建物の角からひょっこりと顔を出して、バイは裏庭の様子を窺う。さっきの怖い大人はもういない。ゴテゴテしたバイクもない。完全に無人の、バイだけの無邪気な遊び場に戻っていた。端っこに置き忘れたゴムボールが寂しく転がっている。
バイは折り鶴をポケットに突っ込んで、小走りでボールを取りに行った。誰の興味もそそらなかったから、バイが放り投げた時からそのままだった。少しだけ砂埃を被っている。
バイは砂を払い落とし、両腕で抱えて持ち上げた。フェンスに向かって放り投げると、狙った位置より手前で弾んでから、ぶつかって金網を揺らした。それを拾って投げ返してくれる友達はいない。とても退屈に違いない行為だったが、バイにとっては、何もせずにいるよりはましだったのかもしれない。力なく転がったボールを拾いに走り、また元の立ち位置に戻ってから、同じ場所めがけてボールを投げた。
何度も繰り返し金網が揺れ、その度にガシャンと音が響いた。そしてそれを──林の中の何かが聞きつけた。
備品庫の入り口に背を預け、ダリルはぼんやりと中空を眺めていた。豆缶を放ったりキャッチしたりを繰り返しながら、誰かが来ないか見張っているのだ。入り口から少し首を伸ばして覗けば、立ち並んだスチール棚の向こうに、物資を物色するリックの不届きな姿が見えることだろう。
見張りを任されてから、もう随分と時間が経過していた。ダリルは缶詰を弄ぶのにも飽き、急かすように露骨な溜め息を鳴らしてリックに聞かせた。
「待ってくれ」奥の方から、くぐもった声が言った。「もう少しで金庫が開きそうなんだ」
ダリルは大型犬が噎せたような盛大な音を立てて大息した。
「よしきた」
ガチャッと重たい音が響き、リックは金庫破りを成功させたようだ。
「大金でもあったか」ダリルが茶化した。
「いいや。だが、もっと価値のあるものが入ってた。ホラ──やっぱりな。弾薬だ。かなりあるな。半分残して頂いていこう」
「全部もらっていけ」
「半分だ」
呆れるダリルをよそに、ザラザラと銃弾をかき集める音が聞こえた。
少しして、不自然に物音が途切れ、沈黙した。ダリルは眉をつり上げてスチール棚の向こう側に目を配った。
「……おい?」
恐る恐る呼びかけたが、返答の余裕はないようだった。黙り込むリックに微かに不安を覚えたダリルは、見張りの任務も忘れ、ふらふらとリックの潜んでいる方へ向かった。
先程からひっきりなしに鳴っている金網の音を、誰も気に留めないわけがなかった。最初に気づいたのは、敷地内をゆっくりとした足取りで巡回していた警備だ。ライフルのショルダーベルトを外し、グリップを握って裏手を覗き込み、フェンスの金網にボールをぶつけて遊ぶ子供を見つけた。
「おーい」
警備の男が朗らかに声をかけた。バイがボールを拾って男を振り返る。
「そんなところにいないで、ママのとこに戻ったらどうだ?」
「どうして?」
「そりゃ、だって……」
男は困ったように頭を掻いた。自分たちの効率のために、都合よく子供を追い払おうとしているのが、まっすぐとした純朴な目に見透かされているようだった。
「ほら、ジメジメしてて虫がいるし……グネグネした幼虫とか、大きな蜘蛛とか。そういうのは嫌いだろ?」
「私、別に平気よ」
バイはつんとそっぽを向き、またボール投げを再開した。男はムッとした。
「そうかい。分かったよ。もう邪魔しないよ。好きなだけそこで──」
これまでより一際大きな音を立てて金網が揺れた。どうせボール遊びの続きだろうとたかをくくった男は気づくのが遅れた。事態を察知したのは、尋常ではない恐怖の絶叫を聞いたからだった。
「助けて!」
