Neverland

ネバーランド

 り以子の体を拭くのは、いつもベスの役目だ。理由は単純で、ベスが日課に決めたからだ。ダリルが泥や返り血を拭ってやっているのを見て思いつき、以降、一日おきに体を拭きに来ている。その時間はベッドのカーテンを全部閉めているので、男性陣は見舞いに来ると、カーテンが開くまで廊下で待たなければならなかった。

 作業を終え、カーテンをゆっくりと開いたベスは、廊下までTドッグを呼びに行った。Tドッグは病室に背を向ける形で、入口脇の壁に寄りかかって、天井の蜘蛛の巣を数えていた。大きな手に素朴な白い野花が握られている。新しい即席の花瓶は、豆料理の空き缶だった。

「もういいのか?」
「どうぞ」

 ベスが頷き、Tドッグはようやく入室が許された。一番手前の簡易ベッドに老婆がちょこんと腰掛けていて、なぜかがっかりした顔でTドッグを見上げた。

「相変わらずよ」

 カーテンをめくってり以子の寝顔を見せながら、ベスが沈んだ声で告げた。

「ローリはそのうち目を覚ますって言ってたけど……」
「ハーシェルは何て?」
「時間はかかるだろうって。でも、こんなに長くかかるなんて言ってなかった」
「後遺症が?」

 ベスは曖昧に肩をすくめた。

「……目を覚ましたくないのかも」

 Tドッグはその先に続きがあると感じ取ったのか、興味深そうに相槌を打ち、腕組みをした。

「そうだとしたら、気持ちは分かる。家族や故郷が壊滅してしまったかもって分かった直後だもの。前の私だったら、きっと二度と目を覚ましたくなかった」
「今は違う?」

 ちょっと顎を上げて訊いたTドッグに、ベスは「うーん」とためらいがちに唸った。

「あの時は、全体がよく見えていなかったの。おかしな言い方だけど、拗ねてた。それで、自暴自棄になってたわ。自分が死ぬってことが、分かっていたようで、本当はよく分かってなかった。実際に手首を切ろうとした瞬間に、それがどんなことなのか分かって……本心じゃないって気付いた」

 Tドッグの物静かな相槌を挟んで、ベスはさらに続けた。

「不謹慎かもしれないけど、今は、楽しみなこともある。ローリのお腹の赤ちゃん、マギーとグレンとのこと……生きて見届けなくちゃ。もちろん、食べ物のこととか、冬をどうやって越えるかとか、憂鬱に思ってることもあるわ。だけど、明らかなのは、前ほど悲観的じゃない」

 ベスはTドッグが温い笑みを浮かべて聞き入っていることに気づくと、小恥ずかしそうに俯いて、ボソッと付け足した。「またすぐにくじけちゃうかもしれないけど」

「そんなことない」

 妙に確信めいたTドッグの口ぶりに、ベスは思わず笑いを漏らした。

「どうして分かるの?」
「分かるさ。君は変わったからな」

 不思議な沈黙が訪れた。お互いがこの場の空気に照れくささを感じ、もじもじと佇まいを直したりして、居心地の悪さを誤魔化していた。ベスは上腕をさすりながら、仕切りだらけの病室の隅隅を見回し、ふと思い出したように呟いた。

「……あの人、ちっとも顔を出さないのね」

 Tドッグは眉を寄せて少し考え、「ダリルか?」と訊いた。ベスは不愉快そうに頷いた。

「薄情な人」
「怖いんだろ」Tドッグはとりなすように言った。「あいつは、君たちの農場にやって来る前から、り以子のことを一番近くで見てた──こたえるんだ、俺たちの他の誰よりも。今の彼女は死んでるみたいだ」
「ちょっと!」すかさずベスがたしなめた。
「違う、あいつがそう見えるのを嫌がってるってことだ。俺が思ってるわけじゃない」
「ああ……」

 ベスは自分の早とちりに気づいて、急激に気迫がしぼんでいった。

「そのうち嫌でも顔を出すさ」Tドッグは肩をすくめ、調子よく言った。「り以子が目を覚ましたら、奴は世話を焼かずにはいられないからな」

***

 おんぼろの木製ドアを蹴り破って、カーティスは外へ飛び出した。町を囲う白い柵が建物に密接して立ち、安全な外の世界はすぐ目の前だ。大量のウォーカーの群れは、カーティスが用意した囮にまんまと引きつけられ、正面玄関に向かってぞろぞろと大移動している。それでも、数体はドアの破壊音に気づいてカーティスを見つけた。ねじれたり筋肉が削げ落ちたりした足を引きずり、狭い通路に押し入ってくる。カーティスはシースからナイフを引き抜いて、先頭のウォーカーの眼窩に差し込むと、土手っ腹を思い切り蹴り飛ばして、諸共なぎ倒した。そして、蝶番ごと外れたドアをガタガタと動かして、建物の外壁と柵の間に斜めに立てかけた。

 一方で、グレンとマギーの二人はまだ足止めを食らっていた。マギーが拳銃を抜き、グレンに跨るウォーカーの後頭部に向かって構えたが、そう上手く事は運ばなかった──的が激しく揺れ動くせいで、なかなか引き金を引くタイミングが掴めないのだ。下手をすればグレンの頭を吹き飛ばしてしまうだろう。

「マギー……」

 グレンが咳き込みながら叫んだ。すぐそこの玄関扉に大量のウォーカーが張りつき、下劣な欲望を剥き出しにして、バンバンとガラスを叩いている。マギーはとうとう意を決したらしかった。もしくは、やけくそだったのかもしれない。「あーっ!」と絶叫しながら、思い切って引き金を引いた。

