れた真っ赤な腹を押さえていた。腕の下から赤黒い臓腑がはみ出し、夥しい量の血液が床に滴り落ちている。

「これが全てじゃない」

 り以子はぎょっとして立ち上がった。背中がドアにぶつかり、バン!と盛大な音を立てた。

「はす、み……どうしよう、デールが──」

 助けを求めた先に、り以子の知っている蓮水はいなかった。それは『亡者』だった。顔の皮膚が全てめくれ、顎の付け根でぶら下がっている。血でギトギトに固まった髪の毛、唇のない口から覗く黒ずんだ歯、干からびた手足……。り以子は腰を抜かし、床の上を尻で後ずさりした。すると、今度は別の誰かにぶつかった。ソフィアだ。いや、違う──ソフィアだった別の何かだ。首筋から大量の血を流し、紫色に変色した唇をめくって、歯を剥いて唸り声を上げている。

「な──何!? 何なの、マジで!」り以子は半狂乱になって叫んだ。「ヤバいからマジで!ねえ!」
「り以子」

 デールが力を振り絞るように声を上げた。

「君がまだ持っているものを思い出せ」

 ドン!と背中のドアに強い衝撃が走り、り以子は悲鳴を上げた。気づかれた!──咄嗟に両手で口を塞いだが、時既に遅し。ドアの裏側から、のっぺりとした死人の顔がぬっと現れ、白濁した目玉でり以子の姿を確かに捉え──。

***

 グレン、マギー、カーティスの三人は、急いで地下室を飛び出し、建物の廊下を、出口に向かって駆け抜けた。みんな一言も声を発しなかったし、忍者のような完璧な忍び足だった。しかし、全員の心臓が激しく鼓動し、けたたましい音を鳴らしていたに違いなかった。

 やらなければならないことが散在していて、どうしたらよいか誰にも分からなかった。タッカーの無事を確認し、援護しなければ……イーサンのところへ戻って、逃げ道を確保しなくては……廃病院の皆にウォーカーの接近を知らせなくては……頭の中はゴチャゴチャだったが、どれも一つの重大なことが共通していた。生きてここから脱出しなくては。

 あと数ヤードで出口というところで、グレンは突き当たりに不穏な影を見つけ、マギーの腕とカーティスの襟首を掴んで、曲がり角に押し込んだ。物陰から気配を確認すると、気づいてよかったと盛大な安堵を感じた。どこから迷い込んだのか、ウォーカーが一体、フラフラと廊下を彷徨っている。その目と鼻の先には脆弱なガラス扉があり、膨大な数のウォーカーの往来が見えた。うっかり廊下のウォーカーを興奮させようものなら、扉の向こうの群れが物音を聞きつけ、一斉に押し寄せてくる危険があった。

「どうする?」

 マギーが壁に寄り添ってしゃがみ、グレンとカーティスにひっそりと顔を寄せた。

「ここを出なくちゃ。何としてもね。父さんたちに知らせないと」
「それは賛成だが、もう手遅れかもしれない」

 カーティスがヒソヒソ言った。その目は鋭く研ぎ澄まされ、角からチラチラとウォーカーの様子を窺っている。

「ここから脱出して、あの大群を先回りして病院に戻るのは……どう考えても無理だ」
「奴らが家族や友人を食い散らかすのをここで待ってろって言うの?」マギーが軽蔑のにじんだ声を出した。
「そうは言ってない。皆だって黙って食われやしない。あっちには人手があるし、武器も充分にある。応戦できるさ!」
「けど、この方向だと、奴らが辿り着くのは裏手からだ」グレンが口を挟んだ。「あっちは警備が手薄だった。気付くのが遅れたら最悪だ。それに、院内に入り込まれたらおしまいだぞ!り以子はまだ目も覚ましてないのに!」
「り以子の傍には君の仲間がついてるだろ?」

 カーティスが宥めるように言い聞かせた。グレンは自分でも知らずのうちに息巻いていたのに気づき、すごすごと黙り込んだ。

「それに、裏手には高さ二メートルのフェンスが設置してある。皆が武装する時間くらいは稼ぐはずさ。俺たちの仲間を信じよう。いいか?まずは確実に生きてここを抜け出すことだ」
「……分かった」
「策があるの?」

 マギーは疑り深い目でカーティスを探った。

「まあ、聞いてくれ」カーティスがモゴモゴ言った。「裏口から抜け出すんだ。ほぼ柵に密接してて、足場さえあれば、柵をよじ登って外へ抜け出せる」
「だけど、そこにも奴らがいるかも」と、マギー。「この町は見通しが良すぎるもの」
「そうだな。それが問題だ。一匹に見つかれば、群れ全体が向かってくる」

 カーティスは立て膝に顎を乗せ、指で下唇を弄びながら小さく唸った。

「それを逆手に取ろう。囮を使って群れを一箇所におびき寄せるんだ」
「囮?」グレンは首を捻った。「何を囮に?」

 するとカーティスは立ち上がり、背負っていたパンパンのリュックを下ろした。グレンとマギーもつられるように立った。

「万が一の時のために、俺たち物資調達班はあらかじめ用意してる」

 そう言いながら、カーティスがおもむろにリュックの中身を漁り出した。グレンは、一体何が出てくるのだろうと、期待と不安半々の気持ちで、正面から一緒に覗き込んだ──。

 次の瞬間、グレンは視界が真っ白になった。豆缶がぎっしり詰まったリュックが、グレンの鼻面を殴打したせいだ。グレンは、豆缶がいくつか飛び出して落下する音と、マギーが息を呑むヒュッという甲高い音を聞きながら、背中から壁に激突し、その場にガクッと崩れ落ちそうになった。

「何するのよ!」

 すかさずマギーが掴みかかったが、カーティスは腕を一振りしただけで、マギーを弾き飛ばしてしまった。

「こうするしかないんだ」

 カーティスはフラフラのグレンの胸倉を掴むと、ウォーカーのいる方向にグレンを蹴り飛ばした。グレンはウォーカーを薙ぎ倒して床に転がり、そのままマウントポジションを取られた。

「グレン!」

 マギーが壁にすがって立ち上がった。薄いガラス戸の向こう側で、ウォーカーが数体ほど騒ぎに気付いて振り返ったのが見えた。カーティスが反対方向に逃げていく。マギーはその背中を憎々しげに睨みつけたが、すぐにグレンの救助に向かった。