金網にウォーカーが数体群がっていた。一体が地面に這いつくばって、フェンス下の僅かな隙間から痩せ細った腕を差し込み、バイの足首を掴んでいる。男は急いでライフルを構え、ウォーカーの眉間に銃弾をお見舞いした。バイはわんわん泣き叫びながら死体の指を振りほどき、四つん這いになって逃げた。ところが、それだけで終わらなかった。林の向こうからザワザワという嗄れたさざめきが聞こえている──。
「何なんだ……?」
男は暗がりの木々の合間に目を凝らし、凍りついた。とてつもない数の、その腕に抱えたライフルの弾を全て使い果たしても殲滅できないほどの、大量のウォーカーの人波が、どっと押し寄せて来ているではないか。
「なんてこった」
男は大袈裟に震える手で胸元をまさぐり、小さな安っぽい首かけホイッスルを取り出した。それを口に銜えると、やけくそのように思いっきり吹き鳴らす。
「『イーター』だ!」
リックは何らかの書類を手にしていた。薄い束になっていて、バインダーに挟んである。ダリルの位置からは手書きの名簿のように見えた。
「ここの連中のリストか?」
「ああ、そのようだ。入院患者は病状と、亡くなった人は死因も書かれてる」リックは紙面に集中しているのか、舌足らずだった。「俺たちの名前もあるぞ。『C』──リック・グライムズ、ダリル・ディクソン、それと……」
リックは途中で口をつぐんだ。眉間にギュッと皺が寄っている。そして、何かを確かめるように何枚もページを遡り出した。
「何だよ」
「『C』の死者が多い」
「餓死か?」
「全員調達に出て死んでる」
リックはバインダーから顔を上げ、絶望的に言った。
「口減らしだ」
「何だと?」
「貢献度の低い人々をわざと調達に行かせて殺してる」
一度納得しかけたダリルは、一つの引っかかりに躓いて目元をしかめた。
「俺たち全員『C』だ。どうせ殺す気なら何故助ける?」
だが、リックはその矛盾のわけに合点がいったらしかった。
「……助けられたのは俺たちじゃない」
ダリルはますます目を細めた。だが、自分の頭の回転スピードに合わせてもたもたしているうちに、その言葉の意味を聞く機会は失われてしまった。外から大きな警笛が鳴り響いたせいだ。
「『イーター』だ!」
ダリルはスーッと体温が一度下がっていくのを感じた。
けたたましい警報は、どうやら病院の裏手から聞こえている。大急ぎで備品庫から飛び出した二人は、正面のバリケードを警備していた男たちが、血相を変えて音の方へ駆けていくのを見た。
「『A』グループの患者を病院から避難させろ!」
「分かった──急げ!」
やがて銃声が鳴り始めた。一発や二発ではない。続けざまに、それも数を増しながら轟く発砲音が、敵の数を物語っている。
「リック!──リック!」
悲鳴混じりの呼びかけにつられていくと、ローリとキャロルたちがテントで手早く荷物をまとめていた。
「り以子は?」
リックが急き込むと、Tドッグが青ざめた顔をした。
「……まずいぞ、一人だ」
その時、ダリルは逃げ惑う人々の波の向こうに、カーティスの姿を見た気がした。そして見間違いでなければ、彼は人波をかき分け、病院を目指して走って行った。ダリルは無意識のうちに一歩踏み出していた。
「ダリル」
それを引き止めたのはリックだった。リックもまた、カーティスの気配を感じ取ったに違いなかった。でなければ、ダリルと同じ方を向いて殺気立っているはずがない。
「あの子は──」
ダリルが非難めいた声色で抗議しかけたのを、リックは首を一振りして遮った。リュックを下ろし、さっき拝借してきたばかりの弾薬箱を半分以上取り出して、ダリルの手に押しつけた。
「俺が行く。バイクで皆を先導してくれ。来た道を戻るんだ──あの時の沢に」
「だが──」
「──マギーとグレンが戻ってない」ベスが、ダリルの言葉の続きを奪って言った。