 銃弾はグレンにもウォーカーにも当たることなく、何もない床にめり込んで穴を開けた。その銃声で、ウォーカーが弾かれたようにバッと顔を上げる。そしてウォーカーは、彼にとってグレンよりも魅力的な獲物を見つけた。

「マギー!」

 狙いを変え、ウォーカーがマギーに飛びかかった。右の手首を強く掴まれ、取り落とした拳銃は暴れるウォーカーの足に当たってどこかへ滑っていってしまった。グレンはやっとのことで立ち上がり、ウォーカーに後ろから掴みかかった。

 マギーはウォーカーの胸に左腕を突っ張り、掴まれた右手を懸命に引き抜こうとしていた。グレンも全力でマギーから引き剥がそうとしたけれど、配慮を知らない死人の力は馬鹿にならなかった。蝋のような指先がマギーの肌に深々と食い込んでいる。

 扉に群がるウォーカーの数が増し、ガラスを叩く音が激しさを増した。ビシッと亀裂の走る音が聞こえる──。

「グレン!」

 グレンはハッとした。片刃のナイフが、薄暗がりの中で鈍く輝いている。グレンはマギーの腰のベルトからそれを抜き取って、ウォーカーから半歩だけ下がると、大きく腕を振りかぶった。そして、禿げ上がった後頭部に思いっきり突き刺した。

 二人は、間に立ちはだかっていた死体が崩れ落ちると、どちらともなく抱き合い、腕に力を込めた。しかしその時、二人の真横でガラスが弾け飛んだ。グレンは咄嗟にマギーを庇い、横殴りのガラス片の雨を背中に受けた。

「どうしよう……ああ、どうしよう……」

 マギーがグレンの腕の中で呻いた。さっきまでくぐもって聞こえていた死人たちの嗄れ声が、鮮明に聞こえ始めた。数え切れないウォーカーの大群が、濁った目を爛々とさせながら、次々に入り口の敷居を跨いでいた。

***

 ゾートロープのように、黒と世界が交互に激しく点滅している。り以子は背中に地を這うような呻き声を聞いた。後ろから亡者が追いかけてきているのだ。り以子は髪を振り乱しながら必死で逃げた。絶対に奴らに捕まってはいけないと、り以子は何故か直感的に理解していた。何かにぶつかったり、足を取られそうになりながら、無我夢中で走り続けた。目に映る全てがチカチカして、自分がどこに向かい、どこを走っているのかすら分からなかったが、何となく覚えがあるような気もした。

 遠くでまたコーラス部が歌を合唱している。フィルターがかかったようにぼやけ、高音だけが微かに響く不明瞭で不気味な聞こえ方だった。

 それをかき消すように、り以子の真後ろで薄汚い獣が吠えるような声がした。り以子は驚いて叫び、手近な入口からどこかへ押し入った。相変わらず視界はチカチカだったが、かろうじて小部屋だと分かった。黒い壁に身を隠し、『亡者』から距離を取ろうと後ずさりした時、り以子は足をどこかにぶつけて盛大にすっ転んでしまった。銅の大鍋をひっくり返したような、けたたましい音がそこら中に反響した。

 大音量に釣られて、さらに多くの『亡者』たちが寄ってくる。絶対に捕まってはいけないが、逃げ切ることも不可能のような気がした。何か──何か武器になるものがあればいいのに……。身を守れるものだ。戦って、奴らを倒すことが出来るもの……そこまで考えて、り以子は地べたに寝そべったままで小さく息を呑んだ。目の前にゴミ箱が転がっている。り以子がさっき蹴飛ばしたものだ。『向こう』を発つ時に見かけた覚えがあった。空港の搭乗口に置いてあって、り以子はそこに刀を捨てた……。

 り以子は手と膝で慌ただしく地面を這い、勢いよくゴミ箱に飛びついた。持ち上げてひっくり返すと、漫画の四次元ポケットみたいに大量のがらくたが降り注いだ。教科書、修学旅行のしおり、血の染みついたTシャツ、それに、どうやって食べるんだか分からない怪しげな豆料理の缶詰が腐るほど……そして、り以子はついに見つけた──美しい漆塗りのこしらえ

 り以子は無我夢中で刀を鷲掴みにすると、腰のベルトに差した。そうだ。これがなくちゃいけない。これがないとり以子は戦えない──戦わなくちゃ。暴れる呼吸を飲み込んで整えながら、その場にしずしずと正座をする。

「どうして戦う?」

 シェーンが溶けた飴玉のような眼球でり以子を見下ろしていた。シェーンが肩で寄りかかっている壁は、一秒ごとに一面黒になったり、校庭のフェンスになったりして見えた。

「言っただろ?お前はリックたちの仲間じゃない。お前がこうやって夢の世界に現実逃避をしてる間、連中はどうしてるかな?入れ替わり立ち替わり花を持って見舞いに来る?お前のために?──まさか。くだらない安寧のために仲間を刺し殺すような連中だ」

 り以子は、シェーンの左胸からナイフの柄が突き出しているのに気付いてハッとした。

「お前は仲間じゃない。誰かの一番じゃないんだ。背景みたいなものかな……ピントが合わないのさ。お前が欠けても、連中は気にも留めない。お前はいつでも置き去りだ。そうじゃなかったことがあるか?無理もないよな。だって、お前はろくに言葉もしゃべれない。銃は下手くそだし、まともに釘だって打てない。役立たずの大荷物を、誰が気にかける?」

 前後左右のあちこちから嗄れ声がする。り以子は囲まれていた。そこら中に亡者がいる。

「認めちまえよ。お前は独りぼっちだ──お前がここに残っても悲しむ奴はいない。そうだろ?」

 り以子は目を閉ざし、ゆっくりと息を吐き出した。