「分かってる。だが、まずは全員がここを出るのが先だ。り以子を連れてすぐに後を追う。いいか?俺たちには車一台と馬一頭しかないんだ。全員は乗れない」
ダリルは素早く目を配り、野営地に残っている仲間の人数を数えた。ローリとカール、キャロル、ベスとハーシェル、Tドッグ……そしてダリル。盗む心算だった救急車は戻ってきていない。リックの言う通りにする他ないと頭では分かっていたが、後ろ髪引かれる思いを無視しきれず、あっさり頷くのは気が咎めた。
「ダリル、」リックはダリルの上腕を掴み、グレーの目を合わせてきた。「頼む」
刹那の葛藤の末、ダリルはキャロルたちに向かって声を張り上げた。
「行くぞ!車に走れ!」
ダリルは腕の根元から大振りに手招きし、テントの中に転がっていた誰かの荷物を掴んで、先頭を切って走り出した。最後にちらりと振り返ると、人並みの切れ間に、ダリルたちと真逆の方向へ全力疾走するリックの後ろ姿を認めた。汗染みに薄汚れたその背中にすがるように念を残し、ダリルはバイクに跨った。
もはやフェンスには、向こうの林を見ることができないほどにビッシリとウォーカーの群れが張りついていた。興奮状態で、狂乱の嗄れ声を上げ、金網の網目に指や歯を突っ込んだり、顔を押しつけたりしている光景は、あまりに猥雑で見るに堪えない。駆けつけた人々はせり上がる虫唾を呑み込み、銃器を向けて、容赦をかけずに一斉に撃ち込んだ。
銃弾がウォーカーの眉間を抜け、屍が一体崩れ落ちても、その後ろから別のウォーカーが金網にしがみつく。金網はウォーカーの分厚い波に押されてグニャリと歪み始めていた……。
「急げ!フェンスがもう保たない」
「『A』の患者だけ連れて逃げるんだ!」
「早くしろ!──どけ!」
院内は完全にパニック状態だった。自力で歩ける患者は着の身着のまま病室を飛び出し、入れ違いになった家族が必死の形相で名前を呼びながら走り回っている。動けない患者はベッドですすり泣いたり、助けを求めて叫んだり、または逃げようと無茶をして転げ落ち、床の上で弱々しく蠢いたりしていた。
「バイ!──バイ、どこなの?バイ!」
クロエは喉を嗄らして娘を呼び続けた。父親は相変わらず起き上がることも出来ず、彼女の背中では、赤ん坊がつんざくような声を上げ泣き叫んでいる。同室の顔見知りたちは、クロエたち親子には目もくれず、さっさと逃げ出していってしまった。お陰でクロエは父親の側を離れられず、娘の名を叫ぶことしか出来ない。
「バイ!聞こえないの?──バイ!」
「クロエ……」
父親が囁くように言った。霞のように弱々しい声だ。「置いていかないでくれ……お願いだ……」
骨と血管の浮き出た手が持ち上がり、すがるようにクロエの服の袖を掴んだ。クロエは下唇を噛んだ。父親は誰かの手助けなしには避難できない。その人手が今はない。クロエは娘を探しに行かなければならないのに──今この瞬間にも、愛しい娘はどこかで恐怖に泣き叫んでいるはずだ。だって、こんなにも激しく銃が鳴っている。男たちが怒鳴っている。何もかもが、クロエの焦燥を募らせる。
「クロエ……お願いだ……」
「誰か!」クロエは叫んだ。「助けて!お願い、手を貸して!──お願い助けて!」
廊下にはまだ人通りがあったが、誰一人として足を止めてはくれなかった。皆が通り過ぎていく。まるで聞こえていないみたいに。この声が誰にも届かないはずがないのに……。クロエは父親に袖を掴まれた状態で、何度も何度も叫び続けた。
「助けて!」
──。
り以子はベッドに横たわったまま、その叫びを聞いていた。体はぐったり、マットレスに手も足も投げ出して沈み込んでいたけれど、ダークブラウンの瞳は薄汚れた天井を見据え、耳は混沌の喧騒を捉えて、その一つ一つを理解していた。
「……誰か?」
カーテンに囲われた独りぼっちの世界で、り以子は恐る恐る声を上げた。